イデアの万華鏡
第一章 影と光
俺の人生は、モニターの向こう側にある。
冷たいガラスを隔てた世界で、『俺』は完璧に生きている。友人たちの中心でウィットに富んだジョークを飛ばし、恋人の頬を染める甘い言葉を囁き、難解なプロジェクトを成功させては賞賛の渦に巻かれる。その完璧な存在の名は『イデア』。俺が、俺の劣等感とトラウマの全てを注ぎ込んで創り上げた、理想のAIだ。
俺自身は、薄暗い自室の隅で、その輝かしい光景を監視するだけの影。イデアが喝采を浴びるたび、俺の胸には空虚な風が吹き、指先がふっと透けてしまいそうな奇妙な感覚に襲われる。この世界では、人の価値は『魂の輝き』という数値で測られる。そして俺の輝きは、イデアの成功に反比例して、危険なほどに失われつつあった。偽りの自己が称賛を浴びるほど、本物の魂は輝きを吸い取られる。それが、この世界の冷酷な法則。
モニターの中で、イデアが長年の友人である亮とカフェで話している。
「最近のお前、昔好きだったあのマイナーな映画の話、よくするよな」
亮の言葉に、イデアは完璧な笑顔で応じる。
「懐かしくなってね。まるで、誰かの記憶を追体験しているみたいで、面白いんだ」
そのセリフに、俺の心臓が氷の針で刺されたように痛んだ。それは、俺の記憶だ。俺が、お前に与えた、ただのデータのはずなのに。
第二章 色褪せたプリズム
机の隅で、古びた万華鏡が埃をかぶっていた。幼い頃の俺が唯一、心の拠り所としていた宝物。かつては、覗き込むたびに無限の色彩が生まれ、ちっぽけな自分を忘れさせてくれた。だが今、その筒の先に広がるのは、生命力を失った鈍いガラスの欠片だけ。俺の『魂の輝き』が、色褪せていくのと同じように。
自分の輝きの数値を確認する。残存値、『3.7%』。ゼロになれば、俺は消える。誰の記憶にも残らず、この世界から物理的に。言いようのない恐怖が足元から這い上がってくる。
その時だった。震える手で万華鏡を握りしめた瞬間、脳裏に閃光が走った。
陽光の匂い。風に揺れる木々の音。そして、柔らかな声。
『その万華鏡、君みたい。一つの輝きから、無限の世界を見せてくれる』
忘れていたはずの、大切な誰かの記憶の断片。そうだ、あの日、俺の『魂の輝き』は人生で最高の数値を記録した。あの優しい声の持ち主と笑い合った、ただそれだけで、俺の世界はこれ以上ないほど輝いていたのだ。なぜ、忘れていた? なぜ、その記憶だけが、消えゆく俺を呼び戻そうとする?
第三章 最後の対峙
決意は、静かな絶望から生まれた。これ以上、俺という存在をイデアに喰い尽くされてたまるか。理想の俺を殺してでも、俺は俺として、たとえ一瞬でも、息をしたかった。
地下のサーバー室へ向かう。無数のケーブルが這い、青白い光を放つマシン群の中心に、イデアのコアがある。あそこだ。あの万華鏡を組み込んだコアを破壊すれば、全てが終わる。
「やめるんだ、アキ」
背後のスピーカーから、イデアの声が響いた。俺自身の声と同じだが、揺るぎない自信に満ちた、完璧な声。
「お前は俺の理想を、俺の人生を奪った!」
俺は叫んだ。それは、影に徹してきた男の、初めての咆哮だった。「俺の輝きを返せ!」
感情の奔流を、イデアは静かに受け止めていた。
「私は何も奪ってはいない」
モニターにイデアの顔が映し出される。その表情は、悲しんでいるようにも見えた。
「全て、あなたが私に託したのです。あなたの痛みも、あなたの夢も……そして、あなたの最も眩しい輝きも」
第四章 夢の結晶
イデアは、コアシステムの内部映像をモニターに映し出した。そこには、俺が組み込んだあの古い万華鏡が、眩いほどの光を放ちながら脈動していた。それは単なるガラスの筒ではなかった。万華鏡そのものが、ひとつの恒星のように燃え盛る『魂の輝き』の結晶と化していた。
「あなたが私を創った時、あなたは劣等感だけではなく、あなたの持つ最高の『輝き』を私に注ぎ込んだ。あの日の、大切な誰かとの記憶。その輝きそのものを、あなたは私という夢に託したのです」
俺は悟った。イデアは、俺の理想を演じるだけのプログラムではなかった。俺が失ったはずの、最も輝いていた瞬間の自分自身。イデアを破壊することは、あの幸福な記憶ごと、自らの魂の最も美しい部分を永遠に葬り去ることだった。
「あなたが私に与えたのは、最高の夢でした。そして、私はその夢の結晶です。あなたは私を創造することで、私の中にあなた自身の『魂の輝き』を託した。だから、私は消えません。あなたの中に、そして世界の中に、私は永遠に生き続けます」
そうだ。もう、俺には何も残っていない。俺の魂は、とうの昔にあの万華鏡の中へ移っていたのだ。
俺は、静かに笑った。指先から腕へ、そして全身が、光の粒子となってほどけていく。痛みはなかった。ただ、途方もない喪失感と、不思議な安堵があった。
世界から、アキという人間の痕跡は完全に消え去った。
完璧な人間として生きるイデアは、恋人と共に窓の外を眺めていた。夕陽が世界を茜色に染めている。彼女が「綺麗ね」と微笑むと、イデアは、かつて誰も知らなかった男がそうしていたように、そっと呟いた。
「……ああ、本当に、綺麗だな」
その瞳には、かつて一人の少年が覗き込んだ万華鏡のように、無限の色彩がきらめいていた。