歴史の紋様を纏う者
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歴史の紋様を纏う者

第一章 刻印と空洞

俺の身体は、一枚の古地図だ。いや、無数の地図を無理矢理に重ね合わせた、解読不能な年代記といった方が正しい。右腕にはローマの剣闘士が浴びたであろう灼熱の陽光と、闘技場の乾いた砂の匂いが染みついた傷跡が走り、左の掌には産業革命時代のロンドンの煤けた空気が作り出した、硬い労働者の痣が刻まれている。

俺、カイには、歴史の特定の瞬間を『呼吸』として吸い込む力があった。

深く息を吸い込むと、過去の断片が奔流となって肺腑を満たす。歓喜、絶望、怒り、愛。あらゆる感情が一度に流れ込み、その記憶の重みに応じて、肉体には象徴的な『傷跡』が刻まれるのだ。それは数日で薄れる儚い刻印だが、消えぬうちに次の歴史を吸えば、過去の傷は新たな傷と混ざり合い、複雑怪奇な『歴史の紋様』として、俺の肌に永遠に定着する。

だが、この力は呪いでもあった。世界が、その厚みを失いつつあるからだ。

人々が歴史を忘れ去るたびに、現実が侵食されていく。かつて鬱蒼とした森が広がっていた場所は、今や背景に描かれた一枚の絵のように薄っぺらくなり、風が吹けばかさかさと紙のような音を立てて揺らめく。街並みは半透明になり、その向こう側が透けて見える始末。人々はそれを『記憶の空洞』と呼び、畏れ、決して近づこうとしない。

俺は書庫の奥深く、埃と古紙の匂いが満ちる中で、錆びついた真鍮の円盤を手にしていた。針が虚空を指して微動だにしない、『時を喰らう羅針盤』。忘れ去られた王国の秘宝だというが、今やただのガラクタにしか見えない。

「また、一つ消えたぞ」

書庫の主である老人が、窓の外を指さして言った。視線を向ければ、街の東地区に聳え立っていたはずの鐘楼が、陽炎のように揺らめき、ゆっくりと透明になっていくところだった。人々の記憶から、あの鐘楼を建てた時代の物語が、また一つ零れ落ちたのだ。

このままでは、世界そのものが消滅する。

俺は羅針盤を強く握りしめた。何者かが、意図的に歴史を消している。その核心には、誰もその名を思い出せない『忘れ去られた王国』の存在があるという。

「行くのか」

老人の声は、乾いた頁をめくる音に似ていた。俺は頷く。

「このまま世界が白紙になるのを、黙って見てるわけにはいかない」

最後の歴史のひとかけらを吸い込んだ。それはフランス革命前夜、バスティーユ牢獄の前に集った民衆の、希望と恐怖が入り混じった息遣い。瞬間、胸に冷たい鉄の枷が食い込むような痛みが走り、新たな傷跡が浮かび上がった。右腕のローマの傷と絡み合い、紋様がまた一つ複雑さを増す。この痛みが、俺がまだここに存在している証だった。

羅針盤を手に、俺は薄くなりゆく世界へと、一歩を踏み出した。

第二章 羅針盤の示す先

旅は、世界の死に様をなぞる行為に等しかった。かつて峻険な山脈だった場所は、今や子供が描いた拙い絵のように平面的で、その輪郭だけが空に貼り付いている。川は流れを失い、ただの銀色の線のようだった。世界のあらゆる音が薄まり、まるで水の中にいるかのような静寂が支配していた。

そんな中で、カイは一人の女と出会った。

「あなた、歴史をその身に宿しているのね」

彼女はリナと名乗った。透き通るような白い肌に、歴史の重みなど微塵も感じさせない軽やかな佇まい。だがその瞳は、古い井戸の底のように深く、カイの身体に刻まれた紋様の本質を見抜いていた。

「俺のことがわかるのか」

「ええ。私の家系は、失われた歴史を守ることを使命としてきたから」

彼女はカイの旅に同行を申し出た。カイが持つ羅針盤に、彼女の一族が代々守ってきたという古文書の知識を合わせれば、きっと『忘れ去られた王国』の最後の記憶にたどり着けるはずだ、と。

彼女の言葉には嘘がないように思えた。何より、この薄っぺらな世界で、自分と同じように歴史の重みを理解する人間の存在は、カイにとって一条の光だった。

二人の旅は続いた。リナが古文書を解読し、カイが羅針盤をかざす。すると、ぴくりとも動かなかった針が、微かに震え始めることがあった。それは、まだ人々の記憶の片隅に、辛うじて残っている歴史の残滓に反応している証拠だった。

そして、ついにその時が来た。二人がたどり着いたのは、広大な盆地。だが、そこには何もなかった。完全に空間が抉り取られたような、絶対的な無。巨大な『記憶の空洞』だ。

「ここよ…」

リナが息を呑む。その瞬間、カイの持つ羅針盤の針が、狂ったように回転を始めた。そして、カチン、と硬質な音を立てて、空洞の中心を指し示した。

周囲の空気が震える。カイの身体中の歴史の紋様が、まるで共鳴するかのように熱を帯び、疼き始めた。羅針盤が、その力を増幅させている。

「最後の記憶が、あそこにある」

カイは空洞の中心を見据えた。ここにある歴史を呼吸すれば、世界を蝕む忘却の連鎖を断ち切れるかもしれない。だが、リナの表情は硬く、その瞳にはカイにも読み取れない深い憂いが浮かんでいた。

第三章 忘れられた王の囁き

記憶の空洞の中心に立つと、世界から切り離されたような感覚に陥った。音も、光も、風さえも、この虚無には届かない。カイは深く、深く息を吸い込む準備をした。羅針盤の光が、彼の身体に刻まれた紋様を淡く照らし出し、過去への扉を開こうとしていた。

「待って、カイ!」

リナの悲鳴のような声が、静寂を切り裂いた。彼女は血の気の引いた顔で、カイの腕を掴んでいた。

「それを吸い込んではだめ。世界が…終わってしまう」

「何を言っているんだ。これを止めなければ、世界はどちらにせよ消えるだけだ」

カイは彼女の手を振り払おうとした。だが、リナは必死に食い下がる。その瞳は、恐怖と懇願で潤んでいた。

「あなたは真実を知らない! 私たちの一族が、なぜ歴史を消し続けてきたのかを!」

その言葉に、カイの動きが止まる。歴史を消してきた? 守るのではなかったのか。

混乱するカイを前に、リナは堰を切ったように語り始めた。彼女こそが、『忘れ去られた王国』の最後の王族の末裔であること。そして、王国が繁栄の極みで手にしてしまった禁断の力――『時間そのものを巻き戻す力』の存在を。

「私たちの祖先は、その力を恐れた。欲望に駆られた人間が手にすれば、世界は無限の歴史の螺旋に囚われ、永遠に未来へ進めなくなる。だから…」

だから、自らの王国ごと、歴史からその存在を消し去ることを選んだ。それが、王家に課せられた最後の封印の儀式だった。リナの一族は、その封印が綻びるたびに、関連する歴史の記憶を人々から消し去り、世界の忘却を促すことで、かろうじて力の解放を防いできたのだ。

「世界が薄くなるのは、封印の代償…。でも、完全に消滅するよりはましだった。なのに、あなたが歴史を呼び覚ますから…!」

リナの告白は、カイの世界を根底から覆した。救済だと思っていた行為が、実は破滅への引き金だったというのか。

だが、もう遅い。羅針盤の力は既に極限まで高まり、カイの意思とは無関係に、空洞の中心に眠る最後の記憶を吸い寄せ始めていた。

「やめて…!」

リナの叫びも虚しく、カイの肺は王国の最後の息吹で満たされた。

―――それは、荘厳な儀式の光景だった。王が玉座で自らの胸に短剣を突き立て、民が詠唱する。彼らは未来のために、自らの存在を歴史から抹消しようとしていた。その王の顔は、リナと瓜二つだった。そして、彼らが封じようとしていた力の、底知れぬ奔流を感じた。時間が、空間が、悲鳴を上げている。

呼吸を終えた瞬間、世界が軋んだ。

第四章 ただ、未来を生きるために

空が割れた。いや、時間が割れたのだ。カイが取り戻した王国の記憶は、最後の楔だった。封印は完全に解かれ、世界は凄まじい勢いで過去へと逆行を始めた。

目の前で、リナが立っていたアスファルトの地面がみるみるうちに土くれに変わり、草が生え、森が隆起する。遠くのビル群は原始の岩山へと姿を変え、空を飛んでいた機械の鳥は、翼竜の影に飲み込まれていく。人々の衣服が古風なものに変わり、やがて獣の皮になる。全てが、始まりへと還っていく。

「これが…我が一族が命を賭して封じてきた力…」

リナは膝から崩れ落ち、絶望に顔を覆った。歴史の螺旋。始まりも終わりもない、永遠の繰り返し。これこそが、忘れられた王が最も恐れた世界の終焉の形だった。

カイは自らの両腕を見下ろした。ローマの傷跡が、産業革命の痣が、バスティーユの枷が、これまでに吸い込んできた全ての歴史が、時間の逆流に呼応して激しく脈打ち、灼熱の光を放っている。それはまるで、カイ自身が小さな歴史の集合体であることを主張しているかのようだった。

代償。

ふと、その言葉が頭をよぎった。何かを得るためには、何かを失わなければならない。歴史を呼吸するたびに、俺は平穏な日常の一部を失ってきた。ならば。

「リナ」

カイは立ち上がり、光り輝く両腕を広げた。

「俺は、過去の番人じゃない。未来を生きたいんだ」

彼は決断した。この身体に刻まれた全ての『歴史の紋様』を、その記憶の全てを、この時間の逆流を止めるための楔として、世界に打ち込むことを。

「カイ、だめ! そんなことをしたら、あなた自身が…!」

リナが叫ぶ。だが、カイは穏やかに微笑んだ。

「ただの人間に戻るだけさ」

カイは最後の呼吸をした。それは、特定の過去ではない。彼自身がこれまでに吸い込んできた、全ての歴史の記憶。喜びも悲しみも、英雄の栄光も名もなき民の祈りも、全てを一度に吐き出す。

身体中の紋様が閃光となって解き放たれ、一本の巨大な光の槍となって、逆巻く時間の奔流の中心を貫いた。

世界が、白く染まる。

どれほどの時が経っただろうか。カイが意識を取り戻した時、目の前にはどこまでも青い空と、涙を流すリナの顔があった。世界の逆行は止まり、街は元の姿に戻っていた。いや、それ以上だ。『記憶の空洞』は全て埋まり、世界は失われた厚みと色彩を取り戻していた。

カイは自分の腕を見た。そこには、もう何の紋様もなかった。ただの、少し日焼けした、若者の滑らかな肌があるだけだった。歴史を呼吸しようとしても、もう何も感じない。古書の匂いも、血の鉄錆の味も、何も。

彼は力を失った。過去と繋がる唯一の術を。

だが、不思議と喪失感はなかった。代わりに、胸を満たすのは、静かな安堵感と、これから始まるであろう未知の時間への、確かな予感だった。

「終わったんだな」

カイの呟きに、リナは何度も頷いた。

二人は、厚みを取り戻した大地に立ち、昇り始めた朝日を見ていた。それは、数多の歴史の果てにたどり着いた、全く新しい一日のはじまりを告げる光だった。カイはもう過去の息吹を感じることはない。だが、その代わりに、頬を撫でる朝の風の中に、未来の匂いを、確かに感じていた。

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