硝子の箱庭

硝子の箱庭

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第一章

午前二時。

都市の夜景を見下ろす高層ビルの最上階。

空調の稼働音だけが低く唸るその空間は、常時二三度に保たれた巨大な冷蔵庫のようだ。

「香坂。B案のロジック、破綻しているぞ」

静寂を裂く声。

クリエイティブディレクター、瀬名恭介。

私のデスクに近づく足音すら、計算され尽くしたように一定のリズムを刻んでいる。

「申し訳ありません。パラメータの調整ミスかと」

私は顔を上げず、キーボードを叩く手を止めない。

視線を合わせれば、装っている冷静さが崩れ落ちることを知っているからだ。

頭上には、最新鋭の監視カメラ。

『統合監視システム・アルゴス』。

社員の表情、心拍数、瞳孔の開き具合までを検知し、不適切な接触や背信行為を予測する冷徹な神。

この硝子の箱庭で、情動はバグとして処理される。

「修正にはどれくらいかかる」

瀬名が私の椅子の背もたれに手をかけた。

革が軋む微かな音。

漂ってくるのは、清潔なシャツの匂いと、それを裏切るような湿度を帯びた体温。

背筋に悪寒が走る。

恐怖ではない。

待っていたのだ。この、皮膚が粟立つような緊張感を。

「……システムログの解析が必要です。通常なら一時間は」

「長すぎる」

瀬名は私のモニターを覗き込むふりをして、耳元に顔を寄せた。

吐息が首筋を撫でる。

「今夜はサーバーの排熱処理がある。二時十五分から、正確に百八十秒間」

それは業務連絡を装った、共犯への招待状だった。

「室温が五度上がる。その熱干渉で、サーモセンサーは一時的に誤作動(エラー)を起こす」

彼はモニター上のグラフを指差すが、その指先は画面には触れていない。

私の肩を、ほんの数ミリの距離でなぞっている。

「百八十秒の空白。……修正(これ)で足りるか?」

私は乾いた喉で、短く答える。

「……善処します」

第二章 百八十秒の空白

二時十五分。

空調の音が変わり、床下の排気口から温風が噴き出す。

モニターの右端、監視システムのステータスアイコンが『再起動中(Rebooting)』の琥珀色に変わった。

その瞬間。

「立て」

瀬名の腕が私の腰を掴み、乱暴に引き寄せた。

さっきまでの理知的な上司の仮面は、もうそこにはない。

デスクの上に資料が散らばる音がした。

私はその上に押し倒される。

「瀬名、さ……」

言葉は、彼の唇によって封じられた。

甘さなど微塵もない。

酸素を奪い合うような、飢餓感を埋めるための接触。

視界の端で、監視カメラの赤いLEDが点滅を繰り返している。

今は見えていないはずだ。

けれど、いつ復旧するかわからないという恐怖が、脳髄を痺れさせるようなスパイスになる。

「ずっと、こうしたかったんだろう?」

彼の指が、私のブラウスのボタンを弾き飛ばす勢いで外していく。

冷たいオフィスの空気と、彼の手のひらの灼熱。

その温度差に、私の輪郭が溶けていく。

私は、優秀なプランナーとして振る舞うことに疲れていた。

完璧な化粧、完璧な笑顔、完璧なロジック。

そんな鎧の内側にある私は、空っぽだ。

誰かに支配され、思考を奪われ、ただの「肉体」に還元される瞬間だけが、私が生きている証だった。

「香坂。お前の眼は、いつも何かを乞うている」

瀬名の視線が、私の露わになった鎖骨から胸元へと這う。

触れられてもいないのに、視線だけで肌が焼けるようだ。

「……いけません、こんな……」

「口ではそう言いながら、体温が上がっている」

彼の手が、タイトスカートのスリットから滑り込む。

太腿の内側、誰にも触れさせたことのない聖域へ。

「っ……!」

声にならない悲鳴。

彼が触れた場所から、電流のような痺れが全身に奔る。

拒絶ではない。

もっと深く、もっと乱暴に、私の空虚さを暴いてほしいという懇願。

第三章 執行猶予の熱帯夜

「声を殺せ。音声マイクは生きている」

瀬名が私の耳朶を甘噛みしながら囁く。

その背徳的な命令が、私の理性の堤防を完全に決壊させた。

私の唇から漏れそうになる喘ぎを、自分の手で強く塞ぐ。

デスクの硬質な感触が背中に食い込む痛みさえ、今は快楽の一部だった。

「……ん、ぁ……っ」

彼の指使いは、残酷なほど的確だった。

私が無意識に隠していた弱点を、執拗に、ねっとりと愛撫する。

逃げ場はない。

彼の支配下にあるこの数分間、私はただの雌になる。

思考が白濁していく。

自分が誰なのか、ここがどこなのか、どうでもよくなる。

「熱いな。……こんなに濡らして」

耳元で落とされる言葉の礫。

羞恥で顔が熱くなるのと同時に、身体の奥底から蜜が溢れ出すのを感じた。

抗えない本能。

「瀬名さんの、せいです……」

「そうだ。俺とお前の共犯だ」

彼が私の腰を持ち上げる。

重なり合う身体。

衣服越しの摩擦だけで、発狂しそうなほどの熱量が生まれる。

彼の一部が、私の渇ききった内側をこじ開けるように侵入してくる。

硬く、熱く、圧倒的な質量。

空っぽだった私の器が、彼という存在だけで満たされていく。

「ぁ……ああっ!」

声を殺すことなど不可能だった。

激しいピストンが繰り返されるたびに、視界が明滅する。

快楽の波ではない。津波だ。

私という個が砕け散り、彼の色に染め上げられていく。

頭上の空調音が、心臓の鼓動と重なる。

百八十秒という制限時間が、永遠にも、一瞬にも感じられた。

(壊れる。私が、壊れる)

その恐怖こそが、至高の蜜だった。

社会的な地位も、倫理も、すべてを焼き尽くす業火の中で、私たちは獣のように絡み合い、互いの存在を貪り尽くした。

不意に、モニターの警告音が鳴り響く。

『システム復旧完了』

瀬名が動きを止め、荒い息を吐きながら私から離れる。

乱れた衣服、紅潮した肌、湿った瞳。

カメラの赤い光が、再び私たちを捕捉し始めていた。

けれど、私たちの間に流れる空気だけは、まだ熱を孕んだままだった。

第四章 アルゴリズムの彼方

あの日から、瀬名は消えた。

システムログに改竄の痕跡が見つかったのだ。

ただし、あの夜の映像ではない。

私が過去に犯した些細なミスを隠蔽したかのように、彼がログを書き換えていた痕跡だ。

私のキャリアを守るために、彼は自ら汚れ役を被り、この硝子の城を追放された。

『優秀な駒は、盤上に残すべきだ』

最後に届いたメールには、それだけが記されていた。

私は出世した。

誰もが羨む地位、完璧なキャリア。

だが、私の内側にある空洞は、以前よりも深く、暗くなっていた。

どんなに高級なワインも、誰との情事も、あの夜の百八十秒間の熱狂には遠く及ばない。

私は探し続けた。

彼が残したプログラムの、意図的なバグの配列。

それを地図(コード)として読み解き、辿り着いたのは、都市の喧騒から隔絶された古びた雑居ビルの一室だった。

錆びついたドアを押し開ける。

そこには、無数のサーバーとケーブルの森に埋もれるようにして、男が座っていた。

かつてのような高級スーツではない。

洗いざらしのシャツに、無精髭。

けれど、モニターの光に照らされたその横顔の鋭さは、何も変わっていなかった。

「……解読に三年もかかるとはな。腕が落ちたんじゃないか?」

瀬名は振り返りもせず、キーボードを叩きながら言った。

「難解すぎる暗号を残す方が悪いんです」

私はヒールを鳴らし、彼に近づく。

この部屋には、私たちを監視する『アルゴス』はいない。

あるのは、排熱ファンの唸り声と、むせ返るような電子機器の熱気。

瀬名がゆっくりと椅子を回転させ、私を見上げた。

その瞳の奥に、あの夜と同じ、飢えた狼のような光が宿っているのを見て、私は安堵で膝が震えた。

「ここには空調がない。……暑いぞ」

「構いません」

私は彼の手を取り、自分の腰へと導く。

触れ合った場所から、燻っていた火種が一気に燃え上がった。

「その熱で、私をまた溶かしてください」

「……どうなっても知らないぞ」

「望むところです」

言葉は、重なり合う唇の中に消えた。

硝子の檻はもうない。

私たちはこの混沌とした熱の渦の中で、今度こそ誰にも邪魔されることなく、終わりのない熱暴走(エラー)へと堕ちていく。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**:
香坂は、完璧なキャリアの裏で深い空虚さを抱え、他者に支配され肉体へと還元されることで「生」を実感する倒錯した渇望を持つ。瀬名は、理知的な上司の仮面の下に香坂への執着と支配欲を隠し、彼女の深層心理を見抜く。彼は自らを犠牲にして香坂を守り、管理社会の檻を超えた場所で再会を画策する、周到な支配者であり共犯者だ。

**伏線の解説**:
「百八十秒の空白」は、システムの一時的なエラーを利用した禁断の行為の時間であると同時に、二人を「共犯者」として結びつける決定的な瞬間。瀬名が残した「意図的なバグの配列」は、単なるプログラムの欠陥ではなく、香坂の能力への信頼と、監視社会を抜け出した場所での再会を計画した未来への招待状だった。

**テーマ**:
この物語は、高度な監視社会「硝子の箱庭」において、「バグ」として排除される情動(欲望、破壊衝動、性)こそが、人間性を証明する根源であることを問いかける。支配と被支配の関係性の中で、自己のアイデンティティと倒錯的な自由を見出す様は、冷徹なシステムが許さない「熱」こそが真の人間性であり、生きる証だと訴えかける。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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