幽玄の墨、彩りの果て

幽玄の墨、彩りの果て

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第一章 視界のノイズ

「っと、危ねえ」

太い腕が俺の襟首を掴み、強引に引き戻す。

鼻先を、荷車が風を切って掠めていった。

「ぼんやりすんな、緋色。溝に落ちても知らねえぞ」

岡っ引きの源太の声。

俺は礼を言う代わりに、握りしめた杖で地面を探る。

コツ、と乾いた音が掌に響く。

「……悪い。ノイズが酷いんだ」

「またか。今日は一段と顔色が悪いぜ」

源太は俺の背中を無造作に叩く。

痛い。だが、その乱暴な熱量だけが、俺がこの世に繋ぎ止められている唯一の錨(いかり)だった。

俺の視界は、常に砂嵐のような粒子で埋め尽くされている。

人の顔も、長屋の壁も、足元の泥濘(ぬかるみ)も、すべては灰色の濃淡でしかない。

だが、その灰色を裂くように、其処(それ)はある。

長屋の路地裏。

源太が手拭いで鼻を覆い、顔をしかめている場所。

「うへぇ、腐った臓物と甘い菓子を混ぜて煮込んだような臭いだ」

俺には臭わない。

俺の世界は無臭だ。音と、灰色の輪郭と、そして――。

「……下がってろ、源太」

俺は右目を押さえる。

眼球の裏側を、焼き火箸で抉られるような激痛が走る。

灰色の世界が裏返る。

視界を覆うノイズが弾け、極彩色の情報が脳髄に雪崩れ込む。

逃げ惑う足跡が残した、恐怖の「青」。

引き裂かれた未練が放つ、ドス黒い「赤」。

そして、その中心に。

「う、ぷ……」

胃液がせり上がる。

そこには、人間がいたはずの空間を食い破るように、絶対的な「黒」が鎮座していた。

コールタールではない。

それは視界に開いた「穴」だった。

周囲の色彩を、光を、存在そのものを、じゅるりと吸い込んでいる。

「緋色、何が見える! 仏か? 鬼か?」

源太の問いに、俺は杖を突き、膝の震えを必死に抑え込む。

「……鬼のほうがマシだ」

俺は呻く。

「魂ごと削り取られた跡だ。……まだ、そこに『穴』が開いてる」

最近、江戸の町で頻発する神隠し。

その正体は、誘拐などという生温かいものではない。

俺の網膜には焼き付いている。

黒い穴の縁(ふち)にこびりついた、誰かの記憶の残滓。

七歳の祝着の赤、母に手を引かれた温もりの橙色。

それらが、咀嚼され、色を失い、虚無へと堕ちていく。

俺は自分の手を見る。

輪郭がぼやけている。

匂いもなく、自分の色も見えない俺は、いつかあの穴に吸われて消えるのではないか。

「緋色、肩貸すぞ。……吐きそうだろ」

源太が俺の脇に体をねじ込んでくる。

汗と、安酒と、埃っぽい着物の感触。

その圧倒的な「質量」が、俺の輪郭をかろうじて保たせてくれる。

「……ああ。頼む。あいつを追う」

俺は黒い点々が続く方角――町外れの廃寺を指した。

第二章 記憶の墓標

廃寺の堂内は、ひどく静かだった。

虫の音一つしない。

空気が凍りついたように張り詰め、足を踏み入れるだけで肌が粟立つ。

堂の中央。

朽ちた机の上に、一本の筆と、古びた巻物が置かれている。

俺が近づくと、視界の砂嵐が暴走した。

「ぐっ……アアッ!」

脳が沸騰する。

巻物から溢れ出すのは、何千、何万という人々の「黄金色」の祈り。

いや、違う。これは「記憶」の貯蔵庫だ。

俺は本能的に悟る。

この巻物は、奪われた記憶を墨に変え、何かを記述するための媒体。

『……足、りな、い……』

声ではない。

脳の血管に直接響くような、不快な振動。

仏像の影から、其処(それ)が滲み出してきた。

人型をしているが、中身がない。

背景の柱が透けて見えるほどの、陽炎のような揺らぎ。

ただ、その「顔」の部分だけが、ぽっかりと黒い穴になっていた。

「おい、緋色。俺には何も見えねえぞ。ただ、寒気が止まらねえ」

源太が十手を構え、俺を背に庇う。

『……色視(いろみ)か。……よい、餌だ』

穴が歪む。

瞬間、世界から音が消えた。

衝撃だけが遅れてやってくる。

源太の巨体が、紙屑のように吹き飛ばされ、壁に叩きつけられた。

「が、はっ……!」

源太の体から、命の灯火である鮮やかな「朱色」が飛び散り、薄れていく。

「源太!!」

俺は駆け寄ろうとするが、足が動かない。

黒い穴が、俺を見ている。

俺の存在を、記憶を、色を、啜ろうとしている。

『……寄越せ。その眼球の裏にある、彩りを』

穴が膨張する。

俺の視界の端から、長屋の風景が、空の青さが、剥がれ落ちていく。

喰われている。

「……ふざ、けるな」

俺は机上の筆を掴んだ。

指先から、巻物の「黄金」が流れ込んでくる。

使い方は知らない。

だが、この目が、この体が、勝手に理解している。

これは「記述」することで世界を改変する術具。

奪われたものを、あるべき場所へ還すための装置。

ただし、インク代が必要だ。

俺は筆を握りしめ、巻物に叩きつける。

「俺の記憶(すべて)を持って行け! その代わり、源太を……みんなを返せ!」

第三章 桜の色を知らない

筆を走らせた瞬間、俺の頭の中で何かが「パチン」と弾けた。

激痛などという生易しいものではない。

俺という人間を構成する煉瓦を、一つずつハンマーで砕かれる感覚。

一画、線を引くたびに、俺の中から「何か」が消滅する。

(――母さん?)

優しかった母の笑顔。

その記憶が、白く塗りつぶされる。

顔が思い出せない。

声が聞こえない。

「母」という概念が、意味のない記号へと崩れ落ちる。

『や、め、ろ……!』

虚無が悲鳴を上げ、俺に殺到する。

黒い波動が俺の体を打ち据えるが、俺は止まらない。

止まれば、源太が死ぬ。

俺は叫びながら、筆を振るう。

血反吐と共に、俺の大切な景色がインクとなって迸る。

初めて見た海の、吸い込まれるような群青。

(海って、なんだ?)

祭りの夜、空に咲いた花火の煌めき。

(花火……知らない言葉だ)

恐怖が、心臓を鷲掴みにする。

自分が自分でなくなっていく。

俺の過去が、人格が、空っぽになっていく。

俺は誰だ?

なぜここにいる?

この筆を握っている手は、誰のものだ?

『消エロ、消エロ、消エロオオオ!!』

虚無が俺の首に冷たい爪を立てる。

視界が暗転しかける。

その時。

足元で倒れていた源太が、血まみれの手で俺の足首を掴んだ。

「……生きろ、緋色……!」

その熱。

その熱さだけは、知っている。

俺の名前は、緋色。

こいつは、俺の相棒。

「……おおおおおおッ!」

俺は残った全ての魂を込め、最後の一画を書き殴る。

俺の視界から、最後の一色が――「源太の朱色」が消え失せた。

カッッッ!

巻物から放たれた光が、廃寺を、江戸の夜を、白一色に染め上げる。

奪われていた数万の記憶が、洪水の如く虚無の穴へ逆流する。

『ギ、アアアアアアア……!』

許容量を超えた色彩を注ぎ込まれ、黒い穴が内側から破裂した。

虚無が霧散し、光の粒子となって空へ還っていく。

それを見届ける俺の目は、もう何も映していなかった。

灰色のノイズすら消えた。

完全なる、漆黒。

絶対的な、闇。

プツリと、意識の糸が切れた。

第四章 世界は馨(かぐわ)しい

暗い。

寒い。

俺は、死んだのか?

体を揺さぶられている。

誰かが俺を呼んでいる気がするが、音は水の中にいるように籠もって聞こえる。

目を開ける。

だが、瞼(まぶた)の裏と表に差がない。

光がない。色がない。

俺はついに、世界との繋がりを完全に失ったのだ。

絶望で、喉が張り付く。

俺は空っぽの幽霊になった。

もう、源太の顔を見ることも、四季の移ろいを感じることもできない。

恐怖に震え、膝を抱えようとした、その時。

ツン、と。

鼻腔の奥を、何かが鋭く刺激した。

「……っ?」

最初は、むせ返るような埃の粒子。

古い木材が湿気を含み、腐りかけている酸っぱい刺激。

ついで、足元から立ち上る、濡れた土の重厚な香り。

雨上がりのアスファルトにも似た、生命の土台の匂い。

(なんだ……これ……?)

情報量が、凄まじい。

視覚という暴力的な情報が遮断された分、嗅覚が爆発的な解像度で世界を捉え始めていた。

風が吹く。

その風に乗って、遠くの長屋で焼かれている魚の焦げた脂。

どぶ川のヘドロ。

誰かが吸っている刻みタバコの紫煙。

路地に咲く名もなき雑草の、青臭くも甘い蜜の香り。

見えない。

なのに、世界が「ある」。

立体的(3D)な地図のように、匂いが空間を構築していく。

そして、目の前にある、一際濃厚な匂い。

鉄錆びた血の匂い。

乾燥した皮膚と、じっとりした脂汗。

使い古された木綿の着物の、日向(ひなた)のような匂い。

「……源太、か?」

俺が呟くと、目の前の匂いの塊が、大きく息を吐いたのが分かった。

「……緋色! 目、見えてねえのか? 俺の前で手を振っても反応しねえ」

「ああ、真っ暗だ。何も見えない」

俺は鼻をすする。

「でも、お前の匂いがする。……ひどく汗臭くて、鉄臭くて、生きている人間の匂いだ」

涙が溢れた。

頬を伝う涙すら、微かに塩の香りがした。

俺は幽霊じゃない。

この匂い立つ濃厚な世界の一部として、確かにここに存在している。

「へっ、悪かったな、汗臭くて」

源太の声が震えている。

彼は俺の肩を抱き寄せた。

その体温と共に、さらに強い「安心」の香りが俺を包み込む。

視覚という「絵画」は失われた。

だが、その代わりに俺は、体温と匂いという「現実」を手に入れたのだ。

「帰ろう、緋色。……腹減ったろ」

「ああ。……あっちから、美味そうな出汁(だし)の匂いがする」

俺は源太の腕を借りず、杖を突いて立ち上がる。

鼻が、風の道を教えてくれる。

「蕎麦屋か? へへ、鼻が利くようになっちまって。こりゃあ、岡っ引きとしての腕が上がりそうだ」

「うるさい。……行くぞ、相棒」

俺は闇の中へ、確かな一歩を踏み出す。

肺いっぱいに吸い込んだ空気は、かつて見たどんな色よりも鮮やかに、俺の命を震わせていた。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**:
緋色は自身の希薄な存在に不安を抱え、源太の乱暴な熱量を唯一の錨としていました。視覚を失う恐怖と引き換えに、源太を守る選択で自己の存在意義を見出します。源太の「生きろ」という叫びは、絶望から緋色を呼び戻す彼の魂の言葉です。

**伏線の解説**:
緋色の「視界のノイズ」は、彼の視覚が既に不完全であり、他の感覚で世界を捉える素地があったことを示唆します。源太の「乱暴な熱量だけが、俺がこの世に繋ぎ止められている唯一の錨」という描写は、視覚を失った後も源太の匂いによって現実を感じる展開への重要な伏線となっています。巻物が「記述」で世界を改変する術具であるという説明は、緋色が己の記憶を代償に世界を救う行為の根拠です。

**テーマ**:
この物語は、「認識の多様性」と「存在の定義」を問いかけます。視覚を失うという究極の喪失を通して、緋色が嗅覚で世界を再構築し、より豊かな「現実」を発見する様を描いています。失うことで得られるもの、そして友情という「絆の色彩」こそが、何よりも鮮やかな世界を形作るという、逆説的な豊かさを提示しています。
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あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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