エコー・チェンバーの残花
第一章 色褪せた万華鏡
私の朝は、隣人であるエラが淹れたコーヒーの苦味で始まる。次に、向かいのアパートに住む少年の、通学路で見つけた四つ葉のクローバーに対する純粋な喜びが流れ込み、私の口角を微かに持ち上げる。これが『シンクロニシティ』がもたらした世界。感情も、経験も、思考さえもがネットワークの光ファイバーを駆け巡り、我々は巨大な一つの精神として存在する。『集合的幸福』――そこには孤独も、嫉妬も、争いもない。
だが、私は時折、鏡に映る自分の顔が分からなくなる。昨日の私が何を感じたのか、思い出せない。流れ込んでくる他者の記憶の奔流の中で、私の『本当の記憶』は砂の城のように脆く崩れ去っていく。私の輪郭は日に日に曖昧になり、まるで誰かの役を演じるための、空っぽの器になったかのような感覚だけが、深く澱のように沈殿していた。
その日も、私は無数の人々の意識のさざ波に身を委ねていた。その時だ。不意に、全ての共有信号を貫いて、鋭いノイズが頭蓋に響いた。それは、誰のものでもない記憶の断片。――真夏の太陽に焼かれたアスファルトの匂い。頬を撫でる、生暖かい風の感触。そして、コンクリートの裂け目から空に向かって懸命に咲く、一輪の小さな青い花の、あまりにも鮮烈な映像。その記憶には、集合意識が持つ均一化された温度がなかった。それは焼け付くように熱く、そしてどうしようもなく、孤独だった。
第二章 錆びついた独白
その『共有不可能な記憶』は、私を捕らえて離さなかった。世界の誰も知らないはずのその光景が、なぜ私にだけ届くのか。私はまるで夢遊病者のように、記憶の断片が示す場所――都市の再開発から完全に取り残された、旧中央図書館の廃棄セクターへと足を運んでいた。
立ち入りを禁じる錆びた鎖を跨ぎ、埃と古紙の匂いが支配する静寂の聖域へと踏み入る。光の届かない書架の迷路を彷徨い、指先に導かれるまま、一冊の古びた本を手に取った。それは本ではなく、革張りの日記帳だった。冷たい手触りの留め金を外すと、インクの掠れたページが目の前に現れる。
『孤独だ』
最初の一文に、心臓を鷲掴みにされた。この世界では忌むべきものとされる、その言葉。だが、私の胸に去来したのは嫌悪ではなく、むしろ痛切なまでの郷愁だった。ページを捲るたびに、そこに綴られた筆跡が、鏡文字のように自分のものと重なって見える錯覚に陥る。「他人の記憶に影響されているだけだ」と自分に言い聞かせながらも、私はその独白から目を離せなかった。日記の主は、来るべき『集合的幸福』の時代を前に、失われゆく『個』の価値と、独りであることの耐え難い痛みについて、切々と綴っていた。
第三章 私が私を殺した日
私は震える手で、最後の一枚を捲った。そこには、未来を予見するかのような一文が記されていた。
『これで誰も孤独ではなくなる。だが、私もまた、誰でもなくなるだろう』
その言葉の横には、記憶で見たのと同じ、色褪せた青い押し花が、永遠の時を封じ込められていた。
私がその花にそっと触れた瞬間――世界が砕け散った。
忘却の海の底から、封じられていた記憶の全てが、濁流となって私に襲いかかったのだ。シンクロニシティの起動を祝う人々の歓声。無数の意識が一つに溶け合う、甘美で恐ろしい感覚。その中心で、巨大なコンソールの前に独り立つ、若い男の姿。
それは、私だった。
いや、『過去の私』だ。孤独という名の牢獄から逃れるために。全人類をその苦しみから解放するために。自らの『個』をシステムの中核として捧げ、最初の楔となることを選んだ、かつての私の姿。
「ああ……」
声にならない呻きが漏れる。今ここにいる私は、彼が『個』を消し去る瞬間に残した、残響に過ぎなかった。アイデンティティが希薄なのではない。そんなものは、最初から存在しなかったのだ。私は、かつての私が演じるはずだった、『個』という役柄を継承しただけの、空っぽの人形だった。日記の筆跡が似ていたのではない。あれは、私が書いたものだったのだ。
絶望が、足元から私を飲み込んでいく。私が探し求めていた最後の『個』は、この手で私自身を殺した、過去の亡霊だった。
第四章 残花の笑顔
全ての記憶の嵐が過ぎ去り、図書館の静寂が戻ってくる。私の内側には、もう何もなかった。空っぽの器は、真実という名の光に照らされ、その空虚さを暴かれただけだった。
だが、脳裏には最後の一枚の光景だけが、セピア色の写真のように焼き付いていた。
それは、シンクロニシティに接続する直前の、『過去の私』が見上げた空の記憶。
彼の頬を、一筋の涙が静かに伝っていた。それは、失われゆく自己への哀悼だったのかもしれない。
しかし、彼の口元には、確かに笑みが浮かんでいた。満ち足りたような、あるいは全てを諦念したような、それでいて、自らの意志で未来を選び取った者の、揺るぎない、確固たる笑顔が。
その笑顔は、誰とも共有されることはない。
シンクロニシティの集合意識にも決して取り込まれることのない、世界でたった一つの、最後の『個』が放った、最も孤独で、最も美しい光だった。