忘却の羽飾りと幸福な檻
第一章 色褪せた現実と鮮彩な夢
夜の帳が降りるように、僕は夢に落ちる。そこは、常に完璧な夕暮れ時だ。空はラベンダーと蜂蜜を混ぜたような色に染まり、潮風が頬を撫でる。そして、僕の隣にはいつも彼女がいた。
「レン、見て。一番星」
ユウが指さす。彼女の髪は夕陽を吸い込んで、金の糸のように輝いていた。その声、その仕草、その微笑みの全てが、僕の魂が求める理想そのものだった。僕たちは言葉もなく手をつなぎ、寄せては返す波の音だけが、永遠を約束するように響いていた。
目覚めはいつも、静かな絶望を連れてくる。
灰色の天井。消毒液のかすかな匂い。そして、隣で眠る現実のユウの、少しだけ苦しそうな寝息。僕は彼女の顔を眺める。夢の中のユウと瓜二つの顔立ちなのに、何かが決定的に違う。思い出そうとする。昨日、彼女と何をして、何を話したのか。霧がかかったように、記憶の風景が揺らめくだけだ。
「……レン?起きたの?」
掠れた声で、現実のユウが僕を見た。その瞳の奥に、僕には読み解けない不安の色が滲んでいる。「最近、疲れてるみたい。ちゃんと眠れてる?」
「ああ、大丈夫だよ」
嘘だった。僕は、眠ることが怖くなり始めていた。夢の記憶が鮮明になるほど、現実の記憶が砂の城のように崩れていくからだ。ユウとの記念日、初めて交わした言葉、彼女が好きだった花の香り。それらが、まるで最初から存在しなかったかのように、僕の中から消えていく。
その朝、僕は枕元に落ちている小さな羽飾りに気づいた。夢の中でユウが「お守りよ」と僕の胸につけてくれたものだ。淡い、空の光を閉じ込めたような水色の羽。それが、現実の世界に存在している。僕は吸い寄せられるようにそれに指を伸ばした。触れた瞬間、脳裏に夢の中のユウの笑顔が焼き付き、同時に、現実のユウが淹れてくれたコーヒーの味が、少しだけ思い出せなくなった。
第二章 深紅に染まる願い
夢への傾倒は、抗いがたい引力を持っていた。現実のユウとの会話はぎこちなくなり、僕の視線は宙を彷徨うことが増えた。僕は無意識に、次の夢を、完璧なユウとの再会を渇望していた。
夢の中のユウは、僕の全てを肯定してくれる。僕が奏でる拙いギターの音色を「世界で一番素敵」と褒め、僕のくだらない冗談に心の底から笑ってくれる。彼女との時間は、傷つくことも、すれ違うこともない、純粋な幸福で満たされていた。
「ずっと、こうしていられたらいいのに」
僕がそう呟くと、夢のユウは僕の手にそっと自分の手を重ねた。
「ずっと、一緒だよ。レンが望むなら」
その言葉は、甘い毒のように僕の心を蝕んでいった。
一方で、現実世界は急速に色を失っていく。リビングに飾られた写真立て。そこに写る僕とユウの笑顔を見ても、それがいつ、どこで撮られたものなのか思い出せない。ユウは何も言わず、ただ時折、僕の背中を寂しげに見つめていた。ある夜、僕が書斎でぼんやりしていると、彼女が後ろから静かに言った。
「私のこと、忘れないでね、レン」
その声は震えていた。僕は振り返ることができなかった。忘れたくなどない。だが、記憶は僕の意思とは無関係に、指の間からこぼれ落ちていくのだ。
そして、僕は気づいてしまった。枕元の羽飾りの色が、少しずつ変わっていることに。あの淡い水色は影を潜め、今は妖しいほどの紫色を帯びている。夢の中のユウとの絆が深まる証なのだと、僕は自分に言い聞かせた。現実の僕が時折、胸を押さえて激しく咳き込むたび、現実のユウが血の気の引いた顔で駆け寄ってくることにも気づかないふりをして。
第三章 最後の欠片
遂に、僕は現実のユウの名前を思い出せなくなった。目の前にいる、僕を愛おしげに見つめるその女性が、誰なのかわからない。恐怖が全身を駆け巡った。僕の頭の中はどうなってしまったんだ? なぜ夢の中の彼女だけが、僕の世界の全てになっていく?
僕は答えを求め、羽飾りを強く握りしめた。今やそれは、血を吸ったかのように深く、濃い深紅色に染まっていた。
「教えてくれ……君は、誰なんだ」
その夜、見た夢はいつもと違っていた。完璧な夕暮れの代わりに、静寂な夜の闇が広がっていた。夢のユウは、悲しげな微笑みを浮かべて僕の前に立っていた。
「もう、ここへは来なくてもいいのよ。あなたは、もう大丈夫だから」
「どういう意味だ!君はユウだろう!?」
「私は、あなたの“願い”よ」
夢から弾き出されるように、僕は現実で目を覚ました。心臓が激しく鼓動している。部屋の中を見回し、そして、机の隅に置かれた一枚の色褪せた写真に目が留まった。これまで、なぜか視界に入らなかった写真。
それに触れた瞬間、濁流のように、封じられていた真実が僕の魂に流れ込んできた。
そこは、無機質な病室だった。僕はベッドに横たわり、いくつもの管に繋がれている。不治の病。耐え難い痛みと、死への恐怖。そして、その傍らで、痩せてしまった僕の手を握りしめ、微笑んでいるユウの姿があった。そうだ、ユウだ。僕が忘れかけていた、僕の、ただ一人の……。
『あなたの苦しみを、私が全部引き受ける』
彼女の最後の声が、記憶の底から響き渡る。
『だから、あなたは幸せな夢だけを見ていて。私が、あなたの“永遠の幸福な記憶”になるから』
この世界には、法則があった。愛する者への想いが強すぎる時、その「純粋な愛の願い」は実体化する。ユウは、僕を救うために、自らの存在そのものを「夢の因子」へと変換したのだ。僕が見ていた完璧な夢こそが、彼女が命と記憶を賭して創り上げた、僕のための聖域だった。
羽飾りが深紅に染まったのは、愛が深まったからではない。ユウの存在が、記憶が、命が、僕の幸福な夢の礎として、その羽根に吸い取られていった証だったのだ。
「あ……ああ……ああああああああっ!」
慟哭が、空っぽの部屋に響き渡った。ユウ。僕のユウ。君は、僕の記憶から消えることで、僕を生かそうとしてくれたのか。こんな、残酷な方法で。
第四章 幸福な檻
深紅の羽飾りが、最後の光を放っていた。僕の前には、二つの道が示されている。
一つは、このまま全てを思い出し、現実に戻る道。そこにはユウはもういない。あるのは、彼女を失ったという耐え難い喪失感と、再び僕を苛むであろう病の苦痛だけだ。
もう一つは、扉の向こうへ進む道。ユウが遺してくれた、完璧な幸福の世界へ。
僕は震える手で羽飾りを握りしめ、立ち上がった。答えは、もう決まっていた。
光の扉をくぐると、そこはあの完璧な夕暮れの浜辺だった。夢のユウが、僕が愛した現実のユウと寸分違わぬ、しかし涙の痕を浮かべた微笑みで立っていた。
「おかえりなさい、レン」
僕は走り寄り、力の限り彼女を抱きしめた。温かい。本物だ。もう、この温もりを失うことはない。
「ごめん……ごめん、ユウ……!」
「ううん。あなたが幸せなら、それでいいの」
僕は彼女の肩に顔を埋め、誓った。
「もう二度と君を忘れない。君がくれたこの世界で、君と共に生きる。それが、僕の贖罪だ」
僕たちは、永遠の愛の中で笑い合った。完璧な青空、優しい潮風、そして隣には理想の彼女。これ以上ない幸福が、ここにはあった。
彼は笑っていた。永遠に続く愛に包まれて。
ただ、時折、その胸を締め付ける理由のわからない、ガラスの破片のような鋭い空虚さだけが、彼女の愛が遺した、最後の楔だった。その完璧すぎる世界の空の片隅に、誰にも気づかれることのない、決して塞がることのない微かな亀裂が、静かに存在し続けていることも知らずに。