虚空のバレリーナと鋼鉄の地球人

虚空のバレリーナと鋼鉄の地球人

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第一章 1Gの自傷行為

「ぐっ、あ……!」

脊椎がきしむ音。骨盤が悲鳴を上げている。

視界が明滅し、警告音が鼓膜を叩く。

それでも私は、ダイヤルを戻さない。

『重力負荷:1.0G(地球基準)』

モニターの数値が、赤く点滅している。

月面都市『アルテミス・プライム』。

生まれつき6分の1の重力しか知らない私の身体にとって、地球の重力は拷問器具そのものだ。

筋肉が断裂しそうな激痛。

内臓が下へと引きずり落とされる不快感。

「……これが、地球(ふるさと)の重さ」

脂汗が頬を伝い、床へと落ちる。

ここでは汗さえも、ふわりと浮遊せずに垂直に落下する。

その「落下」という現象が、たまらなく愛おしい。

私はエララ。

月面生まれのルナリアン(月人)。

身長190センチ、体重は月面換算でわずか8キロ。

昆虫のように細長い手足。

ガラス細工のように脆い骨。

私たちは、この低重力環境に適応した「新人類」だと言われている。

けれど、私にとってこの体は、地球へ帰ることを拒絶する「呪い」でしかなかった。

「エララ、また『自傷行為』かい?」

自動ドアが開き、呆れたような声が響く。

主治医のドクター・キムだ。

慌ててシミュレーターの電源を切る。

フワリ。

体が軽くなる。

と同時に、強烈な吐き気が襲ってきた。

「来週は地球からの視察団が来るんだ。君は歓迎式典のメインダンサーだろう? 骨折でもしたらどうする」

「……地球人は、あんな重い鎖に繋がれて生きているのね」

「彼らにとっては、それが日常だ。さあ、メディカルチェックの時間だよ」

私は浮遊したまま、診察台へと泳ぐ。

来週、地球から『本物の人間』がやってくる。

重力に愛された、強靭な肉体を持つ人々。

私は彼らに、このヒョロヒョロとした不気味な手足で、ダンスを見せなければならない。

コンプレックスと憧れが、胸の中でドロドロと混ざり合う。

第二章 鉛の足音

ドームホールの床を、異質な音が叩いていた。

ズン、ズン、ズン。

リズムも何もない。

ただひたすらに重く、暴力的で、床材を軋ませる音。

リハーサルを止めて、私はその音の主を見下ろした。

男が立っていた。

背は私より頭二つ分も低い。

けれど、肩幅は私の倍はある。

分厚い胸板。

丸太のような太もも。

(あれが、地球人……)

重力スーツを着ているとはいえ、彼の動きには一切の「浮き」がなかった。

地面に根が生えているようだ。

「君がエララか。映像で見るより、ずっと……神秘的だね」

男が笑った。

その笑顔の奥に、何か値踏みするような光が見える。

「レオ・ヴァーグナーです。地球連邦政府・外務官」

差し出された手。

私はワイヤーアクションのように空中で回転し、音もなく彼の前に着地した。

そっと手を握る。

硬い。

そして、熱い。

「……エララです。ようこそ、静かの海へ」

彼の手のひらは、まるで岩石のようだった。

私の指が小枝なら、彼は幹だ。

握りつぶされそうな恐怖と、守られているような安心感。

「素晴らしいスタジオだ。だが、少し天井が高すぎる気がするな」

レオは見上げた。

「私たちには、これくらいの高さが必要なんです。……跳びますから」

「跳ぶ? ああ、ルナ・バレエのことか」

彼は興味なさそうに言った。

その態度が、私の癇に障る。

「地球の方には、ただのサーカスに見えるかもしれませんね」

「いや、そうじゃない。ただ……」

レオは言葉を濁し、私の細長い腕をじっと見つめた。

その目には、明らかに「憐れみ」の色があった。

奇形を見る目。

不完全なものを見る目。

「……本番を、楽しみにしていてください」

私は逃げるように、床を蹴った。

一蹴りで10メートル上昇する。

見下ろすと、レオは首を痛そうに曲げて、私を目で追っていた。

重力に縛られた、哀れな生き物。

そう思うことでしか、惨めさを消せなかった。

第三章 0.16Gの恋

滞在期間中、レオは頻繁に私の元を訪れた。

彼は地球の話をしてくれた。

青い空。

白い雲。

押し寄せる波の音。

「海の水はね、しょっぱいんだ。君が飲んでいる調整水とは違う。命のスープみたいな味がする」

「命の……スープ」

ドームの展望デッキ。

地球が頭上で青白く輝いている。

「いつか、行ってみたい。重力強化手術を受けてでも」

私が呟くと、レオは悲しげに眉を寄せた。

「やめたほうがいい。君の体は、ここで生きるために最適化されている。地球の重力は、君を壊してしまう」

「でも、あなたたちは平気でしょう?」

「……慣れの問題さ」

彼は嘘をついている。

直感がそう告げていた。

レオは時々、奇妙な行動をとった。

食事をほとんど摂らない。

激しいトレーニングの後でも、汗一つかかない。

そして何より、肌の質感が、日によって微妙に違う。

ある夜、私たちは無重力エリアへ忍び込んだ。

「ここでは、あなたも自由になれるわ」

スイッチを切る。

人工重力が消滅する。

レオの体がふわりと浮く。

彼は驚いて、手足をバタつかせた。

「うわっ、これは……制御が効かない!」

「力を抜いて。流れに身を任せるの」

私は彼の手を取り、エスコートした。

ここでは私が主導権を握れる。

空中でのダンス。

私の長い手足が、彼を絡め取る。

レオの重厚な体が、私の指先一つで回転する。

顔が近づく。

彼の瞳の中に、青い地球ではなく、私の顔が映っている。

「エララ、君は美しい。……地球のどんな芸術品よりも」

「……お世辞はいいわ」

「本当だ。君たちこそが、人類の到達点なのかもしれない」

唇が重なる。

無重力でのキスは、上下の感覚がない分、どこまでも深く落ちていくような感覚だった。

けれど、違和感があった。

彼の唇が、冷たすぎる。

まるで、陶器にキスをしているような。

第四章 硝子の身体、鋼の心臓

式典当日。

悲劇は、フィナーレの瞬間に起きた。

私は空中で三回転し、着地する手はずだった。

しかし、機材トラブルにより、舞台装置のワイヤーが切れた。

バランスを崩す。

着地点がずれる。

「危ないッ!」

客席からレオが飛び出した。

常人離れしたスピード。

彼は落下の軌道に入り、私を受け止めようとした。

ドォォォン!

鈍い衝撃音。

私はレオの腕の中にいた。

無傷だ。

だが、レオの様子がおかしい。

彼の上腕部が、不自然な方向に曲がっている。

そして、裂けた皮膚の下から覗いていたのは、赤い血ではなかった。

銀色の、金属フレーム。

白く発光する、冷却液。

「……え?」

会場が静まり返る。

レオは苦痛の表情一つ浮かべず、自分の腕を見つめた。

そして、困ったように笑った。

「ああ……やってしまったな。外装(スキン)が破れてしまった」

「レオ……あなた、それは……」

「言っただろう、エララ。地球の重力は、生身の人間には過酷すぎると」

彼は立ち上がった。

折れたはずの腕を、ガキリと音を立てて元に戻す。

「地球人はもう、肉体を捨てたんだ」

第五章 星を継ぐもの

真実は残酷で、そして滑稽だった。

地球環境はとうの昔に崩壊していた。

大気汚染と温暖化、そして異常気象。

生身の人間(ホモ・サピエンス)が生存できる環境ではなかった。

富裕層は意識をデータ化し、サーバーの中で暮らしている。

外で活動するのは、レオのような「義体(アンドロイド)」だけ。

「海も、空も、もう存在しない。君がVRで見ている地球は、100年前のアーカイブ映像だ」

医務室のベッドで、レオは淡々と語った。

「じゃあ、地球への移住計画は?」

「嘘だ。月やコロニーの人々に希望を持たせるための、優しい嘘だ。……君たちのその脆い肉体こそが、唯一残された『生物としての人間』なんだよ」

私は自分の手を見つめた。

透き通るような白い肌。

細い血管。

この弱々しい体が。

1Gに耐えられない、欠陥品だと思っていたこの体が。

宇宙に残された、最後の生命の器。

「僕たちは、君たちを守るために作られた。……皮肉な話だろう? 憧れていた対象が、ただの介護ロボットだったなんて」

レオは自嘲気味に笑う。

私はベッドから降りた。

ふわりと、体が浮く。

レオの頬に手を添える。

冷たくて硬い、鋼鉄の頬。

けれど、そこには確かに「心」があった。

「違うわ、レオ」

私は彼の首に腕を回し、抱き寄せた。

「あなたは私を守ってくれた。……それが全てよ」

窓の外を見る。

荒涼とした灰色の大地。

その向こうに浮かぶ、死の星・地球。

もう、あの青い光に焦がれることはない。

ここが、私たちの場所だ。

この頼りない低重力の世界こそが、人類の新たな揺り籠なのだ。

「踊るわ、レオ。あなたのために」

私は爪先立ちになる。

重力に縛られない、自由なステップ。

鋼鉄の地球人が見守る中、硝子のバレリーナは舞い続ける。

進化の最前線で、命の火を燃やすように。

AIによる物語の考察

【エララ】 月面環境(低重力)に完全適応した「ホモ・サピエンス・ルナリス」。骨密度は地球人の20%しかなく、地球の重力下では自重で骨折するほど脆弱。しかし、低重力下では常人には不可能な三次元的な機動力を発揮する。細長く伸びた手足は、地上では「異形」とされるが、宙では「妖精」のように美しい。地球への強い憧れ(コンプレックス)を持っていたが、自身の身体こそが次世代の標準であることを受け入れる。 【レオ】 地球代表の外務官。外見は完璧なマッチョイズムを体現する男性だが、その正体は環境崩壊した地球で活動するための高耐久アンドロイド。脳(人格データ)のみがかつての人間由来。エララの「生身の儚さ」に、失われた人類の面影を見て惹かれている。
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