第一章: 夕立と紅い殺意
大正十二年、晩夏。アスファルトの照り返しが、帝都・東京の輪郭をぐにゃりと歪める。
古書店『神宮寺堂』の帳場。丸眼鏡のブリッジを、神宮寺朔太郎は苛立たしげに押し上げた。汗ばんだ額に張り付く、少し長めの黒髪。季節外れの黒いマントの奥、ゆらりと揺れる漆黒の瞳には、微かな狂気が沈殿している。
むせ返るような古紙の黴の匂い。じっとりと肌にまとわりつく重い湿気。
窓の外、空がべっとりと朱に染まっていく。
親指に食い込む、柔らかな気管の感触
また、この幻覚か。
愛おしそうに少女の首を絞める記憶
夕暮れが訪れるたびにフラッシュバックする、血のように赤い空。指先に残る、脈打つ命の生々しい抵抗。
チリン、と澄んだ真鍮の鈴の音。
濃密な白百合の香りが、淀んだ空気を鋭く切り裂く。
入り口に立つ影。色素の薄い亜麻色の髪。ガラス玉のように透き通った翠の瞳。大正の世には不釣り合いな、アンティークレースの白いワンピース。
少女の細い首筋。そこにぐるりと刻印されているのは、生々しい赤い痣。
神宮寺 朔太郎「……いらっしゃい。探し物かい?」
夜半「わかりません。私は、空っぽですから」
温度のない声。大きく上下する朔太郎の喉仏。
ドクン、ドクン、ドクン。
彼女を見た瞬間、胃の腑から這い上がってくる甘美でどす黒い衝動。
この首を、絞めなければならない。
神宮寺 朔太郎「君、名前は?」
朔太郎は震える己の指先を、痛いほど強く噛み締めた。
夜半「夜半、と。それだけしか、覚えていません」
神宮寺 朔太郎「そうか。少し、雨が降るね。ここで雨宿りしていくといい」
ゆっくりと立ち上がる朔太郎。床を擦るマントの裾。
夜半は不思議そうに小首を傾げる。その動作に合わせて露わになる、首の赤い痣。
ひきつけを起こしたように、朔太郎の右手が震え出す。
殺したい。愛おしい。壊したい衝動。
夜半「どうして、そんなに苦しそうに息をするのですか?」
近づく純白のワンピース。肺を満たす白百合の匂い。
朔太郎の指先が、無意識のうちに少女の細い首へと伸びる。
ドシャアアアアッ!
そのとき、外でけたたましく轟く雷鳴。
◇◇◇
第二章: 氷室とノスタルジー
鼓膜を劈くように降り注ぐ蝉時雨。
浅草・六区。そびえ立つ凌雲閣の赤煉瓦が、夏の陽光を鋭く弾く。
千代「朔太郎、また本ばっかり読んで! ほら、冷たいの持ってきたよ!」
おさげ髪を揺らし、大きな赤いリボンを直しながら駆け寄ってくる千代。矢絣の着物に海老茶色の袴。真っ白なエプロンには、カフェーの給仕で跳ねた水滴が光っている。
彼女の小さな手には、ガラス鉢に盛られた氷水(こおりみず)。
神宮寺 朔太郎「ありがとう、千代。いつもすまないね」
千代「夜半も、はい! 苺の蜜、たっぷりかけておいたからね!」
翠の瞳を瞬かせ、木製の匙を受け取る夜半。
氷をすくい、おそるおそる口へ運ぶ。
舌の上で鋭く弾ける氷の冷たさと、突き刺さるような蜜の甘さ。
ドクン。
夜半の瞳孔が、わずかに見開かれた。
夜半「冷たいです。でも……とても、甘い」
ガラス細工のような顔に生まれた、初めての無垢な綻び。
朔太郎の胸の奥で、張り詰めていた糸がふわりと緩む。このかりそめの日常。風車の回る音。金平糖のようなささやかな平穏。
突如、足元の石畳が不気味な地鳴りを上げる。
ゴゴゴゴゴ……!
卓から滑り落ち、甲高い音を立てて砕け散る氷水の鉢。
見上げる空。夏の青空が、油絵の具を掻き回したようにどろりと歪んでいく。
千代「きゃっ……! また地震!?」
朔太郎のマントの袖を強く握りしめる千代。
群衆がざわめく中、土埃の向こうから近づいてくる規則正しい軍靴の足音。
かっちりとなでつけた黒髪。獲物を狙う鷹のような三白眼。帝国陸軍の軍服を隙なく着こなす男の腰には、軍刀が鈍い光を放っている。
神宮寺 朔太郎「……柊」
柊 宗一郎「探したぞ、神宮寺。感傷に浸る時間は終わりだ」
恩賜の煙草を革靴で揉み消す柊。その手が、流れるような動作で腰のホルスターへ伸びる。
柊 宗一郎「大義のためだ、諦めろ。その『厄災の器』から離れろ」
銃口の黒い穴が、真っ直ぐに夜半の眉間を捉えていた。
◇◇◇
第三章: 残酷なループの真実
微かな硝煙の匂いが混じる、路地裏の湿った空気。
銃口を向けられた夜半は、翠の瞳を伏せたまま微動だにしない。
柊 宗一郎「お前は何も覚えていないようだがな。そいつは人間ではない。九月一日に帝都を襲う『大震災』を鎮めるための、龍脈の人柱だ」
柊の薄い唇から紡がれる言葉。それが冷たい刃となって、朔太郎の鼓膜を削る。
柊 宗一郎「思い出すんだ、神宮寺。お前は過去何度も、その手でそいつの首を絞め、十万の命を救ってきた英雄だろうが!」
脳髄を焼き切るような閃光
ループの記憶
紅い夕焼け。少女の首に手をかける自分。崩れ落ちる街。炎の海。
自分が彼女を愛してしまい、殺せなかった時のみ、帝都は壊滅の運命を辿る。
夕暮れの幻覚は、狂気ではなかった。過去の自分が繰り返してきた、凄惨な儀式の残滓。
膝から力が抜け、冷たい石畳に崩れ落ちる朔太郎。喉の奥で詰まった嗚咽が、血の味を伴って漏れ出す。
神宮寺 朔太郎「僕が、君を……何度も……?」
凍りつくように冷たい指先。己の掌が、ひどく悍ましい汚物のように思える。
ゆっくりと歩み寄る夜半。彼女は冷え切った朔太郎の手を、両手で優しく包み込んだ。
夕日に照らされ、痛々しく浮かび上がる首の赤い痣。
夜半「私が死ねば、皆が永遠に幸せになれるんですよね?」
ガラス玉の瞳から零れ落ちる、一滴の雫。
夜半「どうか私を殺して、世界を救ってください」
美しすぎる微笑み。その無垢な自己犠牲の刃が、朔太郎の魂を粉々に千切り裂いた。
◇◇◇
第四章: すれ違いと自己犠牲
運命の九月一日、暁闇。
不気味なほどの静寂に包まれた『神宮寺堂』の店内。
夜半の姿は、どこにもない。
窓辺に取り残されているのは、彼女が大切に集めていたガラス細工の鳥だけ。
僕を殺人鬼にしないために、彼女は一人で『龍脈の座』へ向かったのか。
マントを翻し、店を飛び出そうとした朔太郎の背中を掴む小さな手。
千代「行かないでよ! どこに行くの!? 今日はお祭りに行くって、約束したじゃない!」
千代の大きな瞳から溢れ出す、ぽろぽろという涙。矢絣の袖を握る手にこもる、すがるような力。
神宮寺 朔太郎「少し、雨が降るね。……ごめんよ、千代」
その手を、優しく、だが決定的に振り払う朔太郎。
振り返ることなく駆け出した朔太郎。その前を塞いだのは、抜き身の軍刀を構えた柊。
柊 宗一郎「行かせるわけにはいかん。彼女が犠牲になれば、帝都は救われるのだ!」
神宮寺 朔太郎「どけ。僕はもう、誰かの命を天秤にかけるのはやめたんだ」
空を裂く銀閃。
朔太郎の肩口を、軍刀の刃が深く抉る。傷口から噴き出す熱い鮮血。口の中に広がる、ねっとりとした血の鉄の味。
だが朔太郎は止まらない。丸眼鏡の奥の瞳を支配する、剥き出しの狂気。
懐から取り出したのは、古びた懐中時計型の起爆装置。特務機関の地下へと続く、龍脈防衛網の要。
柊 宗一郎「まさか……それを破壊すれば、地殻が崩壊するぞ! 帝都を、十万の命を見捨てるというのか!」
神宮寺 朔太郎「ああ! 世界なんて、どうなってもいい!!」
ガキンッ!!
血塗れの指先が、狂喜とともに起爆装置のスイッチを押し込む。
警告:帝都防衛システム、強制停止。龍脈の臨界を突破しました
足元から響き渡る、世界そのものがひび割れるような絶望的な轟音。
運命の歯車が、最悪の方向へと狂い始めた。
◇◇◇
第五章: 灰の雪と歪んだ救済
九月一日、正午。
特務機関の地下深く。広大な空洞に広がる『龍脈の座』。
蒼白い光が乱反射する祭壇の中央で、膝を抱えてうずくまる夜半。
響く足音。
血に塗れ、荒い息を吐きながら、朔太郎が祭壇へと転がり込んでくる。
夜半「どうして……どうして来たのですか! 私が死ななければ、世界が……!」
何も答えない朔太郎。
ただ強く、乱暴に、その細い体を抱きしめる。
夜半の亜麻色の髪から立ち昇る、白百合の香りと微かな汗の匂い。
朔太郎の傷口から流れる生温かい血が、彼女の純白のワンピースを禍々しく赤く染め上げていく。
重なり合う鼓動。溶け合うように混ざり合う、二人の体温。
首筋の赤い痣。そこに、朔太郎の震える唇がそっと這う。
神宮寺 朔太郎「君を殺さない世界を、ずっと探していた」
その瞬間。
ゴアアアアアアアッ!!!
弾け飛ぶ頭上の岩盤。
防衛網を失った龍脈エネルギーが暴走し、史実を遥かに凌駕する未曾有の大震災が帝都を蹂躙し始める。
街を飲み込む地割れ。浅草の六区では、誇り高き凌雲閣が轟音と共に中腹からへし折れる。
天を焦がす紅蓮の炎。地獄の釜の底から響くように谺する、十万の悲鳴。
龍脈の底から溢れ出し、地下空洞を吹き抜ける圧倒的な光と熱風。
焦げた肉の匂い。肌を刺す灰のざらつき。
天窓の崩落跡から舞い落ちてくる真っ赤に燃え盛る火の粉は、まるで美しい雪のよう。
夜半「世界が……壊れていく……私のせいで……」
神宮寺 朔太郎「綺麗だね。ずっと、君にこれを見せたかった」
灰の雪が降り注ぐ中、強く握り合う二人の手。
外で燃え盛る、十万の命という代償。
誰かの幸福を踏みにじり、世界の全てを犠牲にして手に入れた、狂おしくも清冽なカタルシス。
狂気に満ちた美しい廃墟の底で、二人は初めて、心からの微笑みを交わした。