悪魔のヘッドセットと、最後の告解

悪魔のヘッドセットと、最後の告解

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第一章 虚構の王と透明な指先

「――さあ、今宵も絶望の底へようこそ」

安アパートの四畳半。

万年床の湿ったカビの臭いと、飲みかけのエナジードリンクの甘ったるい香料が混ざり合い、鼻腔にへばりつく。

俺、影山ユウは、加水分解でベタつくマイクのスポンジに唇を寄せた。

モニターの中では、俺のアバターである美青年が悪魔的な笑みを浮かべている。

だが、網膜に映るのは「絵」ではない。

『死にたい』

『あいつ殺してやりたい』

『私なんていらない』

滝のように流れるコメントの文字列。

それが俺の視界では、どろりとしたコールタールのような「黒い粘液」に見えていた。

モニターから溢れ出したその粘液が、部屋の床を浸食し、俺の足元へと這い上がってくる。

吐き気を催すほどの悪意。嫉妬。

俺はそれを肺いっぱいに吸い込んだ。

「見えているぞ。貴様のその、誰にも言えない薄汚い欲望がな」

喉の奥が焼けつくようだ。

他人の不幸を啜り、甘い毒のような言葉にして吐き出す。

心臓が早鐘を打つ。脳髄が痺れるような全能感。

現実ではコンビニ店員の目も見られない俺が、神になれる時間。

配信終了のボタンを押す。

ヘッドセットを外すと、耳周りにこびりついた黒い合成皮革のカスが、汗と共に頬へ張り付いた。

「……ふぅ」

重たい息を吐き、机に置いた右手を見る。

「……まただ」

人差し指が、ない。

いや、ある。

輪郭がぼやけ、ガラス細工のように透き通っていた。

指の向こう側にある、シミだらけの畳の目がはっきりと見える。

この力を振るう代償。

俺という存在が、世界から希薄になっていく感覚。

指先を擦り合わせる。感覚が鈍い。

まるで自分自身が、幽霊に成り下がっていくようだ。

でも、構わなかった。

明日、あの胃液がせり上がるような職場に行くくらいなら、いっそこのまま蒸発してしまいたかった。

第二章 捕食する社長

翌朝。

俺は鉛のように重い体を引きずってタイムカードを切った。

「おい影山ァ!!」

鼓膜を突き破るような怒号。

社長の権田だ。

ビクリと肩が跳ねる。

振り返ると、異様な光景があった。

権田の肌が、異常なほどツヤツヤと輝いている。

中年特有の脂ぎったテカリではない。

内側から何かが充填され、皮膚が裂けんばかりに張り詰めているのだ。

「なんだその死んだ魚のような目は! 返事をしろ!」

権田の瞳孔が開いている。

白目がほとんど見えないほど黒目が拡張し、ギラギラと飢えた獣のように俺を捉えていた。

「す、すみま……」

「声が小さい! お前が息をすると空気が腐るんだよ!」

怒鳴り声が、二重に聞こえた。

低い、地を這うようなノイズが、人間の声の裏に重なっている。

その時、見えた。

昨夜、俺がモニター越しに吸い込み、処理しきれずに垂れ流した「黒い粘液」。

それが、権田の背後に蜃気楼のように揺らめいている。

周囲の社員たちが青ざめ、俯くたび、彼らの口から白い靄が漏れ出す。

それを権田が、鼻の穴を大きく広げてスゥーッと吸い込んでいた。

肌のツヤが増す。

権田の体が、さらに一回り大きく見えた。

(まさか……俺が集めた悪意を、こいつが食ってるのか?)

俺がネットの掃き溜めでかき集めた汚泥。

それが現実世界で循環し、この怪物を育てていた。

隣の席の先輩が、ガクリと膝をつく音がした。

先輩の目から、光が完全に消えている。

俺のせいだ。

俺が「悪魔」ごっこをして悦に浸っている間に、現実の怪物を肥え太らせてしまった。

視線を落とす。

俺の右手は、もう手首まで透けていた。

ワイシャツの袖口から先が、空気のように頼りない。

このままでは、俺も、先輩も、全員が権田というブラックホールに咀嚼され、跡形もなく消える。

第三章 最後の配信

その夜。

俺は震える指で、ガムテープで補強されたヘッドセットを装着した。

プラスチックの冷たい感触だけが、俺を現実に繋ぎ止めている。

「……配信、開始」

『キター!』

『陛下! 今日も罵ってください!』

『会社で嫌なことがあって……』

同接数は過去最高。

画面の向こうから、どす黒いヘドロが奔流となって押し寄せてくる。

部屋の温度が下がった気がした。

これを煽れば、俺は満たされる。

そして明日の朝、権田はさらに凶悪な力を得るだろう。

画面の中のアバターが、残忍な笑みを浮かべようとした。

――違う。

俺は唇を噛み締めた。

鉄錆のような血の味が口の中に広がる。

「……今日は、悪魔のフリはやめる」

『え?』

『何言ってんの?』

『マイクの調子悪い?』

俺はボイスチェンジャーを切った。

部屋に響くのは、震えて、掠れた、情けない男の声。

「俺は……悪魔なんかじゃない。ただの、明日が来るのが怖い、弱虫な人間だ」

コメントの流れが止まる。

一瞬の静寂。

『は? 何キャラ変?』

『つまんね』

『酔ってんのか』

困惑と嘲笑がパラパラと流れる。

心臓が早鐘を打つ。怖い。今すぐ逃げ出したい。

けれど、俺は透けかけた右手で、必死にデスクの端を掴んだ。

「毎日、誰かに認められたくて。でも傷つくのが怖くて、安全な場所から石を投げてた」

脳裏に浮かぶのは、生気を吸い取られ、廃人のようになった先輩の顔。

そして、怪物のごとき権田の、あのギラついた瞳。

「でも……本当は、誰かと分かり合いたかった。泥の中で、誰かに手を握ってほしかったんだ」

涙で視界が滲む。

かっこ悪い。最悪だ。

築き上げてきた「魔王」の地位が崩れ去っていく。

だが、その時だった。

『……わかる』

短い一言が、ポツリと流れた。

『私も、本当は毎日しんどい』

『会社行きたくないよな』

『陛下も、人間だったんだ』

『なんか、泣けてきた』

黒一色だったコメント欄の色彩が変わっていく。

どす黒い粘液の中に、淡い、蛍のような光の粒が混ざり始めた。

それは「共感」という名の灯火。

『俺も頑張るから、主も生きろよ』

無数の光の粒が、画面から溢れ出し、薄暗い四畳半を暖かく照らす。

俺の視界の端で、権田へと伸びていた黒いパイプラインのような煙が、光に焼かれて霧散していくのが見えた。

「俺は、もう逃げない。……聞いてくれて、ありがとう」

俺は震える指で、静かに配信停止ボタンを押した。

第四章 夜明けの呼吸

翌朝。

オフィスのドアを開けると、そこは奇妙なほど静まり返っていた。

「……あ、影山くん。おはよう」

先輩が、普通の顔でコーヒーを飲んでいた。

昨日までの、空気が重力を持ったような圧迫感がない。

社長室のドアが開いている。

デスクに座る権田は、まるで空気が抜けた風船のように萎んでいた。

あの異常な肌のツヤは消え失せ、土気色の顔で、力なく書類をめくっている。

ギラついていた瞳は濁り、ただの疲れた中年男性がそこにいた。

供給を断たれた怪物は、飢え死にしたのだ。

俺は自分の右手を見る。

透けていない。

親指の付け根にささくれがあり、青い血管が浮いた、確かな肉体の手。

爪を立てると、鈍い痛みが走った。

生きている。俺はここにいる。

「先輩」

俺は、乾いた喉を鳴らして声を絞り出した。

「僕、今日でここを辞めます」

先輩は少し驚いたように目を見開き、それから柔らかく微笑んだ。

「そっか。……寂しくなるけど、その顔なら大丈夫そうだね」

俺は深く頭を下げた。

これまでのどんな時よりも、深く。

オフィスを出る。

重い鉄の扉を開けると、暴力的なほどの朝日が俺を貫いた。

車の走行音。

遠くで鳴る踏切の音。

どこかの家の朝食の匂い。

ヘッドセット越しではない、生身の感覚が、波のように押し寄せてくる。

ポケットには、あのボロボロのヘッドセットが入っている。

二度と使うことはないだろう。

俺は大きく息を吸い込んだ。

冷たく乾いた朝の空気が、肺の奥底まで染み渡る。

「……よし」

小さく呟き、俺は雑踏の中へ一歩を踏み出した。

アスファルトを踏みしめる靴底の感触だけを頼りに。

AIによる物語の考察

**深掘り解説文**

**1. 登場人物の心理**
主人公ユウは、現実の弱さを隠しネットで全能感を求めつつも、深層では「誰かと分かり合いたい」と切望する。権田社長は、他者の負の感情を吸収し肥大化する、現代社会における搾取的な権力の象徴として描かれる。

**2. 伏線の解説**
ユウの指が透け始めるのは、彼が悪意に依存する代償としての「存在の希薄化」を示唆。ネット上の「黒い粘液」が現実の権田社長を肥大化させる描写は、虚構と現実における悪意の循環と連鎖を明確に表す。権田の異常な輝きやノイズ混じりの声も、彼が人間を超えた存在へと変貌している兆候である。

**3. テーマ**
本作は、匿名で撒き散らされる悪意が現実の自己存在や社会にどう影響し、蝕んでいくかを描く。自身の弱さを認め、虚飾を捨て本音で向き合うことで、他者との真の共感と自己再生に至るプロセスを問いかける。それは、仮想世界で得られる安易な承認ではなく、現実の苦悩の中で見出す希望の物語だ。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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