第一章 瓦礫の鏡と灰色の男
鉄錆の味がした。
口の中ではない。空気が、だ。
「……ッ、頭痛え」
天沢悠(あまざわ ゆう)は、割れるような頭痛と共に目を覚ました。
視界がぼやける。
安アパートの天井じゃない。
突き刺さるような灰色の空。そして、肋骨のように無数に立ち並ぶ、折れた鉄骨の群れ。
「どこだ、ここ」
身体を起こすと、ジャリッと音がした。
瓦礫の山だ。
昨夜、担当タレントの引退配信を見届け、やけ酒を煽って寝落ちしたはずだった。
掌に、冷たく硬い感触がある。
真鍮製の、古びた手鏡。
掌サイズで、蔦のような装飾が縁を覆っている。見覚えはない。
「誰か……いませんか」
風の音に混じって、硝子細工のような声が聞こえた。
悠は弾かれたように顔を上げる。
瓦礫の陰。
煤けたローブを纏った少女が、膝を抱えて震えていた。
銀色の髪は泥に汚れ、大きな瞳は恐怖で揺らいでいる。
だが、悠の目は彼女の「輪郭」に釘付けになった。
(なんだ……あれ)
少女の肌から、光が漏れ出している。
透き通るような青、燃えるような紅、煌めく黄金。
それらが複雑な和音のように絡み合い、彼女の周りの空間を虹色に歪ませていた。
視界に、半透明のウィンドウがポップアップする。
『解析完了:潜在的魅力(オーラ)SSランク』
悠は自分の目を疑った。
VRゴーグルなんて着けていない。
だが、プロデューサーとして長年酷使してきた「才能を見抜く目」が、この世界では物理的な視覚情報として機能しているらしい。
「あの、私……ここを追い出されて……」
「君、名前は?」
「ル、ルナです……」
少女が立ち上がろうとした瞬間、彼女の喉元からピンク色の光が弾けた。
その光の粒子が、周囲の枯れた苔に触れると、瞬く間に緑が蘇る。
(原石どころじゃない。この子は、世界そのものを変える)
全身の毛穴が泡立つような興奮。
現実世界で失っていた熱が、血管を駆け巡る。
「ルナ。歌えるか?」
「え……?」
「その声だ。その声なら、世界中を振り向かせられる」
悠は思わず、手の中の鏡を彼女に向けた。
鏡面がぼんやりと光り、ルナの姿を映す。
すると、彼女の虹色のオーラがレンズを通したように収束し、レーザーのような輝きを放った。
「わっ、まぶしい……!」
「俺はユウ。プロデューサーだ。君を、絶対にスターにする」
口をついて出た言葉に、自分自身が驚く。
どの口が言うんだ。
タレント一人守れず、業界から逃げ出した負け犬が。
ふと、鏡の隅に自分の顔が映り込んだ。
光がない。
虹色でも、黄金でもない。
ただの、濁った灰色。
すべてを飲み込み、何も反射しない、死んだコンクリートのような色。
(……知ってるさ。俺には何もないことくらい)
悠は自嘲し、鏡を強く握りしめた。
だが、ルナの怯えた瞳を見た瞬間、その手から力を抜いた。
「行くぞ。まずは、配信の準備だ」
第二章 バグる世界と透ける指
「あ、あー……テステス。こんルナ、です……?」
廃墟の一角。
トタン板と鉄パイプで組んだ即席のステージで、ルナがドローン型のカメラに話しかける。
同接数、0人。
「ユウさん、誰も見てないよ……」
「当たり前だ。最初はそんなもんだ」
悠は瓦礫の影で、必死に照明代わりの発光クリスタルを調整していた。
光の角度、背景のボケ味、ルナの銀髪が一番映える構図。
泥臭く、地味な作業。
「ルナ、カメラを『一番大切な人』だと思って語りかけろ。背筋を伸ばして、顎を引く」
「こう?」
「そう。そのまま、さっきの鼻歌を歌ってみろ」
ルナが小さく息を吸い、旋律を紡ぐ。
その瞬間。
『1人、視聴中』
「あ! 一人来てくれた!」
ルナの顔が花のように綻ぶ。
その笑顔が、画面越しに伝播する。
『なにこの子、映像きれいすぎ』
『歌うっま』
コメントがポツポツと流れ始めた。
同接が10人、50人と増えていく。
ルナの声に熱が帯びる。彼女の虹色のオーラが強まり、廃墟の空気を震わせる。
だが、悠はモニターから目を離せなかった。
違和感がある。
ルナが高音(ハイトーン)を出した瞬間、背景の鉄骨がノイズのように歪んだのだ。
まるで、処理落ちしたゲーム画面のように。
(なんだ……今の)
同接が100を超えた。
ルナのボルテージが上がる。
彼女の輝きが増すたびに、足元の地面がテクスチャを失い、黒い空間へと抜け落ちそうになる。
そして、決定的な異常が起きた。
「みんな、ありがとーー!」
ルナが手を振る。
その小指が、ガラスのように透けていた。
向こう側の景色が、指を通して見えている。
「ルナ、一旦ストップだ!」
「えっ、でも今、盛り上がって……」
「いいから切れ!」
悠は強制的に配信を切断した。
ルナが不満げに頬を膨らませるが、悠は彼女の手を掴み、まじまじと見る。
指先は、元の肌色に戻っていた。
「……錯覚か?」
いや、違う。
悠はポケットから鏡を取り出し、ルナを映した。
鏡面に映ったのは、ルナの笑顔ではない。
彼女の胸元にある『命の砂時計』だ。
光の砂が、歌うたびにサラサラとこぼれ落ちていく。
『警告:存在力(ソウル・データ)の欠損を確認』
『現在残量:82%』
『推定:あと4回のライブで完全消滅』
「……嘘だろ」
悠の手から血の気が引いた。
この世界は、彼女の『歌』をエネルギーにしているのではない。
彼女の『魂』そのものを燃料にして、映像を世界中に届けているのだ。
「ユウさん? どうしたの? 顔色が悪いよ」
「……なんでもない。今日はもう休もう」
ルナの無邪気な声が、ナイフのように胸に刺さる。
彼女を輝かせれば輝かせるほど、彼女は削れていく。
人気者になればなるほど、死に近づく。
(またかよ。俺はまた、消費するだけか)
夜、ルナが寝息を立てる横で、悠は鏡を睨み続けていた。
鏡のフチに刻まれた文字が、月明かりで読める。
『虚像を実像へ。想いを形へ』
プロデューサーとは、嘘(虚像)を誠(実像)に変える仕事だ。
なら、このふざけた理屈(ルール)も書き換えられるはずだ。
「……やってやるよ」
悠は鏡の表面を指でなぞった。
灰色の男の瞳に、冷たい炎が宿った。
第三章 鏡合わせのロジック
「ユウさん、次の配信いつやるの? コメントで『待機』がいっぱい来てるよ!」
数日後。
ルナは待ちきれない様子で悠の袖を引く。
彼女の腕は、すでに肘のあたりまで薄く透け始めていた。
本人は「最近、体が軽くて調子いいの!」と笑っている。
痛覚ごと、存在が希薄になっているのだ。
「ルナ。今日は歌うな」
「えっ……どうして?」
「トークだけでいく。歌えば、君が消えるからだ」
悠は鏡の解析結果を突きつけた。
ルナが息を呑む。
「……そっか。やっぱり、そうなんだ」
「気づいてたのか」
「うん。歌うたびにね、思い出がひとつずつ消えていく感じがするの。でもね、その代わりに、見てくれる人の笑顔が入ってくる。だから怖くなかった」
ルナは自身の透けた手を見つめる。
「私、空っぽだったから。誰かの役に立てるなら、それでいいかなって」
「馬鹿野郎」
悠は声を荒らげた。
ルナが肩をびくりと震わせる。
「自己犠牲で感動ポルノを作るな。俺はそんな三流のシナリオを描くためにここに来たんじゃない」
悠は瓦礫の上に鏡を置いた。
そして、その横に転がっていた鉄パイプを拾い、地面に複雑な図式を描き始める。
「いいか、よく聞け。この鏡の特性は『反射』と『固定』だ」
「はんしゃ……?」
「鏡は、実体のない『光』を捕まえて、そこに像を結ぶ。つまり、お前の歌(エネルギー)を、お前の肉体(ハードウェア)から切り離して、鏡の中に『保存』できる可能性がある」
悠の作戦はこうだ。
ルナが歌う瞬間、肉体が消費される前に、その「存在力」のベクトルを鏡を使って屈折させる。
肉体という器を捨てさせ、彼女自身を『純粋な音の概念』として世界に再定義する。
SF映画のような、あるいは詐欺師のような屁理屈。
だが、この世界は「イメージ」が物理干渉する世界だ。
プロデューサーの「見立て」こそが、物理法則になる。
「肉体を失うリスクはある。二度と、俺に触れられなくなるかもしれない」
悠はルナの目を見据えた。
「それでも、歌いたいか?」
ルナは迷わなかった。
透き通った手で、悠の手を握り返す。
体温はほとんど感じない。けれど、強い意志が伝わってきた。
「歌いたい。……ユウさんが、プロデュースしてくれるなら」
「……よし」
悠は鏡を拾い上げる。
その鏡面に、一瞬だけ、虹色の光が走った気がした。
第四章 プリズムの祈り
最終ライブの幕が上がる。
舞台は、崩壊寸前の高層ビルの屋上。
背景には、ひび割れた赤黒い空。
『キターーー!!』
『待ってました!』
『伝説の始まり』
同接数は一瞬で100万人を突破した。
その熱狂と呼応するように、世界が激しく明滅する。
足元のコンクリートが砂のように崩れ始めた。
「いくぞ、ルナ!」
「はいっ!」
ルナが歌い出す。
それは、鎮魂歌(レクイエム)ではなく、産声のような力強い旋律。
彼女の喉から放たれた虹色の光が、天を衝く。
ビキビキ、と音がした。
ルナの足元から、急速に透明化が進む。
膝、腰、胸――。
「今だ!」
悠は飛び出した。
ルナとカメラの間に割って入り、鏡を掲げる。
「俺を見ろ! カメラじゃない、俺を見ろルナ!」
ルナの視線が、悠の持つ鏡に吸い込まれる。
莫大な虹色のエネルギーが、悠めがけて殺到した。
熱い。
いや、痛い。
魂を直接焼かれるような激痛。
「ぐ、あああああッ!」
悠の体がきしむ。
灰色のオーラしか持たない凡人の器(キャパシティ)では、天才の輝きを受け止めきれない。
(壊れる……! 俺ごときじゃ……!)
鏡の表面にヒビが入る。
意識が飛びそうになったその時、鏡の中に「灰色」が映った。
違う。
これは灰色じゃない。
何色にも染まっていない、『透明』だ。
どんな強烈な光も受け入れ、屈折させ、より遠くへ届けるための『プリズム』の色。
主役を引き立てる、黒子(プロデューサー)の色。
(そうだ……俺は、空っぽでいい。お前の光を通すための、ただのレンズでいい!)
「貫けぇええええッ!」
悠は咆哮した。
鏡が砕け散る寸前、まばゆい閃光が放たれた。
ルナの肉体が弾け飛ぶ。
しかし、光は消えなかった。
悠の鏡(プリズム)によって屈折したその光は、無数の五線譜となって空を覆い尽くした。
肉体という檻から解き放たれたルナの歌声が、物理的な衝撃波となって世界中を駆け巡る。
崩れかけたビルが、その歌声の共鳴によって再び組み上がっていく。
赤黒い空が、澄み渡る青へと塗り替えられていく。
「ユウ……さん……」
光の渦の中で、ルナが微笑んだ気がした。
そして、彼女は数億の光の粒子となり、大気へと溶けていった。
最終章 風の旋律
あれから、一年が経った。
かつての瓦礫の山は、緑豊かな公園に生まれ変わっていた。
中央広場には、小さな真鍮の鏡がモニュメントとして飾られている。
「社長、次の会議の時間です」
スーツ姿の部下が声をかけてくる。
悠はベンチから腰を上げた。
かつてのやつれた顔つきはもうない。背筋の伸びた、自信に満ちた男の顔だ。
「ああ、すぐ行く」
ふと、風が吹いた。
木の葉が揺れ、さわさわと音を立てる。
その音の中に、懐かしいハミングが混じっていた。
『♪~~』
姿は見えない。
二度と触れることもできない。
だが、世界中のどこにいても、耳を澄ませば彼女はそこにいる。
あの日、悠のロジックは成功した。
ルナは『歌』そのものになった。
風に乗り、電波に乗り、人々の記憶に宿る「現象」として、永遠の命を得たのだ。
悠は空を見上げた。
透き通るような青空は、あの日見た彼女の瞳の色によく似ていた。
「いい声だ。今日も」
悠はポケットからスマホを取り出し、スケジュールを確認する。
画面の待受には、虹色の光に包まれた少女と、必死な顔で鏡を掲げる男が映っている。
胸の奥が、ちくりと痛む。
喪失感は消えない。
だが、この痛みこそが、彼女がここにいた証だ。
「さあ、次の物語(シナリオ)を始めようか」
悠は歩き出す。
その背中を、優しい風が歌うように押していた。