曇ったレンズの向こう側、透明な愛の正体

曇ったレンズの向こう側、透明な愛の正体

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第一章 泥濘(ぬかる)む視界

熟成された赤ワインの芳醇な香りが、安っぽいコロンの刺激臭と混ざり合い、鼻の奥をツンと刺す。

私は吐き気を抑えながら、バッグの底から真鍮の眼鏡を取り出した。

指紋で汚れたような、白く曇ったレンズ。それをかける行為は、私にとって自傷に近い。

「咲ちゃん? 気分でも悪い?」

目の前の男が、心配そうに眉を下げる。

その表情は、肉眼で見れば「優しさ」に見えるだろう。

だが、レンズを通した瞬間、世界は裏返る。

視神経を直接ヤスリで削られるような激痛。

視界の端にノイズが走り、男の皮膚が透け、その内側からどす黒いタールのような粘液が溢れ出した。

――見えた。

彼の胸元に渦巻くのは、腐った沼のようなヘドロだ。

口では「君を大切にする」と言いながら、その本性は《焦り》と《肉欲》で濁りきっている。

粘液の中に浮かぶ文字のような模様が、彼の借金と、今夜中に私を連れ込みたいという打算を告げていた。

(……汚い)

こみ上げる嘔吐感。

私は愛されたいと願いながら、他人の内面を覗くたびに絶望する。

誰も彼も、皮を剥げばこんなものだ。

ただ一人、先週会った「あの男」を除いて。

ふと、記憶の棘が疼く。

名前は確か、田中。

彼だけは違った。汚い泥ではなく、砂嵐のような凄まじい「ノイズ」で覆われていて、何も読めなかったのだ。

未知への恐怖で、私は彼から逃げ出した。

泥の方が、まだマシだと思ったから。

「ごめんなさい、お手洗いに」

男のヘドロがテーブルを侵食し、私の手首に触れそうになった瞬間、私は席を立った。

逃げるように個室へ駆け込む。

鏡に映る自分は、幽霊のように青白かった。

蛇口を捻る。冷たい水で洗っても、網膜に焼き付いた他人の欲望の残滓が消えない。

皮膚の下を無数の蟲が這いずり回るような感覚。

これが代償だ。人の醜悪な本音を覗きすぎたせいで、私自身がその穢れに感染していく。

その時、ポケットの中でスマートフォンが脈打った。

通知画面が、暗い個室で不気味に明滅している。

『新しいメッセージが届いています』

差出人は不明。

アイコンは画像未設定の、空白(デフォルト)。

恐る恐る画面を開くと、そこには私の心臓を鷲掴みにする言葉が並んでいた。

『まだ、あの曇った眼鏡で世界を見ているの? 霧野 咲さん』

呼吸が止まった。

このアプリは匿名だ。ましてや、あの眼鏡の秘密を知る人間など、この世に存在しないはずなのに。

トイレの換気扇だけが、ブオンと重苦しい音を立てて回っていた。

第二章 空白からの手紙

その夜から、私は幻肢痛に似た苦しみに襲われるようになった。

かつて私が「汚い」と切り捨ててきた男たちの感情が、真夜中になると部屋の隙間から滲み出してくるのだ。

『君は、泥の中に咲く花を見ようとしなかった』

「空白」の差出人から、毎晩のようにメッセージが届く。

『六本木の彼を覚えているかい? 君は彼を「傲慢」だと断じた』

『銀座の彼はどうだ? 「無口で退屈」だと切り捨てたね』

文字を目にするたび、私の脳内に彼らの「泥」がフラッシュバックする。

やめて。見たくない。

私は孤独に震えながら、膝を抱えた。

愛なんてない。あるのは欲望と、打算と、自己保身だけ。

だから私は眼鏡をかける。傷つかないために。騙されないために。

『でもね、咲。君は一番大事なものを見落としている』

通知音が鳴るたび、心臓が早鐘を打つ。

私は縋るように、枕元の眼鏡を手に取った。

この不気味なストーカーの正体を暴いてやる。どんな醜い悪意を持って私を追い詰めているのか、そのどす黒い核を見てやる。

震える指で眼鏡をかけ、スマホの画面を凝視した。

「……え?」

痛みが、ない。

いつもなら眼球を焼くような不快感が襲うはずなのに。

画面の向こうから溢れ出していたのは、静謐で、どこまでも透き通った「光」だった。

欲望も、悪意も、執着もない。

ただただ温かく、清らかな光の奔流。

それは私が今まで一度も見たことのない、あまりに純粋な色だった。

『会いに来て。君の目が、本当に光を失ってしまう前に』

光の文字が、網膜に優しく焼き付く。

私は吸い込まれるように、画面の中に表示されたリンクをタップした。

第三章 泥中の宝石

視界がホワイトアウトする。

気がつくと、私は光の海の中にいた。

夢か、現(うつつ)か。

物理的な感覚は希薄で、代わりに感情の輪郭だけが鮮明に浮かび上がっている。

「よく来たね」

声は聞こえない。けれど、光そのものが語りかけてくる。

私は眼鏡の縁を握りしめ、光の中心を睨みつけた。

「あなたが、あのメッセージの主?」

「そうだよ。僕は、君が切り捨てた『泥』から生まれた」

光が揺らぐと、周囲の景色が一変した。

映画のスクリーンのように、過去の映像が次々と再生される。

六本木のバー。

私が「傲慢なナルシスト」と見下した男。

彼は私の去った後、トイレの鏡に向かって、震える手で何度も笑顔の練習をしていた。

『嫌われないように……もっと堂々としないと……』

その胸の奥にあったのは、傲慢さではなく、臆病なほどの「好かれたい」という祈りだった。

場面が変わる。

銀座のカフェ。

「退屈」だと断じた無口な男。

彼はテーブルの下で、必死に会話のネタ帳を握りしめていた。

『彼女の笑顔が見たい。でも、余計なことを言って傷つけたくない』

沈黙は、彼なりの最大の配慮だったのだ。

「あ……」

私の目から、涙が溢れ出した。

彼らのオーラは確かに濁っていた。余裕がなくて、必死で、見苦しかった。

けれど、その泥の奥底には、私を想うがゆえの、小さな宝石のような切実さが輝いていたのだ。

「人間はみんな、不完全で泥だらけだ」

光が私を包み込む。

それは圧倒的な肯定だった。

「君は、自分が傷つくのが怖くて、相手の粗(あら)探しばかりしていた。泥を見ることに必死で、その中にある砂金から目を背けていたんだ」

喉が熱い。

私はずっと、何を恐れていたのだろう。

完璧な人間などいない。私自身が、誰よりも愛を疑い、試そうとする醜い泥を抱えているのに。

「汚れのない愛なんて、この世にはない。共に泥にまみれ、それでも手を離さないことを『愛』と呼ぶんだよ」

その瞬間、私の中で硬く凍りついていた何かが、音を立てて砕け散った。

カラン、と乾いた音がして、私は眼鏡を地面に落とした。

光が、私の頬を濡らす涙を優しく拭う。

「さあ、帰りなさい。もう、君の視界は晴れている」

第四章 澄み渡る世界

はっと息を吸い込むと、そこは駅前のベンチだった。

雑踏の音。車のクラクション。夕暮れの冷たい風。

すべてが鮮明で、鼓膜を揺らす。

手の中には、古ぼけた眼鏡。

スマホの画面は真っ暗で、あの光の部屋はもうどこにもない。

けれど、胸の奥に残る温もりだけが、すべては現実だったと告げていた。

「あの……霧野さん?」

不意に声をかけられ、顔をあげる。

心臓が跳ねた。

そこに立っていたのは、田中くんだった。

息を切らし、ネクタイは曲がり、額には汗が滲んでいる。

以前の私なら、この不恰好さを冷めた目で見ていただろう。

あるいは、眼鏡をかけて彼の「ノイズ」を覗こうとしたかもしれない。

「連絡がつかなくなって、心配で……ここによく来るって言ってたから」

彼は不安そうに私を見つめる。

私の目にはもう、奇妙なオーラも見えなければ、ノイズも見えない。

ただ、私を探して走り回ってくれたであろう、一人の不器用な青年の姿があるだけだ。

怖い。

彼の本心はわからない。

この優しさが嘘かもしれないし、いつか裏切られるかもしれない。

ノイズの向こう側は、未知だ。

でも。

私は眼鏡をバッグの奥底にしまい込んだ。

『証拠を探すな。信じるんだ』

あの光の声が、リフレインする。

私は震える足を叱咤し、ベンチから立ち上がった。

夕陽に照らされた彼の顔は、どんな宝石よりも人間らしく、温かそうに見えた。

「ありがとう、来てくれて」

私が微笑むと、彼は驚いたように目を見開き、それからクシャッとした、泣き出しそうな笑顔を見せた。

その表情だけで十分だった。

「少し、歩きませんか?」

「はい! 喜んで」

二人、並んで歩き出す。

世界はこんなにも騒がしく、不透明で、美しい。

もう、曇ったレンズはいらない。

私の瞳には今、ありのままの彼と、どこまでも澄み渡る街の景色だけが映っていた。

AIによる物語の考察

**1. 登場人物の心理**
主人公・霧野咲は、他者の「泥」(欲望や打算)を見通す眼鏡に絶望し、愛を諦めている。しかし「光」との邂逅を通じ、泥の奥にある純粋な「宝石」に気づき、他者を受け入れる勇気を得る。一方、「光」のメッセージの送り主は、咲が過去に切り捨てた男たちの「不器用な愛や配慮」が集約された存在であり、彼女の心の変容を導く触媒となる。

**2. 伏線の解説**
第一章で田中が発していた「砂嵐のようなノイズ」は、他の男たちのような分かりやすい「泥」ではなく、咲が既存の価値観では理解できない「未知の領域」を象徴する。それは、彼の内面に潜む複雑さや、他者からの評価に汚されていない純粋な本質を示唆し、終章で「信じるべき愛の可能性」として昇華される。謎のメッセージの主が咲の秘密を知っていたのは、彼が咲が見落とした「泥」の真実そのものだったため。

**3. テーマ**
本作は、人間が抱える「不完全な泥」の中にも、不器用ながらも純粋な「愛」や「切実さ」が隠されていることを問う。完璧な愛を求め、傷つくことを恐れて本質を見失っていた咲が、曇ったレンズを外すことで、他者の欠点や不明瞭さを含めた「ありのままの愛」と、それを映し出す「澄み渡る世界」を受け入れるまでの心の旅を描いている。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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