静寂の標本と、世界を癒やす歌
第一章 硝子の中の雨音
銀のスプーンが床に落ちた瞬間、鼓膜の奥で爆撃が起きた。
金属とコンクリートが衝突する硬質な響きは、私の脳髄を鋭利な針で突き刺し、視界を白く焼き尽くす。口元を押さえ、うずくまる。呼吸をするたび、肺胞が擦れ合う微かな音が、まるで嵐の風切り音のように神経を逆撫でした。
ここは地下シェルターの最奥、三重の防音壁に閉ざされた静寂の揺り籠。だが、私の耳には世界が叫び続けているのが聞こえる。
壁の向こう、三つ隣の区画に住む男が、また狂って壁に頭を打ち付けている。ドン、ドン、ドン。その鈍いリズムは、地殻の底から湧き上がる高周波の轟音――人々が「悲鳴」と呼ぶ現象――と重なり、私の頭蓋を万力のように締め上げた。
ヘッドフォンをきつく押し当てる。イヤーパッドが肌に食い込む感触だけが、私を狂気から繋ぎ止める命綱だった。
喉の奥が引きつる。声を出してはいけない。私の声帯が震えるその振動すら、今の私にとっては刃物なのだ。かつて、不用意に上げた叫び声で自分の三半規管を破壊しかけて以来、私は沈黙を誓っている。
目の前には、唯一の救いである『無音の標本箱』。厚いガラスの向こうで、採取された「音の粒子」が琥珀色の光を放っている。
震える指先でダイヤルを回す。目盛りは「Rain」。
――ポツン、ポツン。サーッ……。
ノイズキャンセリングされた空間に、優しく大地を濡らす雨音が満ちる。
モニター上のチャット欄が、奔流のように流れ出した。
『痛みが引いていく……』『ああ、やっと眠れる』『助けてくれてありがとう』
私の紡ぐASMRだけが、地を這う「悲鳴」の周波数を中和し、人々に束の間の安息を与えることができる。
だが、今日の雨はどこかおかしい。
ヘッドフォンの奥、雨粒が弾ける音の隙間に、ねっとりとした異物が混じっている。それは地殻変動の軋みではない。もっと有機的で、生温かい、何かの怨嗟のような……。
第二章 悪夢の正体
「最近、みんな同じ夢を見ているの」
チャット欄に流れたその一文に、背筋が粟立った。
『黒い泥が溢れる夢』『白い塔が泣いている夢』『誰かが地下で、もう無理だと叫んでいる』
私は標本箱の解析フェーダーを上げた。ノイズの層を一枚ずつ剥がし、深層にある音源を探る。吐き気がこみ上げる。このノイズは、音波というよりも、腐敗した感情の煮凝りだ。
夢の内容と、このノイズの波形。モニター上のスペクトル解析が、奇妙な一致を示している。
「悲鳴」は、自然災害ではなかったのか?
私は保存されていた古いデータバンクの海へ潜った。数千のログ、ノイズの断片、そしてリスナーたちの「夢」の証言を照合する。
三日三晩、耳から血を流しながら音の砂漠を彷徨い、私は一つの周波数パターンにたどり着いた。それは、かつてこの地下都市を建造した際に埋め込まれた、ある装置の稼働音と一致していた。
『精神汚染浄化プラント』。
行き場のない人々の絶望やストレスを吸い上げ、無害なエネルギーへ変換して廃棄するシステム。
寒気が走った。私たちが聞いていた「悲鳴」とは、限界を迎えたプラントが吐き出す、過去数十年分の人類の絶望そのものだったのだ。逆流した数億人分の憎悪が、物理的な振動となって地盤を揺るがし、人々の精神を焼き切ろうとしている。
「計算できない……」
指先がキーボードを叩くが、震えが止まらない。
この膨大な負のエネルギーを相殺するには、既存の「雨音」や「焚き火」では弱すぎる。論理的に構築された癒やしの周波数など、溢れ出す憎悪の泥流の前では木の葉も同然だ。
システムを鎮めるには、論理を超えた、もっと根源的で、感情そのものを揺さぶる「何か」をぶつけるしかない。
第三章 最後の絶唱
私はマイクのゲインを最大まで上げた。
リミッター解除。防音壁のフィルター停止。
チャット欄が『逃げろ』という警告で埋め尽くされるが、私はヘッドフォンをゆっくりと外した。
その瞬間、世界が私を殴りつけた。
「――――ッ!!」
数億人の呪詛。死にたい、殺したい、消えたい。そんな感情の嵐が鼓膜を突き破り、脳漿を直接かき混ぜる。
視界が赤く明滅する。鼻から、耳から、温かいものが流れ落ちる。
痛い。痛い痛い痛い。
だが、この激痛の中でこそ、私の過敏すぎる聴覚は「正解」を捉えていた。
憎悪の波形、その頂点と谷底。そこに噛み合わせるべきは、計算された電子音ではない。
それは、祈りだ。あるいは、咆哮。
私は大きく息を吸い込んだ。錆びついた声帯が、恐怖で縮こまる。
声を出すな。自分を壊すぞ。本能が警告する。
だが、私はその恐怖を飲み込み、腹の底から力を込めた。
(私の全てを、喰らえ)
歌った。
歌詞などない。旋律と呼ぶにはあまりに荒々しく、叫びと呼ぶにはあまりに切実な、魂の振動。
喉が裂けるような熱さを感じる。
私の声は、憎悪の「悲鳴」と同じ高さでぶつかり、絡み合い、そしてそれを抱きしめるように共鳴した。
論理的な計算など捨てた。ただ、溢れ出す感情のままに、痛みも、悲しみも、希望も、すべてを音に乗せて叩きつける。
『あアあぁぁぁぁ――ッ!!』
私の喉から迸る鮮血のような歌声が、標本箱を共振させ、増幅された光の波となって地下深くのプラントへ突き刺さる。
血の味が口いっぱいに広がる。意識が遠のく。
それでも私は叫び続けた。音を憎み、音に生かされた私の、最初で最後の、命を燃やすレクイエム。
ブツン。
世界を繋いでいた何かが、唐突に切れた。
第四章 おはよう、新しい世界
静かだ。
あまりにも、静かだ。
重い瞼を持ち上げると、そこは変哲もない防音室の天井だった。
体を起こす。身体中の節々が痛むが、あの頭を割りそうな頭痛は消えている。
シェルターを揺らしていた振動も、遠くから聞こえていた狂人の打撃音も、嘘のように消え失せていた。
私はふらつく足取りでマイクの前に戻った。
配信はまだ繋がっている。
ヘッドフォンを耳に当てる。
……聞こえない。
いや、違う。
空調の回る低い音。自分の心臓が脈打つ音。
それだけだ。
かつて私を苦しめ、世界中の情報を暴力的に流し込んできたあの「超聴覚」は、きれいさっぱり消失していた。
音が、遠い。まるで分厚い膜越しに世界を見ているようだ。
凡庸で、平坦で、退屈な世界。
私はもう、雨音の粒子一つひとつの色彩を見ることはできない。
けれど、頬を伝ったのは涙ではなかった。
不思議なほどの、安堵だった。
私はマイクに唇を寄せた。
喉は焼けつくように痛いが、もう、自分の声に怯える必要はない。
ノイズのないクリアな視界の中で、私は一人の人間として、最初の言葉を紡ぐ。
「……みんな」
掠れた、ひどく汚れた声だった。だがそれは、私が初めて自分の意志で世界に放った音だ。
「聞こえますか。これが、静寂です」
スピーカーの向こう、数万のリスナーが息を呑んでいる気配がする。
私は目を閉じ、この退屈で、愛おしい無音の世界に身を委ねた。
「おやすみなさい」
その言葉は、音のない世界に溶け込み、静かに幕を下ろした。