第一章 緋色の残像
桐谷朔(きりや さく)の指先は、歴史という名の広大な海に触れるための、鋭敏な触覚だった。古文書や遺物の修復師である彼には、生まれつきの秘密があった。乾いた革や、錆びた金属、風化した木片に触れると、その物体が「見てきた」光景や音の断片が、脳裏に奔流となって流れ込んでくるのだ。それは祝福であり、呪いでもあった。断片的な情報は真実の核心を突くこともあれば、文脈を失った幻影として彼を惑わすこともあったからだ。だからこそ朔は、自身の能力を忌避し、あくまで文献や科学的分析に基づいた「客観的な事実」こそが歴史の真実だと信じていた。
その日、朔の工房に持ち込まれたのは、これまでどの歴史書にも登場しない、地方豪族の蔵から発見されたという古びた革鎧だった。時代は戦国末期か。しかし、その様式はどの流派にも属さず、無骨で、実用性のみを追求したかのような異様な雰囲気を纏っていた。依頼主である大学の歴史研究所は、この「名もなき兵士の鎧」の年代特定と修復を朔に託したのだ。
工房の静寂の中、朔は覚悟を決めて、硬化した革の肩当てにそっと指を触れた。
瞬間、世界が反転した。
鬨の声が鼓膜を突き破り、血と泥の匂いが鼻腔を満たす。視界は激しく揺れ、眼前で火花を散らす刃、絶叫と共に崩れ落ちる人々の姿が明滅する。これは戦場だ。鎧の持ち主が見た記憶。朔は歯を食いしばり、情報の濁流に耐える。やがて視界が、一点に収束した。
馬上で采配を振るう、壮麗な兜を纏った武将。その顔には見覚えがあった。この地方の歴史において、戦の天才と謳われ、領民に深く愛された英雄、橘高景虎(きったか かげとら)。正史によれば、彼は天下統一を目前に、陣中で病に倒れたとされている。
だが、朔が見ているビジョンは、その歴史を嘲笑っていた。鎧の主は、泥濘に足を取られながらも、一心不乱に景虎へと突き進む。その手には、月光を鈍く反射する槍が握られていた。そして――槍が、英雄の胸を貫いた。驚愕に見開かれた景虎の瞳が、鎧の主を、そして朔を射抜く。緋色の血が、漆黒の鎧に飛沫となって散った。
ビジョンが途絶え、朔は工房の床に膝をついていた。心臓が激しく波打ち、冷たい汗が背筋を伝う。「馬鹿な……」絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。病死ではなかったのか。英雄・橘高景虎は、名もなき一兵卒に暗殺された?
公式の歴史と、自らの能力が示した残像。その間に横たわる、あまりにも巨大な亀裂。朔は、初めて自らの能力が示したものを、心の底から解明したいという衝動に駆られていた。それは、客観的な事実を追い求めてきた彼自身の信条を揺るがす、危険な好奇心の芽生えだった。
第二章 沈黙の伝承
朔は数日後、革鎧が発見された山間の地、旧橘高領を訪れていた。修復作業を一時中断し、自らの目で見たビジョンの裏付けを取るためだ。しかし、彼の調査はことごとく空振りに終わった。
郷土資料館の古文書は、どれも景虎の武勇と仁政を讃えるものばかり。彼の死因は、やはり過労による病と記されている。地元の古老たちに話を聞いても、返ってくるのは「景虎様は、この地を守ってくださった神様のようなお方」という、伝説めいた賛辞だけだった。暗殺の影など、どこにも見当たらない。
「歴史とは、勝者の都合の良いように編纂される物語だ」。朔は自らに言い聞かせ、焦りを抑えた。ビジョンは嘘をつかない。あの鮮烈な感覚は、単なる幻覚のはずがない。
朔は調査の範囲を広げ、景虎ゆかりの品が奉納されているという、山奥の古刹へと足を運んだ。苔むした石段を登りきった先に佇む本堂。その片隅に、それはあった。黒漆の鞘に収められた、一振りの槍。添えられた木札には「橘高景虎公奉納」とある。だが、奇妙なことに、その槍は穂先から数寸のところで、不自然にぽっきりと折れていた。
住職に尋ねると、景虎が病に倒れる直前、最後の戦で折れたものを、武運長久を願って奉納したのだという。朔は礼を述べ、許可を得て、その折れた槍の柄にそっと触れた。
再び、世界が歪む。
しかし、今度のビジョンは戦場の喧騒ではなかった。夕暮れの陣中。篝火が揺らめいている。視点は、景虎自身のものらしかった。彼の目の前には、一人の若い兵士が膝をついている。あの革鎧の兵士だ。兵士は何かを必死に訴えているが、声は聞こえない。景虎は穏やかな笑みを浮かべ、兵士の肩を叩く。
場面が飛ぶ。激しい戦闘のさなか。景虎の視界の端で、味方であるはずの兵士が、背後から弓を引き絞るのが見えた。狙いは、景虎ではない。彼の隣で奮戦する、あの革鎧の兵士だ。
「危ない!」
声にならない叫びと共に、景虎は兵士を突き飛ばした。その瞬間、彼の背中に凄まじい衝撃が走る。敵の放った矢だった。ぐらりと揺れる体。視界が赤く染まっていく。だが、彼の目に映ったのは、守り抜いた兵士の安堵したような顔。そして、景虎自身の口元には、満足げな笑みが浮かんでいた。
ビジョンが消え、朔は槍の柄を握りしめたまま、呆然と立ち尽くしていた。矛盾している。鎧のビジョンでは、兵士が景虎を殺した。槍のビジョンでは、景虎が兵士を庇って死んだ。一体、どちらが真実なのだ。歴史の断片は、あまりにも多角的で、朔を深い迷宮へと誘い込んでいく。彼は、自分が追い求めているのが単一の「事実」ではなく、もっと複雑で、人間的な何かであることに、まだ気づいていなかった。
第三章 優しい偽史
工房に戻った朔は、混乱の極みにあった。二つの遺物が見せた、二つの相容れない最期。まるで歴史が、彼に謎かけをしているかのようだ。彼はもう一度、原点に立ち返ることにした。鎧が収められていたという、桐の長持。依頼主から預かったそれ自体が、歴史の証人であるはずだ。
朔は長持の隅々まで調べた。そして、底板の僅かな歪みに気づく。慎重に板を剥がすと、そこには隠し底のような空間があり、古びた布にくるまれた小さな何かが収まっていた。
それは、手のひらに収まるほどの、素朴な木彫りの人形だった。長い髪の少女をかたどったもので、着物の柄まで丁寧に彫り込まれている。子供の玩具だろうか。鎧や槍とはあまりに不釣り合いな遺物に、朔は首を傾げながらも、そのすべすべとした木肌に指を伸ばした。
流れ込んできたビジョンは、これまでとは全く違っていた。それは戦場の狂騒ではなく、縁側から見える、穏やかな庭の風景だった。ひだまりの匂い。小鳥のさえずり。視点は低い。子供の視点だ。
目の前で、優しい顔の父親が、木片を小刀で削っている。今、朔が手にしている人形を作っているのだ。その父親こそ、橘高景虎だった。そして、ビジョンの主は、彼の最愛の一人娘、小夜。
風景は次々と移り変わる。病にやつれ、咳き込む父の姿。父の側近たちが、和平か、徹底抗戦かで激しく言い争う声。そして、あの革鎧の兵士が、父に何かを耳打ちする場面。兵士の名は、弥七。小夜の幼馴染であり、景虎に絶対の忠誠を誓う若者だった。
そして、運命の日が訪れる。
小夜は、父から託された木彫りの人形を握りしめ、陣の片隅から戦場を眺めていた。父は、不治の病に侵されていた。長くは生きられないことを、幼い彼女も知っていた。父は、自らの死後、この地が戦火に焼かれることを何よりも恐れ、敵将との和平交渉を水面下で進めていた。だが、それを良しとしない和平反対派の家臣たちが、父の暗殺を企てていることを、弥七が突き止めたのだ。
戦場で、計画は実行された。味方の裏切り者が、景虎に刃を向けた。その凶刃を、弥七が身を挺して庇おうとする。
だが、次の瞬間、小夜が見たのは信じられない光景だった。父が、弥七を突き飛ばし、自らその刃を受けたのだ。病で衰弱して死ぬのではない。家臣の内紛の犠牲者として死ぬのでもない。忠義ある若者を守り、敵の攻撃で死んだことにする――それが、英雄・橘高景虎が自ら選んだ最期の舞台だった。彼の死を、和平への礎とするために。
倒れゆく景虎を、弥七が抱きかかえる。その錯綜した一瞬が、弥七の視点からは「主君を手にかけた」かのような、断片的な残像として鎧に刻み込まれたのだ。
「病死」という公式記録は、内紛を隠蔽し、英雄の死を汚さないための、家臣たちによる「優しい嘘」だった。朔は、全身の力が抜けていくのを感じた。彼が追い求めてきた「真実」は、一つの単純な事実ではなかった。それは、父を想う娘の記憶、主君を想う兵士の絶望、そして民を想う英雄の覚悟が幾重にも織りなした、哀しくも美しいタペストリーだったのだ。
第四章 行間の体温
すべての修復を終えた革鎧は、新品のような輝きを取り戻すことなく、しかし、刻まれた無数の傷跡に静かな威厳を宿して朔の前に佇んでいた。彼は、大学へ提出する報告書に向き合っていた。
ペンを握り、インクを浸す。橘高景虎は暗殺された、と書くべきか。歴史の真実を公表するべきか。以前の朔であれば、迷いはなかっただろう。客観的な事実こそが、何よりも優先されるべきだと。
だが、今の彼には、あの木彫りの人形の滑らかな感触と、そこに込められた少女の祈りが、指先に残っていた。英雄の覚悟も、彼を守ろうとした兵士の忠誠も、そしてその死を「優しい偽史」として語り継いできた人々の想いも、すべてが歴史なのだ。どれか一つを「唯一の真実」として断罪することなど、彼にはできなかった。
朔は、報告書の所見欄に、鎧の素材や製作年代といった、分析に基づいた事実だけを淡々と書き連ねていった。そして、その一番最後に、ほんの数行、個人的な所感を書き加えた。
『この鎧の主は、歴史に名を残さぬ一兵卒である。しかし、その生涯を通じて、一人の主君に絶対の忠誠を捧げ、その気高い最期を誰よりも近くで見届けた人物であったと推察される。記録された歴史の行間には、我々が知る由もない無数の想いが、今もなお息づいている』
それは、修復師として逸脱した記述かもしれなかった。だが、彼にとっては、それが最も誠実な「報告」だった。朔は、冷たく硬直したものだと信じていた歴史の中に、温かい人間の体温を感じていた。絶対的な真実を追い求めるのではなく、記録されなかった人々の声に耳を澄まし、その想いを未来へ繋いでいく。それが、自身の能力と、修復師としての新たな役目なのかもしれない。
窓の外では、現代の街が喧騒に満ちている。行き交う人々、車の流れ、建ち並ぶビル。この光景もまた、いつかは歴史の一ページになるのだろう。そこには、英雄の物語も、名もなき人々の無数の人生も、すべてが等しく刻まれていく。
朔はそっと目を閉じ、あの革鎧に触れた。もうビジョンは見えなかった。だが、確かに感じることができた。幾星霜の時を超えて伝わってくる、名もなき兵士の、静かで、しかし確かな魂の体温を。