第1章: 終焉の静寂
死んでいた。チグリス川が。
かつて青く澄んでいた水面は今、どす黒い漆黒と、鮮烈な緋色のマーブル模様を描いて淀んでいる。黒は、上流の「知恵の館」から投げ込まれた何万冊もの書物が溶け出したインクの涙。赤は、モンゴル騎兵に撫で斬りにされた市民たちの血潮だ。
川岸に建つ巨大な図書館の奥深く。イブラヒムは外界の轟音を遮断するように、一枚の羊皮紙にしがみついている。
六十二歳。背中は長年の書き写し作業で枯れ木のように曲がり、学者のローブはパピルスの粉塵と黴の匂いに蝕まれ、本来の藍色を失っている。ボサボサの髭の隙間から、充血した瞳が神経質に周囲を走る。
指先は黒い。皮膚の皺の奥まで染み込んだインクで、まるで炭化しているかのように。
「まだだ……まだ、これだけは」
抱きしめているのは、アリストテレスの写本でも、預言者の言行録でもない。名もなき詩人が、愛する女のためだけに書き残した未発表の恋文。歴史的価値など皆無。だが、この文字の羅列が放つ「切実さ」だけが、崩壊する世界で唯一の実存であるかのように、彼はそれを胸に押し付けていた。
ドォォォォン……!
破城槌の衝撃。石造りの壁が震え、天井から白い砂塵が筋を引いて落ちる。
その時だ。書架の陰から、小動物のような影が飛び出してきたのは。
「おい、じいさん!」
弾かれたように顔を上げる。そこにいたのは、サイズの合わない男物のチュニックを腰紐で無理やり縛った、一人の少女。煤と泥でコーティングされた頬の中で、一対の瞳だけが異様なほど強く輝いている。
琥珀色。透き通るような茶色の中に宿る、飢えた獣の光。
「な、なんだお前は。ここは神聖な……」
「神聖もクソもあるかよ。外を見てみな」
少女――ザーラは鼻を鳴らし、イブラヒムの手元を顎でしゃくった。
「その紙、よこしな。よく燃えそうだ」
「なに……?」
「寒いんだよ。夜になればもっと冷える。本なんて燃やして、暖まりましょうよ」
彼女の手には火打ち石。イブラヒムの全身の毛が逆立つ。本を燃やす? この知の結晶を、ただの燃料にするというのか。
「触るな! 野蛮人が!」
絶叫。羊皮紙を背中に隠す。ザーラは呆れたように肩をすくめた。
「あんた、死ぬよ。その紙きれと一緒に」
直後、図書館の扉が粉砕された。熱風と怒号。聖域への雪崩込み。
第2章: 紙の上のぬくもり
地下貯蔵庫の空気は、腐った水と乾いた皮の臭いで満ちていた。
偶然の崩落によって塞がれた閉鎖空間。イブラヒムとザーラは身を寄せ合う。頭上からは絶え間ない軍靴の響きと、何かを引きずり回す不吉な音。
暗闇。イブラヒムは震える手で蝋燭に火を灯した。揺らめく炎が、ザーラのあどけない、しかし酷く疲労した顔を浮かび上がらせる。
「……腹減った」
膝を抱えての呟き。イブラヒムは無視を決め込むつもりだったが、彼女の視線が懐の羊皮紙に注がれていることに気づき、反射的に身構えた。
「これは食えんぞ」
「わかってるよ、ケチ」
ザーラは地面に指で何かを描き始めた。丸い形。パンだ。
「文字、読めるのか?」
「まさか。泥棒に学問はいらないって、死んだ親父が言ってた」
イブラヒムは、ふと、懐の羊皮紙を取り出す。そして、ザーラが描いた不格好な円の横に、指で『خبز(パン)』と綴った。
「これが、パンだ」
「はあ? 似てないじゃん。もっとこう、ふっくらしてるだろ」
「形の話ではない。この文字が、パンという概念そのものを表しているのだ」
無心に、床の埃の中に次々と単語を刻む。『水』『火』『生』。
ザーラは最初つまらなそうに眺めていたが、やがてその琥珀色の瞳を細め、イブラヒムの黒ずんだ指先の動きを追い始めた。
「……ふーん。魔法みたいだね」
「魔法?」
「だって、じいさんがその線を書くだけで、私の頭の中にパンの匂いがしてくるんだもん」
イブラヒムの手が止まる。
生涯、文字を「情報を固定するための鎖」だと思ってきた。だが、この無学な少女にとって、文字は匂いや温度を運ぶ「管」だったのだ。
「……お前の名前は」
「ザーラ」
「ザーラ。花か。……美しい名だ」
埃の上に『زهرة』と書く。ザーラは恐る恐る手を伸ばし、その文字の上をなぞった。
「これが、私?」
「そうだ。お前が死んでも、この文字がある限り、お前はここにいる」
指先の微かな震え。彼女はその文字の上に、自分の汚れた手を重ね、じっとその熱を感じ取るように押し付けた。
「あったかいね」
その一言。イブラヒムの凍り付いていた胸郭がこじ開けられる。
文字は記録ではない。体温だ。千年前の死者の熱を、今ここに伝えるための媒体。
だが、そのささやかな授業は、頭上の瓦礫が取り除かれる音によって無慈悲に中断された。
差し込む光。その逆光の中に浮かぶ、悪魔の角のような兜のシルエット。
第3章: 残酷な選別
引きずり出された広場は、焦げた肉の臭気で充満していた。
泥濘に膝をつかされる二人。目の前には、手入れの行き届いた重厚なラメラーアーマー。モンゴルの将軍、バヤン。
兜を脱いだ頭部は綺麗に剃り上げられ、青白い頭皮が砂漠の太陽を反射している。感情の一切を削ぎ落とした、爬虫類のような冷たい視線。
「知恵の館の司書か」
よく研がれた刃物のような声。滑らかで、硬い。
「我が軍は破壊を好むが、統治には秩序が必要だ。……貴様の頭の中にある知識、我々のために使う気はあるか?」
喉が鳴る。乾いた舌が上顎に張り付く。
「しょ、書物は……本は、守ってくださるのですか」
「役に立つならな。だが」
バヤンの視線が、隣で震えるザーラへ。
「無能な口減らしは不要だ。その薄汚い鼠は、ここで処分せよ」
腰の弯刀には手をかけない。ただ顎で、部下に合図を送るだけ。
それは「選択」ですらない。事務処理。
心臓が早鐘を打つ。
断れば、二人とも死ぬ。本も燃やされる。
従えば、私は生き残り、知識も守られる。
だが、この少女は――。
ザーラが、イブラヒムのローブの裾を掴んだ。弱々しく、しかし確かな救難信号。
琥珀色の瞳が見上げている。「教えてくれたじゃないか」と、その目は訴えていた。「文字は、温かいんだろ?」
「あ……あぅ……」
空気の漏れる音。
次の瞬間。
彼は、ザーラの手を、自分のローブから振り払っていた。
「わ、私は……学者だ! 役に立つ! 帝国の、役に立つ!」
裏返った絶叫。バヤンの足元に額を擦り付ける。
ザーラの体が硬直する。何も言わない。罵りもしない。ただ、糸が切れた人形のように、光を失った目で老人を見つめただけ。
「賢明だ」
バヤンの短い宣告。ザーラは兵士たちによって乱暴に引き立てられていく。
地面に二本の線を描く、彼女の小さな靴。
イブラヒムはその背中を見ることができない。自分の黒く汚れた手が、激しく痙攣しているのを凝視することしかできなかった。
第4章: 黄金の檻
モンゴル軍の天幕。春のような暖かさ。
敷き詰められた厚手の絨毯。銀の盆に山と積まれた未知の果物。与えられた机には、最高級のサマルカンド紙と、滑らかな筆、そして金粉を混ぜたインク。
「書け。我が軍の偉業を。歴史は勝者が作るのだ」
バヤンの命令。イブラヒムは筆を走らせる。
だが、書けない。
白い紙の上に落ちたインクの染みが、ザーラの瞳に見えた。
風が天幕を揺らす音が、彼女の悲鳴に聞こえる。
『あったかいね』
あの地下室での言葉が、呪いのように耳元で反響する。
イブラヒムにとって、豪華な食事は砂の味だった。守ったはずの「知識」は、今やただのインクの染み。人間がいなければ、読み手がいなければ、本はただの死んだ皮だ。
「私は……何を守ったのだ」
夜、天幕の中での慟哭。
涙が机の上に落ち、書きかけの羊皮紙を濡らす。
ザーラは、自分がゴミのように死ぬ運命だと信じていた。
そして、自分はそれを証明してしまった。あの子をゴミとして捨てたのだ。
「違う……」
震える手で筆を握りしめる。竹の軸がミシミシと音を立てるほどの力で。
「違う、違う、違う!!」
書き始めた。
表向きは、バヤン将軍への「賛美歌」。美辞麗句を並べ立て、その武勇を称える詩。
だが、その行間、言葉の選び方、韻律の裏側に、歴史上最も痛烈な「呪詛」を埋め込む。
モンゴルの残虐さ、文化への冒涜、そして何より、一人の少女を見殺しにした自分自身の卑劣さへの、血を吐くような告発文を。
筆先が紙を裂くほどの勢い。
インク壺が倒れ、黄金色のインクが赤い絨毯に広がる。それはまるで、血のように見えた。
第5章: 最後の1ページ
処刑広場。略奪された書物が山のように積み上げられている。
勝利の宴の余興として、それらを燃やすのだという。その傍らに繋がれた捕虜たち。その中に、ぐったりとしたザーラの姿。
「将軍閣下!」
イブラヒムは、完成した書物を掲げて進み出た。
その目は、数日前の怯えた老人のものではない。眼窩の奥で、狂気じみた青白い炎が燃え盛っている。
「『帝国の栄光』が完成いたしました。どうか、この焚刑の火にかざし、その輝きをご覧ください」
「ほう、殊勝な心がけだ」
バヤンが馬上で手を伸ばす。
イブラヒムは、巻物を渡すふりをして、袖口に隠し持っていた「火種」を握りしめた。地下室でザーラが持っていた、あの火打ち石と、油を含ませた布。
彼はバヤンの馬の鼻先をかすめ、積み上げられた書物の山ではなく、その横に置かれた「火薬樽」へと突進した。
「読めるものなら読んでみろ! これが私の、魂の記述だぁぁぁ!!」
「貴様ッ!?」
バヤンの叫びと同時に、火種を投擲。
カッッッ!!!!
視界が白一色に染まる。
鼓膜を突き破る轟音。爆風がイブラヒムの体を木の葉のように吹き飛ばす。
燃え盛る書物の破片が、火の鳥となって空を舞った。
混乱の極み。嘶く馬、逃げ惑う兵士たち。
イブラヒムは、脇腹に熱い鉄串を刺されたような激痛を感じながらも、這いずった。
血反吐を吐きながら、ザーラのもとへ。
「……じい、さん?」
煤だらけのザーラが、薄目を開ける。
「立て、ザーラ! 走れ!」
隠し持っていた筆の鋭利な折れ端で、強引に縄を引きちぎる。
「なんで……あんた、私を捨てたじゃんか……」
「そうだ! 私はクズだ! だから……せめて最期くらい、人間として死なせろ!」
懐から一枚の羊皮紙を押し付ける。
あの告発文ではない。その裏に、昨夜、血の混じった涙で書き記した、たった数行の詩。
「持っていけ。それは、お前だ」
「え?」
「私が歴史を記録した。だが、お前は……お前は、歴史を作れ!」
残る力を振り絞り、ザーラの背中を突き飛ばす。
同時に、背後から迫ったモンゴル兵の槍が、イブラヒムの背中を貫いた。
「行けェェェェ!!」
鮮血の噴出。彼は崩れ落ちながらも、炎の壁となって追っ手を遮る。
視界の端、走り出す小さな影。
夜明けの光が、砂漠の地平線を紫色に染め始めている。
燃え落ちる図書館の炎よりも、川を染める血よりも鮮やかな、生の光。
少女は一度も振り返らなかった。
その胸に、老人の命と、世界で一番温かい文字が刻まれた紙を抱いて。
チグリス川は今日も流れる。インクは薄まり、血は洗われるだろう。
だが、物語は消えない。
一人の少女が、荒野の向こうへ走り続ける限り。