第一章 雨音と訪問者
雨が降っていた。
千年生きると、雨の匂いだけで季節の変わり目がわかるようになる。
湿った土の匂い。
枯れ葉が腐りゆく甘い腐臭。
そして、招かれざる客が連れてくる、鉄と若さの青臭い匂い。
森の奥深く、朽ちかけたあばら家。
その扉が、控えめに、しかし意志を持って叩かれた。
「……どうぞ」
短く告げると、きしむ音と共に扉が開く。
吹き込む風が、暖炉の火を揺らした。
そこに立っていたのは、ずぶ濡れの青年だった。
古びた革鎧。背中には不釣り合いなほど大きなリュック。
眼鏡の奥の瞳が、暗がりの中で光っている。
「た、尋ね人の許しを請います! ここは、『賢者の隠れ家』でお間違いないでしょうか!」
大声だ。
耳が痛い。
私は持っていた木製のパイプを口から離し、紫煙を吐き出した。
「『賢者』なんて大層なものじゃないよ。ただの老婆だ」
「そんな! 村の古老に聞きました。エルフの魔女様が住んでいると!」
青年は土足のまま一歩踏み出し、私の顔を覗き込む。
私の見た目は二十代半ばといったところだろうか。
だが、瞳の奥に宿る光の鈍さまでは隠せない。
「靴」
「へ?」
「泥だらけだ。上がるなら拭いておくれ」
青年は慌てて布を取り出し、床を拭き始めた。
その必死な背中を見下ろしながら、私はため息をつく。
まただ。
英雄アレンが死んでから五百年。
この場所を訪れる人間は後を絶たない。
「僕は、歴史学者の卵で……レオンと言います。英雄アレンの『空白の晩年』について調べたくて……」
やはり。
私は立ち上がり、棚から欠けたマグカップを取り出した。
「茶でいいかい? 毒は入ってないよ。今はね」
レオンと名乗った青年は、恐縮しながら椅子に座る。
その視線が、部屋の隅にあるガラクタの山に釘付けになった。
錆びついた剣。
カビの生えた盾。
弦の切れた弓。
「こ、これは……まさか、聖剣グランディスですか!?」
彼が指差したのは、漬物石の代わりに樽の上に乗せられた、ただの鉄塊だ。
かつては輝いていたかもしれないが、今は赤茶色の粉を吹いている。
「ああ、それかい。今はただの重石だよ」
「なんてことを……! これは人類の至宝ですよ!?」
「至宝ねぇ」
私は熱い茶をすすった。
人間にとっての五百年は、歴史そのものだ。
だが、私にとっては昨日のことのようでもあり、遠い夢のようでもある。
あの剣がどれほど鋭かったか。
アレンがそれを振るうとき、どれほど情けない顔をしていたか。
そんなことを覚えているのは、もうこの世界で私しかいない。
「それで? あんたは何を聞きたいんだい、坊や」
レオンは居住まいを正し、リュックから分厚い手帳を取り出した。
「英雄アレンは、魔王討伐の後、忽然と姿を消しました。伝説では神の座に召されたと言われていますが……僕は、彼がこの森で隠遁生活を送っていたという説を信じています」
ペンの先を私に向け、彼は真剣な眼差しで問う。
「貴女は、彼の最期を看取ったのですね?」
私はパイプの灰を、暖炉にコンコンと打ち付けた。
火の粉が舞い上がる。
嘘をつくのは簡単だ。
これまでもそうしてきた。
『彼は立派だった』
『最期まで世界を憂いていた』
そう言ってやれば、彼らは満足して帰っていく。
英雄の物語に、美しい結末を書き足して。
だが、今日の雨音は、やけに昔のことを思い出させる。
「……坊や。あんた、英雄が好きかい?」
「はい! 僕の憧れです!」
即答。
眩しいねえ。
「じゃあ、真実を知ったら、がっかりするかもしれないよ」
私は立ち上がり、壁にかかっていた一枚の布を剥ぎ取った。
そこには、古びた肖像画があった。
凛々しい騎士の姿ではない。
だらしない顔で酒をあおり、腰に手を回した女と笑い合う、一人の男の姿。
そして、その隣で笑う女の頭には、捻じれた二本の角が生えていた。
「え……?」
レオンの手から、ペンが滑り落ちた。
第二章 錆びついた栄光
「こ、これは……誰ですか?」
レオンの声が震えている。
無理もない。
教科書に載っている英雄アレンは、いつも金色の鎧をまとい、聖なる光を背負っているのだから。
「誰って、あんたの探してる英雄様だよ。隣にいるのは、当時の魔王カサンドラだ」
「ま、魔王……? そんな、馬鹿な。二人は敵対していたはずじゃ……」
「最初はね。でも、戦場で何度も顔を合わせるうちに、なんだか意気投合しちまったのさ」
私は懐かしむように肖像画を指でなぞる。
油絵具はひび割れ、色褪せている。
「アレンは言ったよ。『世界を救うより、カサンドラの作るシチューが食いたい』ってね」
「そ、そんなの……歴史への冒涜だ!」
レオンが立ち上がる。
顔を真っ赤にして、拒絶を示している。
「英雄アレンは、人類のために命を賭して魔王と刺し違えた! だからこそ、今の平和があるんです!」
「刺し違えた、ねぇ」
私はクスクスと笑った。
笑い声が、乾いた喉から枯れ葉のようにこぼれ落ちる。
「じゃあ、その平和の証拠を見せてやろうか」
私は手招きをして、部屋の奥にある重たい樫の扉を開けた。
地下へと続く階段。
カビと埃、そして古い魔力の匂い。
レオンは躊躇したが、好奇心には勝てなかったようだ。
おずおずと私の後ろについてくる。
地下室は、ガラクタの山だった。
だが、上の部屋にあるものとはわけが違う。
「これを見てごらん」
私が示したのは、巨大な黒い鎧の残骸だ。
魔王カサンドラが身につけていた『絶望の甲冑』。
しかし、その胴体部分には、あろうことか大きな穴が開けられ、そこから土が溢れ出していた。
中には、枯れた植物の根がびっしりと張り巡らされている。
「これは……?」
「プランターだよ。カサンドラは引退した後、トマト作りにはまってね。この鎧は水はけが良いとか言って、喜んで使ってた」
「魔王の……鎧で……トマト……?」
レオンの理解が追いついていない。
さらに私は、隣にある台座を指差した。
そこには、伝説の聖剣グランディスの鞘が置かれている。
「この鞘はね、アレンが『背中がかゆい時にちょうどいい』って言って、孫の手代わりに使ってたんだ。ほら、ここが擦り減ってるだろ?」
「う、嘘だ……嘘だ嘘だ嘘だ!」
レオンが頭を抱えて座り込む。
彼の中で積み上げられてきた五百年の歴史が、ガラガラと音を立てて崩れていく。
残酷なことをしている自覚はある。
だが、私はもう疲れてしまったのだ。
美化された記憶。
聖人君子として祭り上げられた友人たち。
彼らが本当に望んでいたのは、そんな窮屈な石像になることじゃない。
「人間は、忘れる生き物だ。そして、都合よく書き換える」
私はしゃがみ込み、レオンの肩に手を置いた。
「アレンとカサンドラはね、駆け落ちしたんだよ。私と、ドワーフのガガンに後始末を押し付けてね」
「後始末……?」
「ああ。私が幻影魔法で『魔王と相討ちになる英雄』のスペクタクルショーを演出し、ガガンが死体を捏造した。世界は感動に包まれ、平和が訪れた。……滑稽だろう?」
レオンは涙目で私を見上げた。
「じゃあ……僕たちが信じてきた正義は? 犠牲は? 全部、茶番だったんですか?」
「結果的に平和になったなら、それでいいじゃないか。アレンはそう言ってたよ」
「そんな……無責任な……」
「ああ、無責任さ。あいつは最高に無責任で、最高に優しい、ただの男だった」
私は目を細める。
視界の端が、少しだけ滲んだ。
「……ついておいで。本当の『墓』を見せてやる」
第三章 名もなき丘の上で
雨は小降りになっていた。
私たちはあばら家を出て、裏手の小道を歩いた。
道なんて呼べる代物ではない。
私が数百年間、時折踏みしめてきただけの獣道だ。
レオンは無言だった。
ショックで足取りが重いが、それでも必死についてくる。
「エルフの時間感覚は、人間には理解できないかもしれません」
唐突に、レオンが口を開いた。
「でも……五百年も、たった一人でこの秘密を抱えてきたんですか?」
その問いに、私は足を止めた。
森の空気が、肺の奥まで染み渡る。
「一人じゃないさ」
風が梢を揺らす音。
川のせせらぎ。
ここには、彼らの気配がまだ残っている。
「それに、私は約束したんだ。『俺たちの本当の物語は、お前が覚えていてくれればそれでいい』って」
「……それは、呪いのような言葉ですね」
「違いない」
私は苦笑した。
この青年は、思ったより鋭い。
森を抜け、視界が開けた。
そこは、海を見下ろす小さな岬だった。
立派な石碑はない。
豪華な彫刻もない。
ただ、一本の大きな樫の木があり、その根元に二つの小さな石が並んでいるだけ。
「ここだ」
レオンが息を呑む。
「これが……英雄と、魔王の墓……」
石には名前すら刻まれていない。
ただ、二つの石は寄り添うように、触れ合っていた。
「アレンは七十まで生きた。カサンドラはその三年後に逝った。二人はここで、畑を耕し、喧嘩をし、愛し合って死んだ」
私は、懐から小さな小瓶を取り出した。
中に入っているのは、五百年前にアレンが好きだった安酒だ。
保存の魔法をかけて、ずっと取っておいた。
「ほら、アレン。カサンドラ。客人が来たよ」
酒を石にかける。
芳醇な香りが、雨上がりの風に乗って広がった。
レオンはその場に膝をつき、手を合わせた。
長い、長い沈黙。
やがて彼が顔を上げたとき、その表情からは憑き物が落ちたような穏やかさがあった。
「……素晴らしいですね」
「え?」
予想外の言葉に、私は眉をひそめた。
「世界を救うために死んだ英雄よりも……愛する人と共に老いて死んだ人間アレンの方が、ずっと素敵です」
レオンは眼鏡の位置を直し、初めて私に向けたような、等身大の笑顔を見せた。
「僕は、歴史書を書き換えるつもりはありません。そんなことをすれば、世界は混乱するでしょう」
「だろうね」
「でも、僕は『物語』を書きます。ある名もなき兵士と、角のある娘の、可笑しくて温かい愛の物語を」
心臓が、とくんと跳ねた。
「それは、歴史には残りません。おとぎ話として消費されるでしょう。でも……真実はそこに隠しておきます」
こいつは。
この短命種の小僧は。
私の五百年の孤独を、今、肯定したのだ。
「……ふん。好きにしな。印税の一割はよこすんだよ」
私は背を向け、涙を隠した。
「はい! 必ずまた来ます、お婆さん!」
「シルフィだ。……次は名前で呼びな」
雲の切れ間から、夕日が差していた。
二つの石が、まるで笑っているかのように、オレンジ色に輝いていた。
雨はもう、止んでいた。
(了)