チグリスはインクと血でできている

チグリスはインクと血でできている

主な登場人物

イブラヒム
イブラヒム
62歳 / 男性
インクで黒く染まった指先、猫背、擦り切れた学者のローブ。白髪交じりのボサボサの髭。
バヤン
バヤン
35歳 / 男性
手入れされた重厚な鎧、無表情で冷ややかな目つき、綺麗に剃り上げられた頭部。
8 4764 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:
表示モード:

第1章: 終焉の静寂

死んでいた。チグリス川が。

かつて青く澄んでいた水面は今、どす黒い漆黒と、鮮烈な緋色のマーブル模様を描いて淀んでいる。黒は、上流の「知恵の館」から投げ込まれた何万冊もの書物が溶け出したインクの涙。赤は、モンゴル騎兵に撫で斬りにされた市民たちの血潮だ。

川岸に建つ巨大な図書館の奥深く。イブラヒムは外界の轟音を遮断するように、一枚の羊皮紙にしがみついている。

六十二歳。背中は長年の書き写し作業で枯れ木のように曲がり、学者のローブはパピルスの粉塵と黴の匂いに蝕まれ、本来の藍色を失っている。ボサボサの髭の隙間から、充血した瞳が神経質に周囲を走る。

指先は黒い。皮膚の皺の奥まで染み込んだインクで、まるで炭化しているかのように。

「まだだ……まだ、これだけは」

抱きしめているのは、アリストテレスの写本でも、預言者の言行録でもない。名もなき詩人が、愛する女のためだけに書き残した未発表の恋文。歴史的価値など皆無。だが、この文字の羅列が放つ「切実さ」だけが、崩壊する世界で唯一の実存であるかのように、彼はそれを胸に押し付けていた。

ドォォォォン……!

破城槌の衝撃。石造りの壁が震え、天井から白い砂塵が筋を引いて落ちる。

その時だ。書架の陰から、小動物のような影が飛び出してきたのは。

「おい、じいさん!」

弾かれたように顔を上げる。そこにいたのは、サイズの合わない男物のチュニックを腰紐で無理やり縛った、一人の少女。煤と泥でコーティングされた頬の中で、一対の瞳だけが異様なほど強く輝いている。

琥珀色。透き通るような茶色の中に宿る、飢えた獣の光。

「な、なんだお前は。ここは神聖な……」

「神聖もクソもあるかよ。外を見てみな」

少女――ザーラは鼻を鳴らし、イブラヒムの手元を顎でしゃくった。

「その紙、よこしな。よく燃えそうだ」

「なに……?」

「寒いんだよ。夜になればもっと冷える。本なんて燃やして、暖まりましょうよ」

彼女の手には火打ち石。イブラヒムの全身の毛が逆立つ。本を燃やす? この知の結晶を、ただの燃料にするというのか。

「触るな! 野蛮人が!」

絶叫。羊皮紙を背中に隠す。ザーラは呆れたように肩をすくめた。

「あんた、死ぬよ。その紙きれと一緒に」

直後、図書館の扉が粉砕された。熱風と怒号。聖域への雪崩込み。

第2章: 紙の上のぬくもり

地下貯蔵庫の空気は、腐った水と乾いた皮の臭いで満ちていた。

偶然の崩落によって塞がれた閉鎖空間。イブラヒムとザーラは身を寄せ合う。頭上からは絶え間ない軍靴の響きと、何かを引きずり回す不吉な音。

暗闇。イブラヒムは震える手で蝋燭に火を灯した。揺らめく炎が、ザーラのあどけない、しかし酷く疲労した顔を浮かび上がらせる。

「……腹減った」

膝を抱えての呟き。イブラヒムは無視を決め込むつもりだったが、彼女の視線が懐の羊皮紙に注がれていることに気づき、反射的に身構えた。

「これは食えんぞ」

「わかってるよ、ケチ」

ザーラは地面に指で何かを描き始めた。丸い形。パンだ。

「文字、読めるのか?」

「まさか。泥棒に学問はいらないって、死んだ親父が言ってた」

イブラヒムは、ふと、懐の羊皮紙を取り出す。そして、ザーラが描いた不格好な円の横に、指で『خبز(パン)』と綴った。

「これが、パンだ」

「はあ? 似てないじゃん。もっとこう、ふっくらしてるだろ」

「形の話ではない。この文字が、パンという概念そのものを表しているのだ」

無心に、床の埃の中に次々と単語を刻む。『水』『火』『生』。

ザーラは最初つまらなそうに眺めていたが、やがてその琥珀色の瞳を細め、イブラヒムの黒ずんだ指先の動きを追い始めた。

「……ふーん。魔法みたいだね」

「魔法?」

「だって、じいさんがその線を書くだけで、私の頭の中にパンの匂いがしてくるんだもん」

イブラヒムの手が止まる。

生涯、文字を「情報を固定するための鎖」だと思ってきた。だが、この無学な少女にとって、文字は匂いや温度を運ぶ「管」だったのだ。

「……お前の名前は」

「ザーラ」

「ザーラ。花か。……美しい名だ」

埃の上に『زهرة』と書く。ザーラは恐る恐る手を伸ばし、その文字の上をなぞった。

「これが、私?」

「そうだ。お前が死んでも、この文字がある限り、お前はここにいる」

指先の微かな震え。彼女はその文字の上に、自分の汚れた手を重ね、じっとその熱を感じ取るように押し付けた。

「あったかいね」

その一言。イブラヒムの凍り付いていた胸郭がこじ開けられる。

文字は記録ではない。体温だ。千年前の死者の熱を、今ここに伝えるための媒体。

だが、そのささやかな授業は、頭上の瓦礫が取り除かれる音によって無慈悲に中断された。

差し込む光。その逆光の中に浮かぶ、悪魔の角のような兜のシルエット。

第3章: 残酷な選別

引きずり出された広場は、焦げた肉の臭気で充満していた。

泥濘に膝をつかされる二人。目の前には、手入れの行き届いた重厚なラメラーアーマー。モンゴルの将軍、バヤン。

兜を脱いだ頭部は綺麗に剃り上げられ、青白い頭皮が砂漠の太陽を反射している。感情の一切を削ぎ落とした、爬虫類のような冷たい視線。

「知恵の館の司書か」

よく研がれた刃物のような声。滑らかで、硬い。

「我が軍は破壊を好むが、統治には秩序が必要だ。……貴様の頭の中にある知識、我々のために使う気はあるか?」

喉が鳴る。乾いた舌が上顎に張り付く。

「しょ、書物は……本は、守ってくださるのですか」

「役に立つならな。だが」

バヤンの視線が、隣で震えるザーラへ。

「無能な口減らしは不要だ。その薄汚い鼠は、ここで処分せよ」

腰の弯刀には手をかけない。ただ顎で、部下に合図を送るだけ。

それは「選択」ですらない。事務処理。

心臓が早鐘を打つ。

断れば、二人とも死ぬ。本も燃やされる。

従えば、私は生き残り、知識も守られる。

だが、この少女は――。

ザーラが、イブラヒムのローブの裾を掴んだ。弱々しく、しかし確かな救難信号。

琥珀色の瞳が見上げている。「教えてくれたじゃないか」と、その目は訴えていた。「文字は、温かいんだろ?」

「あ……あぅ……」

空気の漏れる音。

次の瞬間。

彼は、ザーラの手を、自分のローブから振り払っていた。

「わ、私は……学者だ! 役に立つ! 帝国の、役に立つ!」

裏返った絶叫。バヤンの足元に額を擦り付ける。

ザーラの体が硬直する。何も言わない。罵りもしない。ただ、糸が切れた人形のように、光を失った目で老人を見つめただけ。

「賢明だ」

バヤンの短い宣告。ザーラは兵士たちによって乱暴に引き立てられていく。

地面に二本の線を描く、彼女の小さな靴。

イブラヒムはその背中を見ることができない。自分の黒く汚れた手が、激しく痙攣しているのを凝視することしかできなかった。

第4章: 黄金の檻

モンゴル軍の天幕。春のような暖かさ。

敷き詰められた厚手の絨毯。銀の盆に山と積まれた未知の果物。与えられた机には、最高級のサマルカンド紙と、滑らかな筆、そして金粉を混ぜたインク。

「書け。我が軍の偉業を。歴史は勝者が作るのだ」

バヤンの命令。イブラヒムは筆を走らせる。

だが、書けない。

白い紙の上に落ちたインクの染みが、ザーラの瞳に見えた。

風が天幕を揺らす音が、彼女の悲鳴に聞こえる。

『あったかいね』

あの地下室での言葉が、呪いのように耳元で反響する。

イブラヒムにとって、豪華な食事は砂の味だった。守ったはずの「知識」は、今やただのインクの染み。人間がいなければ、読み手がいなければ、本はただの死んだ皮だ。

「私は……何を守ったのだ」

夜、天幕の中での慟哭。

涙が机の上に落ち、書きかけの羊皮紙を濡らす。

ザーラは、自分がゴミのように死ぬ運命だと信じていた。

そして、自分はそれを証明してしまった。あの子をゴミとして捨てたのだ。

「違う……」

震える手で筆を握りしめる。竹の軸がミシミシと音を立てるほどの力で。

「違う、違う、違う!!」

書き始めた。

表向きは、バヤン将軍への「賛美歌」。美辞麗句を並べ立て、その武勇を称える詩。

だが、その行間、言葉の選び方、韻律の裏側に、歴史上最も痛烈な「呪詛」を埋め込む。

モンゴルの残虐さ、文化への冒涜、そして何より、一人の少女を見殺しにした自分自身の卑劣さへの、血を吐くような告発文を。

筆先が紙を裂くほどの勢い。

インク壺が倒れ、黄金色のインクが赤い絨毯に広がる。それはまるで、血のように見えた。

第5章: 最後の1ページ

処刑広場。略奪された書物が山のように積み上げられている。

勝利の宴の余興として、それらを燃やすのだという。その傍らに繋がれた捕虜たち。その中に、ぐったりとしたザーラの姿。

「将軍閣下!」

イブラヒムは、完成した書物を掲げて進み出た。

その目は、数日前の怯えた老人のものではない。眼窩の奥で、狂気じみた青白い炎が燃え盛っている。

「『帝国の栄光』が完成いたしました。どうか、この焚刑の火にかざし、その輝きをご覧ください」

「ほう、殊勝な心がけだ」

バヤンが馬上で手を伸ばす。

イブラヒムは、巻物を渡すふりをして、袖口に隠し持っていた「火種」を握りしめた。地下室でザーラが持っていた、あの火打ち石と、油を含ませた布。

彼はバヤンの馬の鼻先をかすめ、積み上げられた書物の山ではなく、その横に置かれた「火薬樽」へと突進した。

「読めるものなら読んでみろ! これが私の、魂の記述だぁぁぁ!!」

「貴様ッ!?」

バヤンの叫びと同時に、火種を投擲。

カッッッ!!!!

視界が白一色に染まる。

鼓膜を突き破る轟音。爆風がイブラヒムの体を木の葉のように吹き飛ばす。

燃え盛る書物の破片が、火の鳥となって空を舞った。

混乱の極み。嘶く馬、逃げ惑う兵士たち。

イブラヒムは、脇腹に熱い鉄串を刺されたような激痛を感じながらも、這いずった。

血反吐を吐きながら、ザーラのもとへ。

「……じい、さん?」

煤だらけのザーラが、薄目を開ける。

「立て、ザーラ! 走れ!」

隠し持っていた筆の鋭利な折れ端で、強引に縄を引きちぎる。

「なんで……あんた、私を捨てたじゃんか……」

「そうだ! 私はクズだ! だから……せめて最期くらい、人間として死なせろ!」

懐から一枚の羊皮紙を押し付ける。

あの告発文ではない。その裏に、昨夜、血の混じった涙で書き記した、たった数行の詩。

「持っていけ。それは、お前だ」

「え?」

「私が歴史を記録した。だが、お前は……お前は、歴史を作れ!」

残る力を振り絞り、ザーラの背中を突き飛ばす。

同時に、背後から迫ったモンゴル兵の槍が、イブラヒムの背中を貫いた。

「行けェェェェ!!」

鮮血の噴出。彼は崩れ落ちながらも、炎の壁となって追っ手を遮る。

視界の端、走り出す小さな影。

夜明けの光が、砂漠の地平線を紫色に染め始めている。

燃え落ちる図書館の炎よりも、川を染める血よりも鮮やかな、生の光。

少女は一度も振り返らなかった。

その胸に、老人の命と、世界で一番温かい文字が刻まれた紙を抱いて。

チグリス川は今日も流れる。インクは薄まり、血は洗われるだろう。

だが、物語は消えない。

一人の少女が、荒野の向こうへ走り続ける限り。

AI物語分析

【物語の考察:インクと血の等価交換】

本作の根底に流れるのは、「知識(インク)」と「生命(血)」の対比である。冒頭、チグリス川で混じり合うこの二色は、イブラヒムが天秤にかけた二つの価値だ。彼は当初、血(ザーラ)を捨ててインク(本)を選んだ。しかし、「文字=体温」というザーラの直感的な真理に触れ、最終的に彼は「自分の血」をインクとして使い、ザーラという「生きた書物」を後世に残すことを選ぶ。これは、記録媒体としての「紙」の敗北と、継承者としての「人間」の勝利を描いている。

【メタファーの解説:黄金の檻とパンの円】

バヤンが与えた黄金のインクは、権力による「歴史の改竄」の象徴だ。美しく輝くが、そこには真実(体温)がない。対して、ザーラが地下室の埃に描いた歪な円(パン)は、形は不格好でも生存への切実な欲求、つまり「真実」を含んでいた。イブラヒムが最後にバヤンへ渡したのが黄金の虚飾であり、ザーラに託したのが汚れた羊皮紙の詩であったことは、何が本当の意味で「後世に残すべき価値」なのかを雄弁に物語っている。

この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る