第一章 雨垂れと油の匂い
じとじとした湿気が、古傷の膝を疼かせる。
梅雨の長雨が、破れた障子の隙間から遠慮なく吹き込んでいた。
俺、惣次郎(そうじろう)は、濁った右目を手ぬぐいで拭い、左目だけで竹ひごの反りを確認する。
「……帰んな。傘なら、まだ乾いちゃいねえ」
背中越しに投げた言葉は、自分でも驚くほど低く、錆びついていた。
入り口の土間に立っているのは、小さな影だ。
「あの……惣次郎さま。これ、おはぎです。作りすぎちゃって」
お花(はな)だ。
近所の長屋に住む、十八の娘。
親を早くに亡くし、針仕事で細々と食いつないでいる。
彼女の声は、雨音にかき消されそうなほど頼りない。
「いらねえよ。甘いもんは歯に沁みる」
「でも、最近なにも召し上がってないって、長屋の皆さんが」
「余計なお世話だ」
竹ひごを削る小刀の手を止めず、俺は舌打ちをした。
本当は、腹の虫が鳴くのをこらえるのに必死だった。
だが、この娘の施しを受けるわけにはいかない。
俺がこの右目と右脚を失った、十年前のあの夜。
俺が斬った相手こそが、この娘の父親なのだから。
お花はそれを知らない。
ただの偏屈な傘張りの浪人として、俺に接してくる。
それが、たまらなく苦しい。
「……そこに置いてけ。雨が止んだらさっさと帰るんだな」
「はい! ありがとうございます」
お花の声が弾む。
土間に包みを置く衣擦れの音が聞こえ、やがて雨音だけが部屋に残った。
俺は溜息をつき、削りかけの竹を見つめた。
鈍色(にびいろ)の空から落ちる雨粒が、軒先で弾けている。
かつて人を斬ったこの手は今、雨を避けるための道具を作っている。
なんとも皮肉な余生だった。
第二章 泥濘に咲く花
三日続いた雨が、ようやく上がろうとしていた夕暮れ時だった。
「きゃああっ!」
鋭い悲鳴が、湿った空気を切り裂いた。
俺の手元で、竹ひごがパキリと折れる。
お花の声だ。
杖を掴み、引きずるようにして表へ出る。
長屋の入り口、井戸端のあたりに人だかりができていた。
泥水が跳ねる音。
男たちの怒号。
「親の借金は子が返す。当たり前の道理だろうが!」
「い、嫌っ、離して! 父さんは借金なんて……!」
柄の悪い男が二人、お花の腕を強引に引いている。
その向こうに、質の良さそうな着物を着た男が、キセルをふかしながら立っていた。
この辺りを仕切る高利貸しの手下どもだ。
「お前さんの親父、死ぬ前に相当な額を博打ですってな。証文もあるんだよ」
嘘だ。
お花の父親は、真面目すぎるほどの実直な侍だった。
藩の不正を暴こうとして嵌められ、刺客として送られた俺と斬り合ったのだ。
あいつは最期まで、娘の身を案じていた。
博打など打つはずがない。
「やめねえか」
俺の声に、男たちの視線が一斉に集まる。
「なんだぁ? この独眼竜の乞食は」
「すっこんでろ。怪我人が増えるだけだぜ」
男の一人が、お花を泥の中に突き飛ばし、こちらへ歩み寄ってくる。
腰には安物の刀。
だが、素人ではない足運びだ。
俺は杖をつきながら、ゆっくりと間合いを詰めた。
「惣次郎さま、だめ……!」
お花が泥まみれの顔を上げて叫ぶ。
「その娘に手出しはさせねえ。証文も、どうせ偽物だろう」
「ああん? 言いがかりつけんじゃねえぞ、ボケが!」
男が抜刀した。
切っ先が雨粒を散らし、俺の喉元へと迫る。
遅い。
あくびが出るほどに。
俺は杖をわずかに傾けた。
次の瞬間、男の刀は空を切り、地面に突き刺さっていた。
「なっ……!?」
俺は杖の先で、男の鳩尾(みぞおち)を軽く突く。
くぐもった呻き声を上げ、男は泥水の中に崩れ落ちた。
「てめえ……!」
もう一人が懐から短刀を取り出し、飛びかかってくる。
俺は動かない。
ただ、静かに目を閉じた。
雨の匂い。
泥の匂い。
そして、殺気。
五感を研ぎ澄ませば、見えぬ右側の世界がありありと浮かび上がる。
第三章 紅の贖罪
「死ねぇ!」
男の刃が、俺の脇腹を狙う。
俺は半歩引き、体を捻りながら、手にしていた杖――仕込み刀の鯉口を切った。
――キンッ。
甲高い金属音が、雨上がりの空に響き渡る。
一瞬の静寂。
男の持っていた短刀が、半ばから両断されて地面に落ちた。
俺の刃は、男の首筋寸前で止まっている。
「ひっ……」
男は腰を抜かし、後ずさった。
「二度とこの長屋に近づくな。……散れ」
ドスの効いた低い声に、男たちは泡を食って逃げ出した。
高利貸しの男も、青ざめた顔で捨て台詞を吐きながら去っていく。
静けさが戻った路地に、俺の荒い息遣いだけが残った。
封印していた「人斬り」の業を使ってしまった。
もう、ここにはいられない。
俺は刀を杖に戻し、泥にまみれたお花に背を向けた。
「……立てるか」
「惣次郎さま……その、剣……」
お花の声が震えている。
恐怖か、それとも驚きか。
振り返る勇気はなかった。
「ただの護身用だ。……おい、これを持っていけ」
俺は懐から、一晩かけて仕上げたばかりの傘を放り投げた。
鮮やかな紅色の蛇の目傘。
お花によく似合うと思って、内緒で作っていたものだ。
「傘張りは廃業だ。俺は旅に出る」
「え……待ってください! どうして急に!」
お花が立ち上がり、俺の着物の裾を掴もうとする。
だが、俺はその手を避けた。
触れさせてはいけない。
父親を殺した男の、血塗られた手に。
「達者でな」
それだけを言い捨て、俺は歩き出した。
引きずる右脚が重い。
だが、心はどこか軽かった。
もう二度と会うことはない。
けれど、彼女が雨に濡れることは、もうないだろう。
「惣次郎さまーーっ!」
背後で呼ぶ声を、夕闇が飲み込んでいく。
俺は一度だけ空を見上げた。
雲の切れ間から、薄日が差し込んでいる。
あの紅い傘が、彼女のこれからの人生を守ってくれることを祈りながら、俺は一人、また闇の中へと消えていった。