無色の未来、七彩の記憶
第一章 灰色の椿
腐った古水のような匂いが、鼻腔の奥にへばりついていた。
卯月(うづき)は、擦り切れた畳に視線を落とす。そこには、窓格子の影が黒い檻のように伸びている。彼にとっての世界は、光の強弱と、無限の階調を持つ「鼠色」だけで構成されていた。
朱色の椿も、青磁の茶碗も、彼には等しく鈍色の塊に過ぎない。
手元の猪口には、母が遺した『七色の絵の具箱』から削り出した顔料が溶けている。深い藍色だというその液体を、卯月は筆先に含ませた。
「先生、膠(にかわ)が煮えましたよ」
障子の向こうから、小春の声が響く。彼女の声だけが、この無彩色の世界で唯一、色彩を伴った音色のように聞こえる。
「ああ、そこに置いてくれ」
小春が盆を置く。その拍子に、彼女の白い首筋が揺れた。
卯月は筆を握る手に力を込める。描かなければならない。だが、何を?
色の概念を持たない自分が、色の魔術師と呼ばれた母の絵の具を使う冒涜。
不意に、指先が焼けるように熱くなった。
絵の具箱の隅、隠し底から見つけた鉱石。それを溶いた水が、まるで脈打つ臓器のように蠢いている。
筆先が勝手に走った。和紙の上、墨色の線がのたうつ。
「……熱い」
小春が呟いたのではない。絵の中の線が、熱を発しているのだ。
ドクン、と心臓が跳ねた。
視界が歪む。灰色の世界が裂け、網膜を焦がすような鮮烈な輝きが脳髄に突き刺さった。
「――ッ!」
卯月は両手で目を覆った。だが、瞼の裏でもその光景は焼き付いて離れない。
紅蓮。
そう言葉にするしかない、暴力的な赤。
長屋が燃えている。火の粉が舞い、逃げ惑う人々の影が煤のように空へ吸い込まれていく。
そして、炎の中心で、小春の着物に火が燃え移る瞬間を見た。彼女の絶叫が、鼓膜ではなく骨を震わせる。
肌がひりつく。鼻をつくのは、焦げた髪と肉の匂い。
幻視ではない。これは、記憶だ。まだ起きていない、未来という名の記憶。
筆が畳に転がり、ドス黒い染みを作った。
「先生? 顔色が……」
小春が駆け寄る。その柔らかな手に触れられた瞬間、幻視は霧散した。
だが、指先の震えは止まらない。
絵の具が告げている。この平穏な日常が、あと数刻で灰燼に帰すことを。
第二章 空白の歴史
神田の裏通り、古書店『夢幻堂』の店内は、黴と紙魚(しみ)の気配で満ちていた。
店主の玄翁(げんのう)は、言葉を発しなかった。ただ、卯月が差し出した絵の具箱を一瞥し、奥の棚から一冊の和綴じ本と、数枚の絵を乱雑に放り出しただけだ。
「見ろ」
短く吐き捨てられた言葉に促され、卯月はそれを手に取る。
それは、亡き母の日記だった。
最初の数ページは、端正な文字で日々の献立や卯月の成長が綴られている。
だが、中盤から様子がおかしい。
『赤と緑の区別がつかない』『卯月の声が聞こえるのに、顔が思い出せない』
文字は次第に乱れ、最後には意味をなさぬ線と点の羅列になっていた。墨の濃淡だけで描かれた、狂気の痕跡。
次に、絵を見た。
晩年の母が描いたとされる人物画だ。着物の柄や背景の草花は、写真と見紛うほど精緻に描かれている。
だが、顔がない。
顔の部分だけが、執拗に、何度も何度も塗りつぶされ、紙がケバ立ち、穴が開くほど擦り切れていた。
「……これは」
「『等価交換』などという生易しいものではない」
玄翁がキセルを吹かす。紫煙が店内の暗がりに溶けていく。
「未来を描き換える力。それは、術者の『自己』を喰らって発動する。記憶、感情、そして最後には人間としての輪郭そのものをな」
母は、ボケたのではなかった。
何かを守るために、何かを描き換え、その代償として「息子」という最も大切な記憶を喰われたのだ。
卯月の背筋を、冷たい汗が伝う。
あの火事を止めるために筆を執れば、自分もまた、この日記と同じ道を辿る。
小春を救うことはできるかもしれない。だが、救ったその瞬間に、自分が何故彼女を救いたかったのか、彼女が誰なのかさえ、忘却の彼方へ消え去るのだ。
店を出ると、生温い風が吹き抜けていた。
遠くで犬が吠えている。空気が乾燥し、喉が張り付くような不快感がある。
火種の気配が、町全体を覆っていた。
卯月は自身の掌を見つめる。
(俺は、小春を忘れるのか?)
その恐怖は、死よりも深く、暗い。
だが、瞼を閉じれば、あの紅蓮の炎に焼かれる彼女の姿が浮かぶ。
忘却か、喪失か。
運命は、残酷な二択を彼に突きつけていた。
第三章 魂の筆致
深夜、風鳴りが唸り声のように変わった。
長屋のアトリエは、蒸し風呂のような熱気に包まれていた。まだ火の手は見えないが、大気の温度が異常に上昇している。
部屋の隅に置いた膠(にかわ)鍋が、火にかけてもいないのに煮立ち、動物の皮が溶ける独特の異臭を放ち始めた。
喉が焼ける。汗が目に入り、視界が滲む。
「……始めるぞ」
卯月は筆を取った。
選んだのは『天泣石(てんきゅうせき)』。母のメモに「雨を呼ぶ」と記された、深い青の鉱石だ。
水で溶く。その青は、卯月の目にはドブ川の底のような黒にしか見えない。
だが、筆に含ませた瞬間、強烈な「寒気」が腕を駆け上がった。
命を削る感覚。
和紙に向かう。描くべきは、豪雨。全てを押し流す慈悲の雨。
一筆、紙に落とす。
ジッ、と肉が焦げる音がした。
激痛が脳天を貫く。
(――痛い!)
それと同時に、頭の中の引き出しが一つ、乱暴に引き抜かれた。
昨日の夕飯の味。隣人の顔。路地に咲いていた花の名前。
筆を走らせるたびに、記憶が物理的な質量を持って剥がれ落ちていく。
「う、あぁぁッ!」
卯月は悲鳴を上げながら、それでも筆を動かし続けた。
雨脚を強く。もっと強く。
外で雷鳴が轟く。屋根を叩く雨音が聞こえ始めた。
だが、代償は止まらない。
母の顔が消えた。父の背中が消えた。
そして、小春の笑顔が、霞み始める。
(だめだ、それだけは!)
彼女の名前が、音の響きを失っていく。彼女と過ごした日々が、砂のように指の隙間からこぼれ落ちる。
「こ……は、る……」
名前を呼ぼうとして、舌がもつれた。誰だ? 俺は誰のために描いている?
恐怖が筆を止めた。
このまま描き切れば、俺は抜け殻になる。彼女を助けたことさえ認識できない、生ける屍になる。
熱気が部屋を侵食する。遠くで半鐘が鳴り響く。
今ここで筆を折れば、記憶は守れる。だが、愛しい人は死ぬ。
究極の選択の中で、卯月は血の味がするほど唇を噛み締めた。
(記憶ではない)
彼は、魂の奥底で叫んだ。
(俺の『目』を持っていけ! 俺の『才』を喰らえ!)
過去の記憶を守るために、未来の可能性を差し出す。
画家としての命、色彩を追い求めた執念、美を捉える感性。その全てを絵の具に叩き込む。
「俺はもう、描けなくていい……ッ!」
絶叫と共に、最後の筆を振り下ろした。
バヂンッ、と何かが弾け飛ぶ音がして、世界がホワイトアウトした。
最終章 描かれなかった未来
雨上がりの朝は、静寂に満ちていた。
濡れた土の匂いが、開け放たれた窓から流れ込んでくる。
卯月は、自分が床に倒れていることに気づき、ゆっくりと身を起こした。
「先生!」
扉が弾かれたように開き、小春が飛び込んでくる。
煤で汚れた着物、乱れた髪。だが、彼女は生きていた。
「よかった、本当によかった……昨夜の雨で、ボヤだけで済んだのよ」
小春が泣きながら彼に抱きつく。その体温が、鼓動が、直に伝わってくる。
「……小春」
名前が、自然と口をついて出た。
覚えている。彼女のことも、昨夜のことも、母のことも。
安堵のあまり、涙が滲んだ。
ふと、視界の端に映る景色に違和感を覚えた。
窓の外には、雨上がりの空が広がっている。
そこには、きっと虹が出ているのだろう。
だが、卯月の目に映るのは、依然として灰色のグラデーションだけだった。
いや、それ以前に――。
彼は傍らに落ちていた筆を拾い上げようとした。
指先が触れた瞬間、奇妙な感覚に襲われた。
それは、ただの木の棒と獣の毛だった。
かつて感じた、指先から世界と繋がるような全能感が、完全に消え失せている。
筆の握り方が分からない。線の引き方が分からない。
頭では理解しているのに、魂が「描くこと」を拒絶している。
絵描きとしての卯月は、昨夜死んだのだ。
「先生? あの、空に……」
小春が窓の外を指差す。
「綺麗な虹。七色ですよ」
「ああ……そうだな」
卯月はぼんやりと空を見上げた。
彼には、その七色は見えない。物理的な目は癒えなかったし、色のない世界が変わることもなかった。
だが、隣で笑う小春の横顔を見た時、胸の奥に温かい灯がともるのを感じた。
それは、どんな鮮やかな顔料よりも深く、安らぎに満ちた「色」だった。
視覚的な色彩など、今の彼には不要だった。
彼女が笑っている。その事実だけで、世界は十分に鮮やかだ。
卯月は、二度と傑作を生み出すことのないその手で、小春の手をしっかりと握り返した。
筆を捨てた掌に伝わるその温もりこそが、彼が選び取った未来の全てだった。