層流の編み手
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層流の編み手

第一章 錆びついた街の残響

その街は、錆びた鉄の匂いがした。

響(ひびき)が古い工場のフェンスに指先で触れると、現実の風景が陽炎のように揺らめき、その上に過去が幾重にも重なって映し出された。蒸気の立ち上る煙突、活気に満ちた労働者たちの怒鳴り声、巨大なプレス機が鋼鉄を打つ地響き。半透明の男たちが、響のすぐそばを通り過ぎていく。彼らの汗の匂いまでが、まるで昨日のことのように鼻腔をくすぐった。

これが響の持つ能力――「記憶の多重露光(メモリー・オーバーライト)」。場所に刻まれた過去の記憶が、現在の風景の上に多層的な幻影として現出する。彼にとって世界は、常に過去という名の亡霊たちで満ち満ちていた。

彼が訪れたこの「錆色市」は、今では打ち捨てられた工業都市だが、かつては国の心臓だった場所だ。そして今、この街の中心部で、異常な「記憶の層流」の凝縮――「固定時間域(タイム・ループ・ゾーン)」が発生していた。

雪だった。

街の広場に足を踏み入れた途端、響の肌を刺すような冷気が襲った。季節は初夏だというのに、灰色の空からは大粒の雪が舞い落ち、地面を白く染めている。広場には何百という人々が集まり、絶望と怒りに満ちた声を張り上げていた。

『閉鎖反対!』『我々の仕事を奪うな!』

数十年前、この街の全ての工場が閉鎖された日。その瞬間の記憶が、物理的な雪と寒気を伴って、無限に繰り返されているのだ。響は、凍てつく空気の中に溶け込んだ人々の無念さに、思わず目を閉じた。過去は時に、現実を縛りつける牢獄となる。このループする絶望から、誰一人逃れることはできない。

彼はただ、この現象を記録するためにここにいる。なぜ固定時間域は生まれるのか。なぜ特定の過去だけが選ばれるのか。その謎を解くことが、彼に課せられた宿命のようなものだった。ポケットの中の通信機が短く震える。画面には一言だけ。

『教会で待つ。エリアナ』

響は、過去の亡霊たちが叫び続ける広場に背を向け、雪の降りしきる街を静かに歩き始めた。

第二章 時を編む砂

街外れの古い教会のステンドグラスは、ほとんどの色を失っていた。響が重い扉を開けると、蝋燭の灯りが揺れる薄暗い空間に、一人の女性が立っていた。古文書の解析を専門とする研究者、エリアナだ。

「来たのね、響」

彼女の声は、この静謐な場所に良く似合っていた。エリアナは響に歩み寄り、ビロードの布に包まれた小さな何かを差し出した。

「これをあなたに」

布の中から現れたのは、精巧な銀細工の施された、古風な砂時計だった。中の砂は、まるで星屑を砕いたかのように微細な光を放っている。

「『時を編む砂時計(クロノウィーバー・サンドグラス)』。伝説の遺物よ。中の砂は、純粋な記憶の結晶でできているわ」

エリアナは言った。この砂時計を反転させると、乱雑に重なり合った「記憶の層流」を一時的に安定させ、その中に含まれる最も強い意志や感情を、一本の「道筋」として可視化できるのだと。

「私の祖父も、あの広場にいたの」

彼女はぽつりと呟いた。「絶望の中で死んだと聞いてるわ。でも、本当は何を思っていたのか……あなたなら、見つけられるかもしれない」

響は再び雪の広場に戻った。ループする怒号と悲嘆の中で、彼は静かに砂時計を握りしめる。エリアナの想いが、ずしりと重い。彼は意を決して、砂時計をゆっくりと反転させた。

きらきらと輝く砂が、さらさらと流れ落ち始める。

その瞬間、世界の音が遠のいた。渦巻いていた人々の絶望の記憶が、まるで凪いだ水面のように静かになり、その中心から一本の、か細くも鮮やかな光の筋が立ち上った。

響は、無意識にその光の筋を辿る。それは、群衆の片隅で、固く握りしめたプラカードを掲げる一人の少女に繋がっていた。彼女は、周りの大人たちのように怒りや絶望を叫んではいなかった。ただまっすぐに、雪に覆われた空の、その向こう側を――まだ見ぬ未来を、見つめていた。

その瞳には、諦観ではない、強い希望の光が宿っていた。

固定時間域は、単なる絶望の再現ではなかった。その絶望の底で生まれた、一つの小さな希望をも、同時に閉じ込めていたのだ。響の胸に、これまで感じたことのない微かな熱が灯った。砂時計の砂が、ほんの少しだけすり減っていることに、彼はまだ気づかなかった。

第三章 共鳴する未来

響はエリアナと共に、世界各地の固定時間域を巡った。大戦の引き金となった暗殺の瞬間。文明を後退させた大飢饉の始まり。その全てが、歴史の教科書が語る「絶望」の場面だった。しかし、『時を編む砂時計』は、その度に指し示したのだ。暗殺者の銃口の先にあった平和を願う子供の祈りを。枯れた畑で、最後の一粒の種を握りしめた農夫の想いを。絶望の淵に咲いた、名もなき人々の「別の可能性」を。

「まるで、世界が僕たちに何かを伝えようとしているみたいだ」

旧文明の首都跡――「大崩落」と呼ばれる大災害が起こった場所の中心で、響は呟いた。空には巨大な記憶の亀裂が走り、ビルが崩れ落ちる光景が永遠に繰り返されている。ここが、最大にして最古の固定時間域だった。

「響、これ以上は危険よ!砂時計の砂がもうほとんど…」

エリアナの悲痛な声が響く。砂時計のガラスには、すでに無数のひびが入っていた。

だが、響の決意は変わらなかった。

「この記憶の奥にあるものを見届けなければならない。全ての答えが、ここにある気がするんだ」

彼はエリアナに静かに微笑みかけると、ひび割れた砂時計を高く掲げ、反転させた。

砂が流れ落ちたのではない。爆ぜたのだ。

閃光と共に、響の意識は肉体から引き剥がされた。時間と空間の感覚が消え失せ、彼の存在は光の奔流となって、過去と未来を繋ぐ巨大な回廊を駆け巡る。

そして、彼は見た。

遥か未来。死にかけた地球から、最後の希望として放たれた、巨大な意志の光を。それは、人類の歴史を自己修復させるためのプログラムだった。固定時間域は、人類が道を誤った歴史の分岐点に設置された警告灯であり、再考を促すためのシミュレーターだったのだ。

そして、響自身が、そのプログラムとこの世界を繋ぐために設計された、唯一無二の生きた受信機(レシーバー)であることを――彼は、その瞬間に悟った。

第四章 記憶の中枢へ

「……そういうことだったのか」

意識を取り戻した響の声は、不思議なほど穏やかだった。彼は、ひびだらけで空になった砂時計を手に、全てをエリアナに語った。プログラムは、人類に自らの過ちを修正する機会を与え続けてきた。だが、人類はそれに気づくことなく、もう猶予は尽きようとしていた。

プログラムは、最終段階に移行する。

「最終段階って……何が起こるの?」

エリアナが震える声で問う。

「世界の時間を、完全に停止させる」

響は静かに告げた。「そして、この砂時計をトリガーに、鍵である僕を『記憶の中枢』として取り込む。過去、現在、未来、全ての人類の記憶と僕を統合し、最も良い未来へと歴史を強制的に書き換える(オーバーライトする)んだ」

それは究極の救済。そして、響という一個人の完全な消滅を意味した。

「そんな……君がいなくなってしまうのか…?」

エリアナの瞳から、涙がこぼれ落ちた。響はそっと彼女の頬に触れる。その指先は、少し透けているようだった。

「僕がいなくなるんじゃない。僕が、世界中のすべての記憶になるんだ。君の祖父が見た希望も、あの工場街の少女が見た未来も、僕が受け継いで、編み直す」

彼は、エリアナの手に、空になった砂時計を握らせた。

「僕の感じた痛みや喜びが、いつか生まれる誰かの道標になるなら、悪くない結末だ」

それが、彼の最後の言葉だった。

響は、砕け散りそうな砂時計を空に掲げ、最後の力を込めて、その上下を反転させた。

世界から、音が消えた。色が消えた。

響の身体は無数の光の粒子となり、静かに舞い上がった。粒子の一つ一つが、一つの記憶の断片だった。彼は錆びついた街へ、戦場へ、飢えた大地へ、あらゆる時代のあらゆる場所へ降り注ぎ、世界を覆う記憶の層流へと溶け込んでいった。光の粒子が、エリアナの涙に濡れた頬を優しく撫で、そして消えた。

やがて、時が再び流れ始める。

空は、以前より少しだけ青さを増しているように見えた。繰り返し崩落していた旧首都のビル群は、静かに蔦を絡ませた遺跡へと姿を変えていた。錆色市の広場では、降り続いていた雪が止み、ひび割れたアスファルトの間から、小さな緑の芽が顔を出していた。

エリアナは、手の中に残された空っぽの砂時計を強く握りしめた。

世界は、彼の犠牲を知らない。

だが、風が運ぶ土の匂いの中に、街角で聞こえる子供たちの笑い声の中に、夜空に瞬く星の光の中に、エリアナは確かに彼の気配を感じていた。

世界は、一人の優しい青年の記憶に抱かれ、静かに、そして確かに再生を始めていた。

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