廃墟の歌、愛の檻
第一章 忌まわしき相似形
革の手袋を二重にはめても、世界は腐臭を放ち続けている。
視界に入るすべてが、かつて生きていたものの残骸だ。ガードレールの錆は血の味を、アスファルトの亀裂は断末魔の振動を、俺の神経に直接流し込んでくる。吐き気が喉元までせり上がり、鼓膜の奥では常に誰かの啜り泣く声が耳鳴りとなって響いていた。
だが、突如として荒野に隆起したその「建物」を前にした時、耳鳴りが止んだ。
あまりにも静かだった。
剥がれ落ちた外壁の塗装、二階の窓枠に絡みついた枯れた蔦、そして玄関脇の煉瓦に残る焦げたようなシミ。それはかつて俺たちが暮らし、そして妹が神隠しのように消え失せた「あの家」と、細部に至るまで完全に一致していた。
「……カナ?」
名を呼ぶ声が乾いた空気に吸われる。
夕闇が建物の輪郭を曖昧に溶かす頃、廃墟の奥から微かな旋律が漏れ出した。あれは、雷の夜に布団の中で震える俺の背中を撫でながら、妹が小さく口ずさんでいた旋律だ。
俺は吸い寄せられるように立ち入り禁止の黄色いテープを潜った。胃の腑が裏返るような恐怖と、それ以上の渇望。俺の狂った五感が、ここがあの子の墓標だと告げていた。
第二章 途切れたフィルム
玄関のドアノブに手を掛けた瞬間、指先から脳髄へ、氷柱を突き刺されたような冷気が走った。
いつもなら、ここで死者の「痛み」が逆流してくるはずだった。焼けるような熱、砕ける骨の音、窒息の苦しみ。だが、この家は違う。
流れ込んできたのは『白』だ。
一切の色彩も、温度も、感情さえも削ぎ落とされた、完全なる空白。
俺は膝をつき、乾嘔した。痛覚がないことへの違和感が、逆に俺の精神を苛む。
妹はどこだ。何があった。
埃の舞う廊下を這うように進む。軋む床板の音だけが、俺の心臓の拍動と重なる。二階へ。あの子の部屋へ。
視界の端で、壁のシミが人の顔のように歪む。だが、焦点を合わせようとすると霧散する。まるで世界そのものが、核心部分だけを意図的に隠蔽しているかのようだ。
最奥の部屋。その中央に、ポツンと『それ』はあった。
俺たちが彫刻刀で傷だらけにした、木製のオルゴール。
ゼンマイも巻かれていないのに、それは独りでにシリンダーを回し、錆びついた音色を奏で続けている。俺は震える指で、手袋を外した。素肌で触れれば、どんなに隠された過去も暴かれる。
俺はオルゴールの蓋に、そっと指を這わせた。
第三章 虚無の優しさ
指先が木肌に触れた瞬間、俺は絶叫を上げるはずだった。妹の死の瞬間の激痛が、俺を貫くはずだった。
だが、そこには何もなかった。
痛みも、恐怖も、悲しみさえもない。あるのは、底知れぬ『無』だけ。
まるで、テレビの砂嵐を凝視し続けているような、不気味なほどの静寂。
なぜだ。なぜ、何も感じない?
混乱する意識の中で、ふと、幼い頃の妹の声が脳裏にフラッシュバックする。
『お兄ちゃんは、人が泣いてると痛いんでしょ?』
『じゃあ、私が泣かなければいいんだね』
『痛くないように、辛くないように、私がぜんぶ、空っぽにするね』
心臓が凍りついた。
妹は、知っていたのだ。自分の死が、どれほどの苦痛となって兄を襲うかを。
彼女は逃げたのではない。殺されたのでもない。
幼い彼女は、ただ兄を守るためだけに、自らの心を殺したのだ。恐怖を感じる前に感情のスイッチを切り、痛みが走る前に意識を捨て、魂を消滅させた。
まるで、お気に入りの人形が壊れないように箱にしまうような、残酷なまでの純真さで、彼女は自らを『物』へと変えた。
俺にその死を感じさせないために、彼女は「死」の概念すら置き去りにして、虚無へと溶けたのだ。
「あぁ……あああ……」
目から熱いものが溢れ、頬を伝う。
オルゴールに残っていたのは、彼女の魂の残滓ではない。「お兄ちゃんを痛がらせたくない」という、あまりにも幼く、あまりにも深い献身の抜け殻だけだった。
最終章 永遠の螺旋
俺は立ち上がり、もう片方の手袋も引き剥がした。
妹が俺のために「無」になったのなら、俺はその「無」を埋めるための器にならなければならない。
「ただいま、カナ」
俺は両手を広げ、虚無が支配するこの空間そのものを抱きしめた。
壁に触れる。床に頬を寄せる。
拒絶はない。代わりに、ズブズブと沈み込むような感覚が全身を包み込んだ。
指先の皮膚が融解し、乾いた木材の繊維と混じり合う。血管が伸び、壁の中の配管と接続される。激痛はない。あるのは、失われた半身を取り戻したような、おぞましくも甘美な安らぎだ。
視界が固定される。俺の眼球は窓硝子となり、夕焼けの赤を映し出す。
足の感覚が消え、建物の基礎と一体化して大地に根を張る。
呼吸をするたびに、家全体が軋み、風が廊下を吹き抜ける音が俺の溜息となった。
俺はもう、人間ではない。
妹が遺したこの空虚な愛の檻を、永遠に守り続けるための肉の壁だ。
彼女が心を殺して作ったこの静寂を、俺の鼓動で満たし続ける。
泥と混じった血液が、廃墟の隅々まで循環していく。その温かさに包まれ、妹の意識の断片が、ようやく安心して微睡み始めたのを感じた。
俺たちは、一つになったのだ。
誰にも邪魔されない、痛みも悲しみもない、この瓦礫の揺り籠の中で。
風が吹く。
俺という廃墟の喉を通して、あの『秘密の子守唄』が、永遠に響き続けている。