第一章 純白の残滓
死は、色を持っている。
俺、佐伯亮(さえきりょう)には、それが視えた。特殊清掃員という仕事柄、俺は幾度となくその色彩と対峙してきた。絶望に染まった孤独死の現場は、コールタールのように粘りつく黒。突然の事故死は、パニックと苦痛が混じった濁った赤。自ら命を絶った部屋には、後悔の念が沈殿した鉛色の灰色が、壁紙のシミのようにこびりついている。
それらは死者が最期に放った感情の残滓だ。俺はその色を嗅ぎ分け、感じ取り、そして洗い流す。感情が摩耗する仕事だが、おかげで俺は、他人の死に対して鈍感でいられた。色はただの汚れ。仕事はそれを消すこと。それだけだ。
その日、訪れたアパートの一室も、ありふれた現場のはずだった。発見が遅れた老人の孤独死。ドアを開けた瞬間に鼻を突く、甘ったるくも暴力的な腐敗臭。床に染みついた体液の痕。蠅の重低音が、澱んだ空気を不気味に震わせている。
同僚の田中が「うへぇ、こりゃキツいな」と顔を顰めるのを横目に、俺は冷静に部屋を見渡した。予想通り、空間の隅々に淀んだ黒色がまとわりついている。長年の孤独と、誰にも看取られず死んでいくことへの絶望の色だ。いつもの光景。俺は淡々と防護服のジッパーを上げた。
作業を進め、遺体が横たわっていた人型のシミに薬剤を散布したときだった。俺は、異変に気付いた。
黒い絶望のシミの中心。その一点だけが、奇妙なまでに色が抜け落ちているのだ。
いや、違う。色が抜けたのではない。そこに、在るのだ。これまで一度も見たことのない色が。
それは、「純白」だった。
雪のように、生まれたての赤子の産着のように、一点の曇りもない純粋な白。それは安らぎや浄化といった穏やかな色合いではなかった。むしろ逆だ。あまりに純粋すぎて、感情というものが一切介在していない、無機質で空虚な白。まるで、そこだけ世界の理から切り取られ、真空パックにでもされたかのような、異様な存在感を放っていた。
俺は思わず手を止め、その純白を凝視した。恐怖でも、悲しみでも、後悔でもない。では、この老人は最期に何を感じたというのか。幸福? 満足? 馬鹿な。この凄惨な現場で、そんな感情が生まれるはずがない。
「佐伯さん? どうかしました?」
田中の声に我に返る。俺は首を振り、「いや、なんでもない」と答えた。だが、俺の視線は、薬剤の泡に覆われてもなおその存在を主張し続ける、小さな純白の残滓から離すことができなかった。
それは、これから始まる悪夢の、ほんの小さな兆候に過ぎなかった。
第二章 伝染する虚無
あの純白を見てから、世界の歯車が静かに狂い始めた。
一週間後、俺たちは二十代女性の自殺現場にいた。高層マンションの最上階。遺書はなく、部屋は驚くほど綺麗に片付けられていた。窓の外には、宝石を散りばめたような夜景が広がっている。その美しい風景とは裏腹に、部屋の中央には、彼女が流したであろう血の痕と、深い後悔を示す鉛色の靄が漂っていた。
だが、やはり「それ」はあった。
血溜まりの中心に、ぽつんと存在する純白の円。まるで、インクを垂らした水面にミルクを一滴落としたかのように、その白は周囲の灰色を拒絶し、孤高を保っていた。
「また、だ……」
俺は思わず呟いた。老人の孤独死と、若い女性の自殺。死因も年齢も状況も全く違う。だが、最期の感情の残滓には、同じ空虚な純白が宿っていた。
その色は、俺の心をざわつかせた。それは伝染病のように、死から死へと広がっているのではないか。そんな荒唐無稽な妄想が頭をよぎる。
「佐伯さん、最近ちょっとおかしいですよ」
作業を終えた車中、田中が心配そうに言った。「現場でぼうっとしたり。疲れてるんじゃないですか?」
俺は「純白の色が見える」とは言えず、曖昧に笑って誤魔化した。この能力は誰にも話したことがない。理解されるはずもなかった。俺は一人でこの謎を抱えるしかなかった。
その日から、純白は俺の日常にも侵食を始めた。
朝、洗面台の鏡を覗き込むと、自分の背後に一瞬、白い靄が映り込む。満員電車で人々の顔を見ていると、何人かの瞳の奥に、ガラス玉のような純白の光が宿っていることに気付いてしまう。彼らは笑い、話し、スマホをいじっているが、その内側は空っぽなのではないか。そんな疑念が、冷たい触手のように俺の首筋を撫でた。
恐怖が、じわりと内側から湧き上がってくる。死に慣れきっていたはずの俺が、得体の知れない「無」の気配に怯えていた。
俺は憑かれたように、純白が見えた二つの現場の共通点を探し始めた。警察の資料を漁るわけにもいかず、手掛かりはほとんどない。だが、遺品整理の際に目にした、二人のスマートフォンだけが妙に気にかかっていた。どちらも、ほとんど使われた形跡がないほど綺麗だったのだ。まるで、自分の生きた証を消し去ろうとしたかのように。
焦りだけが募る。街を歩けば、そこかしこに純白の気配がする。それはまるで、目に見えないカビの胞子のように、この世界の隅々まで蔓延しているようだった。
第三章 リセット・ユー
執念の調査が実を結んだのは、さらに数週間後のことだった。俺は、被害者たちの数少ない遺品の中から、ある共通項を見つけ出した。それは、スマートフォンの隅にインストールされていた、一つのアプリだった。
アイコンは、青い背景に白い消しゴムが描かれたシンプルなデザイン。その名は『リセット・ユー』。
「あなたの辛い記憶を、消します」
アプリストアに書かれたキャッチコピーが、俺の目に焼き付いた。利用者のレビューは絶賛の嵐だった。「過去のトラウマから解放された」「新しい自分に生まれ変われた」「心が軽くなった」。まるでカルト宗教のようだったが、藁にもすがりたい人々がそれに飛びつく気持ちは、分からないでもなかった。
俺にも、消したい記憶があった。
五年前、俺がこの仕事を始めたばかりの頃に担当した、幼い少女のいた現場。虐待の果てに、小さなアパートの一室で息絶えた彼女の部屋には、恐怖と悲しみが混じった、痛々しいほどの濃い紫の色が満ちていた。その色を見るたび、俺は今でも胸が締め付けられる。何もできなかった無力感。彼女の小さな手を握ってやれなかった後悔。
誘惑は、甘い毒のように心を蝕んだ。この記憶を消せば、楽になれるのではないか。
俺は震える指で、『リセット・ユー』をインストールした。
アプリを起動すると、穏やかな女性の声が語りかけてきた。『消したい記憶を、心に思い浮かべてください。あとは、私たちがすべて引き受けます』
俺は目を閉じ、あの紫色の部屋を、少女の虚ろな瞳を思い浮かべた。胸に激痛が走る。涙がこぼれそうになる。
『……認識しました。感情データの抽出を開始します』
スマートフォンの画面が淡く光り、俺の頭から何かが、まるで糸のように引き抜かれていく感覚に襲われた。それは不快なようでいて、同時に不思議な解放感があった。数分後、プロセスが完了したことを告げる優しいチャイムが鳴った。
俺は恐る恐る、再びあの現場を思い出してみた。
……何も感じなかった。
少女の顔も、部屋の光景も思い出せる。だが、そこに付随していたはずの罪悪感も、悲しみも、無力感も、綺麗さっぱり消え失せていた。それはまるで、他人事のドキュメンタリー映像を見ているような感覚だった。心が、軽くなっていた。
「すごい……本当に消えた……」
安堵のため息をついた、その瞬間だった。
俺は、見てしまった。自らの内側から、胸のあたりから、ふわりと立ち上る、あの純白の靄を。
血の気が引いた。全身の産毛が逆立つ。
そういうことか。
「純白」は、幸福や安らぎの色などではなかった。それは、記憶と感情を根こそぎ奪われ、人間としての輪郭を失った、魂の抜け殻の色だったのだ。
あの老人や若い女性は、救いを求めてこのアプリを使い、自ら人間であることを放棄した。死は、そのプロセスの最終段階に過ぎなかった。
『リセット・ユー』。このアプリこそが、人々の魂を捕食する、見えざる捕食者そのものだった。そして俺は、自らその罠に足を踏み入れてしまったのだ。
第四章 最期の色彩
絶望が、冷たい水のように全身を満たした。
俺はすぐにアプリをアンインストールしたが、手遅れだった。一度生まれた純白は、癌細胞のように俺の内側で増殖し、他の感情を喰らい始めた。
翌日、同僚の田中のつまらない冗談に、いつもなら苦笑いを浮かべていたはずが、何の感情も湧かなかった。夕焼けの美しさを見ても、心が動かない。好きだった音楽を聴いても、それはただの音の羅列にしか聞こえなかった。
俺の中から、ゆっくりと「色」が失われていく。喜びの黄色も、安らぎの緑も、愛情の暖かな橙色も、すべてが褪せて、あの空虚な白に塗り替えられていく。
このままでは、俺は俺でなくなる。感情のない、ただ呼吸するだけの肉の塊になる。
その恐怖だけが、唯一、鮮烈な赤黒い色を放って俺の心にこびりついていた。この恐怖が消えたときが、俺の終わりだ。
何かを残さなければ。俺が人間であった証を。この恐ろしい真実を、誰かに伝えなければ。
俺は震える手でスマートフォンを掴み、メモアプリを開いた。この忌まわしい機械が、俺が最後に人間として振る舞える唯一の場所だった。
『これを読んでいる誰かへ。決して『リセット・ユー』を使ってはいけない』
指が、思うように動かない。思考が、霧がかかったように不明瞭になっていく。視界の端が、白い光で滲み始めている。
それでも、俺は書き続けた。自分の能力のこと。純白の残滓のこと。アプリの正体のこと。失われゆく感情を振り絞り、言葉を紡いだ。
『感情を失うことは、死よりも恐ろしい。痛みも、悲しみも、後悔も、すべて俺たちが人間である証拠なんだ』
文字を打ちながら、俺は自分の内側で、最後の攻防が繰り広げられているのを感じていた。恐怖の赤黒い色が、純白の津波に飲み込まれようとしている。もう、時間がない。
『頼む。誰か、気づいてくれ。この世界は、静かに白く塗りつぶされようとしている』
指先の感覚が、完全に消えた。
視界が、真っ白な光に覆われる。
頭の中で、最期に残っていた赤黒いインクが、純白の奔流に溶けて消えていくのが、はっきりと分かった。
ああ、これで、終わりか。
スマートフォンの画面には、途切れた文章だけが、静かに表示されていた。