第一章 雨夜の訪問者
江戸の町が、梅雨の湿った空気に沈んでいる。
路地裏の長屋。雨音だけが支配するその空間に、異質な音が混じった。
チャリ。
チャリ。
研ぎ師、源四郎(げんしろう)の手元で、鉄と石が擦れ合う音が響く。
彼は口を利かない。
十年前の「あの日」以来、言葉と共に感情のほとんどを捨てた。
ただ、錆びついた刃物を研ぎ、その輝きを取り戻すことだけに生きていた。
ドンドン。
乱暴なノックの音が、研ぎの静寂を破る。
源四郎は手を止めず、眉ひとつ動かさない。
「……頼もう」
扉が開く。
吹き込む湿気と共に、少女の匂いがした。
濡れた髪、安物の油、そして微かな血の匂い。
源四郎はゆっくりと顔を上げる。
そこに立っていたのは、十七、八の娘だった。
着物は泥で汚れ、目は獣のように鋭く、それでいて今にも泣き出しそうに潤んでいる。
娘は懐から、一振りの刀を取り出した。
ボロ布に包まれたそれを、床に叩きつけるように置く。
「これを、研いでほしい」
源四郎は一瞥(いちべつ)しただけで、また手元の小刀に視線を戻した。
断る、という意思表示だ。
その刀は、死んでいた。
鞘(さや)はなく、刀身は赤錆(あかさび)に覆われ、まるで血の塊が固まったかのような無残な姿。
見るからに、手入れされずに数十年放置された廃品だ。
「金ならある」
娘は震える手で、小銭入れを床に投げ出した。
中から転がり出たのは、寛永通宝が数枚。
研ぎ代の十分の一にも満たない。
源四郎は鼻を鳴らし、シッシッと手を振った。
帰れ。
こんな鉄くず、研いだところでナマクラになるだけだ。
「頼む……!」
娘が土間に膝をついた。
「父上の、形見なんだ。父上は、この刀で人を斬って……狂って死んだと言われている。でも、私は信じない」
娘の声が、雨音に負けじと張り上げる。
「父上は、最期まで武士だったはずだ。この錆の下に、父上の魂があるはずなんだ!」
魂。
その言葉に、源四郎の手が止まった。
彼はのっそりと立ち上がり、娘の前に歩み寄る。
そして、赤錆だらけの鉄の棒を手に取った。
ズシリ、と重い。
ただの錆ではない。
何層にも重なった脂、血、そして怨念のような執着。
源四郎は、刀身に指を這わせる。
その瞬間、指先にピリリとした微弱な熱を感じた。
(……泣いてやがる)
源四郎には聞こえるのだ。
鉄の声が。
この刀は、持ち主に捨てられたのではない。
持ち主を守るために、自ら錆を被(かぶ)ったのだ。
源四郎は娘を見下ろす。
娘の瞳の奥に、かつて自分が仕えた主君と同じ、真っ直ぐな光を見た。
彼は無言で顎をしゃくった。
「置いていけ」という合図だ。
娘の顔が、わしゃわしゃと崩れる。
「あ、ありがとう……ありがとう……っ」
源四郎は背を向け、再び研ぎ座に座る。
今夜は、長い夜になりそうだった。
第二章 鉄の記憶
研ぎ場は、神聖な場所だ。
源四郎は、桶の水を指ですくい、砥石(といし)に垂らす。
まずは「荒砥(あらと)」。
分厚い錆を削ぎ落とすための、最も荒い石だ。
シャッ、シャッ、シャッ。
リズミカルな音が、雨音とシンクロする。
研ぐたびに、茶色い泥水が流れ落ちる。
それは刀の涙のようでもあり、排泄物のようでもある。
(硬(かた)えな……)
錆は表面だけでなく、地鉄(じがね)の奥深くまで食い込んでいた。
普通の研ぎ師なら、この時点で匙(さじ)を投げる。
深く削りすぎれば、刀身が痩せて使い物にならなくなるからだ。
だが、源四郎は違う。
彼は、刀の「生きたい」という意志を感じ取っていた。
研ぎ汁が、次第に赤黒い色から、灰色の鉄の色へと変わっていく。
数刻が過ぎた。
源四郎の額から、玉のような汗が滴り落ちる。
荒砥から、中砥(なかと)へ。
石を変えるたびに、刀身の肌が滑らかになっていく。
不意に、源四郎の脳裏に映像がフラッシュバックした。
――炎。
燃え盛る屋敷。
赤ん坊を抱いて走る若侍。
『逃げろ! その子は、藩の希望だ!』
追っ手が迫る。
若侍は、刀を抜く。
だが、斬らない。
峰(みね)で打ち、柄(つか)で突き、決して刃を相手の血で汚さないように戦っている。
なぜだ?
映像の中の若侍は、追っ手を振り切り、泥の中に身を潜める。
そして、自らの刀を、あろうことか岩肌に擦り付け、刃を潰し始めた。
『すまぬ……すまぬ……』
若侍は泣いていた。
名刀であるその証(あかし)を消すために。
誰の目にも触れぬよう、ただの鉄屑(てつくず)に偽装するために。
すべては、抱いている赤ん坊――主君の落胤(らくいん)を、ただの「貧乏浪人の娘」として育てるために。
(……そうか、お前も辛かったな)
源四郎の手が止まる。
刀身が、微かに震えた気がした。
錆の下から現れたのは、見事な地鉄だった。
だが、刃文(はもん)はまだ見えない。
源四郎は、最後の仕上げに入る。
「内曇(うちぐもり)」と呼ばれる、化粧研ぎのための石を手に取った。
ここからは、力ではない。
魂の対話だ。
親指の腹で、刀身を撫でる。
冷たい鉄の感触の中に、温かい鼓動がある。
「……見せてみろ、お前の本当の姿を」
声にならない声で、源四郎は念じる。
シャリ……シャリ……。
微細な粒子が、鋼(はがね)の表面を磨き上げていく。
窓の外が白み始めた頃。
雨は止んでいた。
源四郎の手元にあるのは、もはや錆びた鉄棒ではない。
秋の夜空のように澄み渡り、妖しい光を放つ一振りの名刀だった。
そして、その刃文が浮かび上がった瞬間。
源四郎は、目を見開いた。
呼吸を忘れ、自身の喉がヒューヒューと鳴るのを感じた。
そこにあったのは、ただの波紋ではない。
十年前に失われたはずの、幻の刃文。
『あの日』、源四郎自身が打ち、行方不明になった最高傑作。
「流星(りゅうせい)」
その刀は、源四郎が若き日に、親友であるあの若侍に贈ったものだったのだ。
第三章 慟哭の輝き
翌朝。
娘がやってきた。
昨日とは違い、少し身なりを整えているが、不安そうな顔つきは変わらない。
「……研げたのか?」
源四郎は無言で、白木の箱を差し出した。
その中には、真新しい白鞘(しらさや)に収められた刀がある。
娘はゴクリと喉を鳴らし、震える手で柄を握った。
ゆっくりと、引き抜く。
「あ……」
鞘走る音と共に、狭い部屋に清冽な光が満ちた。
鏡のように磨き上げられた刀身。
そこに浮かぶのは、激しく乱れ、しかし美しく流れる「皆焼(ひたつら)」の刃文。
まるで、夜空を駆ける無数の星のようでもあり、滂沱(ぼうだ)の涙のようでもある。
娘の目から、涙が溢れ出した。
「きれい……こんなに、きれいだったなんて……」
彼女は、刀身に映る自分の顔を見つめる。
そして、切先(きっさき)近くに刻まれた、小さな銘(めい)に気づいた。
『源』
たった一文字。
娘はハッと顔を上げ、源四郎を見た。
「あんた……まさか」
源四郎は、懐から筆と紙を取り出した。
サラサラと走らせる。
『親父殿は、狂ってなどいない。この刀が、人を斬っていないことが証拠だ』
娘がその文字を読み上げる。
「人を、斬っていない……?」
源四郎は頷く。
刀を見ればわかる。
骨を断ち、血を吸った刀は、研いでもどこかに「陰(かげ)」が残る。
だが、この刀は無垢だ。
刃こぼれも、無理やり石で潰された跡しかなかった。
それは、父が誰も殺さず、ただ娘を守るためだけに戦い、そして刀としての誇りを捨ててまで正体を隠し通した証。
『父は、お前を守るために、武士を捨てたのだ。立派な男だった』
源四郎が書き足した文字を見て、娘はその場に泣き崩れた。
「うあぁぁぁぁ……! 父上ぇぇぇ……!」
長屋中に響くような慟哭。
それは、十年分の誤解と、孤独と、愛慕が一気に噴き出した叫びだった。
源四郎は、静かにその背中を見つめる。
彼もまた、救われたのだ。
親友は、自分の打った刀を裏切っていなかった。
それどころか、最も大切なものを守るための「盾」として使い続けてくれたのだ。
源四郎は、自身の喉元に手をやる。
言葉は出ない。
だが、胸のつかえは取れていた。
娘が泣き止むまで、源四郎は茶を啜(すす)り続けた。
その茶は、安物の出がらしだったが、今までで一番美味(うま)く感じられた。
帰り際。
娘は腫れ上がった目で、しかし晴れやかな笑顔で深々と頭を下げた。
「研ぎ師様。……いや、源四郎様。ありがとうございました」
娘は刀を抱きしめるようにして去っていった。
その背中は、来た時よりも一回り大きく見えた。
再び静寂が戻った部屋。
源四郎は、空になった砥石の桶を見つめる。
水面には、皺(しわ)の増えた自分の顔が映っていた。
彼はニカッと笑ってみた。
不器用な、歪んだ笑顔。
雨上がりの空から、一筋の光が差し込む。
それはまるで、彼らが研ぎ澄ませた魂の輝きのようだった。
チャリ。
源四郎は、また新しい石を手に取る。
今日もまた、誰かの想いを研ぐために。