墨染の御台所
第一章 灰色の江戸
宗介の見る世界は、いつからか色を失っていた。雨上がりの濡れた土の匂い、肌を撫でる風の湿り気、遠くで響く鍛冶の音。五感の全てがそこにあるというのに、景色だけが、まるで使い古された墨絵のように濃淡だけで構成されていた。
かつて、師と慕った絵師が目の前で斬り捨てられた日。降り注ぐ血潮のあまりの鮮烈さが、宗介の世界から他の全ての色を奪い去った。その代償か、あるいは呪いか、彼は奇妙な力を得た。凄惨な記憶が染みついた場所や物に触れると、その瞬間の鮮やかな色彩と、渦巻く情念が幻となって流れ込んでくるのだ。
「また、薄くなっている」
江戸城下、鬼子母神の裏手。かつて辻斬りが横行し、濃い『澱(おり)』が漂っていたはずの路地で、宗介は呟いた。人々が抱く恨みや未練が凝り固まった澱は、常ならば夕靄のように揺らめき、見る者の心を重くする。だが今、そこにあるのは不自然なほどの清澄さだけだった。宗介が煤けた石畳に指を触れる。
―――チカッ、と。
一瞬だけ、錆びた赤黒い色が脳裏をよぎる。だがそれだけだ。まるで古い絵巻から無理矢理に絵の具を剥ぎ取ったかのように、そこに宿るべき恐怖も、無念も、全てが抜け落ちていた。
「宗介殿」
背後からかけられた声に、宗介はゆっくりと振り返った。幕府の目付役、影山が苦虫を噛み潰したような顔で立っている。
「ここだけではない。日本橋の袂、鈴ヶ森の刑場跡……江戸中の澱が、まるで誰かに拭い去られたかのように消えつつある」
影山の低い声が、色のない空気に重く響いた。
「これは、吉兆ではありますまい。むしろ、嵐の前の静けさに思えてならぬ」
宗介は答えず、ただ空を見上げた。灰色と黒のまだら模様の雲が、音もなく流れていく。その静けさの中心に、巨大な空洞があるような、途方もない違和感だけが胸に広がっていた。
第二章 色褪せし錦絵
調査は難航した。澱が消えた場所は、宗介の能力をもってしても、もはや過去の断片しか拾えない抜け殻となっていた。手掛かりを求め、宗介は神保町の古書店街に足を運んでいた。埃と古紙の匂いが満ちる薄暗い店内で、彼はふと、壁に掛けられた一枚の浮世絵に目を奪われた。
『大奥百景之内・御休息の間』と題されたそれは、しかし異様だった。精緻な線で描かれているにもかかわらず、色が完全に抜け落ち、墨の濃淡だけで描かれている。まるで、今の宗介が見る世界そのものだった。
「お目が高い。いわくつきでしてな」
店の主人が、茶をすすりながら言った。
「描いた絵師は、これを仕上げた直後に狂い死んだとか。以来、何度絵の具を乗せても、夜が明ける頃には色が消えているのだそうで」
宗介は吸い寄せられるように絵に近づき、そっと指先で和紙に触れた。
瞬間。
世界が反転した。
極彩色の奔流が、彼の意識を飲み込む。緋色の打掛、金糸の刺繍、瑠璃色の髪飾り。絢爛豪華な色彩が咲き乱れる大奥の光景。だが、その華やかさとは裏腹に、空気に満ちているのは息が詰まるほどの嫉妬、諦念、そして深い、深い哀しみだった。色の洪水と感情の濁流の中心に、一人の女性が静かに座している。その瞳が、まるで底なしの闇のように、全ての光と情念を吸い込んでいた。
「うっ……!」
宗介は喘ぎ、絵から手を離した。心臓が激しく脈打ち、冷たい汗が背中を伝う。
あの瞳。
あれは、ただの哀しみではない。江戸中の澱を、たった一人で受け止めているかのような、途方もない絶望の色だった。
第三章 澱なき聖域
「大奥……」
影山の屋敷に戻った宗介は、錦絵から視た光景を語った。影山は眉間に深い皺を刻み、腕を組んだ。
「腑に落ちぬ。大奥こそ、女たちの情念が渦巻く、江戸で最も澱の濃い場所のはず。それが、絵の中では全ての中心に見えたと?」
「いや、中心でありながら……空虚だった。まるで、巨大な器が全てを吸い尽くしているような」
数日後、影山の手引きにより、宗介は絵師として江戸城へ入る機会を得た。厳重な警備を抜け、本丸に近づくにつれて、宗介を苛んでいた違和感は確信に変わっていった。空気が、軽いのだ。澱が全く存在しない。それは清浄というより、生命の気配すら感じられない、不自然な「無」だった。
そして、大奥へ続く御鈴廊下の前に立った時、宗介は息を呑んだ。
そこだけが、ぽっかりと空間が歪んだかのように、澱の気配が完全に途絶えている。まるで、見えざる壁の向こうに、この世の理が通用しない聖域が広がっているかのようだった。
廊下の奥から、微かに白檀の香りが漂ってくる。その香りに混じって、宗介は感じていた。錦絵で視た、あの底なしの哀しみの気配を。江戸中の澱の消失は、この奥で起きている。
第四章 色喰らいの姫
大奥の最も奥まった一室。そこは、宗介が今まで見たどんな景色よりも異様だった。壁も、襖も、畳も、天井も、全てが雪のような純白で統一され、一切の装飾がない。まるで、この世の色という概念そのものを拒絶しているかのような空間だった。
その中央に、ひとりの女性が座していた。御台所・桔梗。
白い着物をまとった彼女は、血の気の失せた肌と相まって、まるで精巧な人形のように見えた。だが、宗... ...宗介は知っていた。この静寂こそが、嵐の中心なのだと。
「そなたが、色を視る者か」
桔梗の声は、冬の湖面のように静かだった。
「参れ。そして、妾(わらわ)に触れるがよい」
促されるまま、宗介は震える足で彼女に近づき、ためらいながらもその細い指先に触れた。
―――その瞬間、世界が砕け散った。
江戸中の憎悪が、悲鳴が、呪詛が、血の涙が、奔流となって宗介の精神を蹂躙する。辻斬りに倒れた者の無念。火事で家を失った者の絶望。愛する者を奪われた者の恨み。ありとあらゆる負の感情、江戸に溜まる全ての澱が、目の前の桔梗というたった一人の人間の中に、凄まじい勢いで流れ込んでいる。
彼女の魂は、澱を喰らうための器だった。江戸の安寧を保つため、その身を犠牲に、何十年もの間、たった一人で人々の負を飲み込み続けていたのだ。
澱の消失は、彼女の力が限界まで高まった証。そして、大奥に澱がなかったのは、彼女自身が澱の発生源であり、同時に終着点だったからに他ならない。
「……なぜ」
幻視の嵐からかろうじて意識を保ち、宗介は掠れた声を絞り出した。
桔梗は、哀しげに微笑んだ。その瞳の奥で、黒い澱が渦を巻いている。
「これが、妾の役目ゆえ」
第五章 決壊の刻
宗介との接触が、最後の引き金となった。
長きにわたり張り詰めていた糸が、ぷつりと切れる音がした。
「……ああ」
桔梗の唇から、小さな吐息が漏れた。その瞬間、彼女の身体から黒い霧が、まるで墨汁を水に落としたかのように溢れ出した。純白の部屋は瞬く間に闇に染まり、澱は壁を、襖を突き破り、奔流となって大奥を、江戸城を、そして江戸の空そのものを飲み込んでいく。
陽光は遮られ、世界は急速に夜の闇に閉ざされた。
人々は空を見上げ、絶叫した。空を覆う黒い靄の中に、無数の苦悶の表情が浮かび上がり、声なき慟哭が江戸中に響き渡る。自分たちが目を背け、忘れ去ろうとしていた悲しみや憎しみが、巨大な一つの塊となって眼前に突きつけられたのだ。
恐慌、混乱、絶望。
宗介は、闇の中心でかろうじて光を保つ桔梗の姿を見た。彼女の身体は、足元から透き通り、光の粒子となって霧散し始めている。
「これで、よいのです」
消え入りそうな声が、宗介の心に直接響いた。
「人々は、己が生み出した影から、もう目を逸らすことはできぬ。これで、皆が本当の色を見るのです」
その微笑みは、聖母のように慈愛に満ちていた。
第六章 新たなる黎明
桔梗の身体は、完全に光となって闇に溶けた。彼女の魂を縛り付けていた器が壊れ、解き放たれた澱は、しかし世界を破壊しなかった。
闇に覆われた江戸で、人々は澱の中に自らの過去を見た。見捨てた者の嘆きを聴き、傷つけた者の痛みを感じた。それはただの憎悪の塊ではなかった。憎しみの裏にあった深い愛情、絶望の底にあった微かな希望、悲しみの源にあったかけがえのない思い出。澱とは、人々が切り捨ててきた、あまりに人間的な感情の集合体だったのだ。
一筋の涙が、商人の頬を伝った。
一言の謝罪が、武士の口から漏れた。
誰かが、誰かのために祈りを捧げた。
その瞬間、世界を覆っていた漆黒の澱が、ふっと色合いを変えた。
それは、夜明け前の空のような、深い藍。
それは、雨に濡れた紫陽花のような、淡い紫。
それは、人の温もりを思わせる、掠れた茜色。
人々が自らの影を受け入れた時、澱は呪いから祝福へと昇華を始めた。黒一色だった絶望は、無数の感情が溶け合った、複雑で、深く、そして美しい「深淵の色」へと変わっていったのだ。
やがて、黒い雲は完全に晴れ、空には見たこともないような複雑な色彩の光が満ちていた。宗介の目にも、その色がはっきりと映っていた。灰色ではない。白でも黒でもない。無数の哀しみと喜びが溶け合った、始まりの色。
彼は自らの工房に戻り、震える手で筆を取った。
桔梗という一人の女性が命を懸けて遺した、この世界の新たな夜明けを描き留めるために。それは、墨染めではない。血の色でもない。全ての感情を抱きしめた、真実の色の物語を。