第一章: 濁った赤、至高の朱
鼻腔を焦がす甘く腐りかけた鉄錆。あるいは採りたての樹液が放つ、むせ返るような森の精気か。
筆を遊ばせる赤神宗次郎の指先は、細くしなやかだ。透ける白肌、着古して擦り切れた黒い着流しに散らばる無数の赤黒い斑点。それはまるで銀河。作業台に前傾するたび揺れる長い黒髪の隙間から、漆黒の瞳が暗い情熱を覗かせる。
固定されているのは木材ではない。
温かい、脈打つ、少女の左手。
赤神 宗次郎「……動きませんね。良い子だ」
まだだ。まだ、色が濁っている。
滑る小刀。麻酔などという無粋なものは不要だ。痛みが走る瞬間の、血管の収縮こそが求めている「朱」を引き出すのだから。
薄く、紙一枚ほどの厚さで削がれる皮膚。
じわり。断面から滲み出る鮮血。
赤神 宗次郎「ああ……なんて美しい赤なんだ」
指先に唇を寄せ、滲み出る命の滴を舐めとる。鉄の味。そして、少女の体温。
少女は悲鳴を上げない。ただ頬を紅潮させ、熱に浮かされたように宗次郎を見つめている。選ばれたのだという恍惚が痛覚を凌駕しているのか。彼女にとって、この狂気の徒弟となることは、神に生贄として捧げられるに等しい栄誉。
赤神 宗次郎「でも、駄目ですね。これではすぐに黒ずんでしまう。酸化する血の色は、僕が求める永遠の朱ではない」
違う。これじゃない。
興味を失ったように少女の手を離し、血のついた小刀を投げ捨てる宗次郎。
工房の闇の奥には、失敗作たちが静かに眠っている。
完全な美。腐敗を拒絶し、時を止める「絶対の朱」は何処にある?
◇◇◇
第二章: 腐りかけの果実
江戸城下の外れ、豪奢な屋敷の奥座敷。
脂を纏った豚のような顔で、重々しく茶を啜る影山卿。指にはめられた無数の指輪が、茶碗とぶつかりカチカチと不快な音を刻む。
影山卿「宗次郎よ。お主の腕を見込んでの頼みがある」
赤神 宗次郎「……承りましょう。内容次第ですが」
影山卿はニタリと笑い、襖を開け放った。
そこにいたのは、極彩色の振袖に埋もれるように座る、ひとりの少女。
小夜。
病的なまでに白い肌は陶磁器のように冷たく、触れれば粉々に砕け散りそうだ。濡れたような琥珀色の瞳が、虚空を映している。
影山卿「我が愛娘、小夜だ。労咳(ろうがい)でな、もう長くはない。……そこでだ」
ペットの毛並みを確かめるように娘の髪を撫で回す影山。
影山卿「この美しさを、永遠に残したいのだよ。死んで腐り果てるなど耐えられん。『死なない棺』を作れ。小夜を、最も美しい瞬間のまま保存するのだ」
宗次郎の視線が、小夜の首筋を刺す。
青白い血管が透けて見える。死の気配が濃厚に漂うその肌。
絶望に染まりきったその表情。
完璧だ。
電流のような戦慄が背筋を駆け抜ける。
あの肌こそが、最強のキャンバス。
生きながらにして死を受け入れている、朽ちる寸前の果実。
これに漆を塗れば、どれほど鮮やかに発色することか。
ふと視線を上げる小夜。琥珀色の瞳が宗次郎を射抜く。
小夜「……また、新しい棺桶職人の方ですか?」
赤神 宗次郎「いいえ。私は貴女を……救いに来ました」
嘘だよ。
恭しく頭を下げながら、袖の下で指先を震わせる宗次郎。
興奮で、爪が掌に食い込むほどに。
第三章: 偽りの逃避行
工房の裏手、月明かりも届かぬ夜陰。
震える手で小さな風呂敷包みを抱きしめる小夜。中身は、母の形見の櫛と、宗次郎がくれた紅筆一本。
小夜「本当に……逃げられるのですか? 父様に見つかれば、殺されます」
赤神 宗次郎「大丈夫ですよ、小夜様。船を用意してあります。海を越えれば、影山卿の手も届かない」
宗次郎の声は、甘い毒のように小夜の鼓膜を溶かした。
彼女は宗次郎の胸に飛び込む。鼻をつく漆と薬品の匂いすら、今の彼女には自由の香りそのもの。
小夜「貴方だけです。私を人間として見てくれたのは。……連れて行って、どこまでも」
小夜の細い背中に手を回し、優しく撫で下ろす宗次郎。その指先が、脊椎の形を一つ一つ確かめるように這う。
赤神 宗次郎「ええ。連れて行きますよ。……永遠の場所へ」
二人は闇夜を駆ける。
しかし、到着したのは港ではない。
土壁の匂いと、鼻を刺す生乾きの漆の臭気。
宗次郎の工房の、さらに奥にある地下室だった。
小夜「……宗次郎様? ここは……」
ガチャリ。
響く冷たい金属音。
小夜の手首に嵌められたのは、逃亡のための手綱ではなく、解剖台に固定するための拘束具。
小夜「え……?」
赤神 宗次郎「逃げれば、君は老いる。病に苦しみ、醜く朽ちていく。そんな残酷なことを、僕は許せない」
道具棚から、鋭利なヘラと、粘度の高い朱色の液体が入った桶を取り出す宗次郎。
その瞳にはもう、小夜という人間は映っていない。
そこにあるのは、「素材」だけ。
小夜「嫌……嘘よ……助けて……!」
救出劇は終わった。加工の時間だ。
赤神 宗次郎「泣かないでください。君のその絶望が、肌のきめを細かく引き締めている。最高の下地だ」
第四章: 活人漆(いきにんぎょう)
「いやぁぁぁぁぁぁぁッ!!」
断末魔のような悲鳴が地下室に反響する。だが、分厚い土壁はそれを外へ逃がさない。
工程は極めて繊細かつ、残酷極まりないものだった。
まず、皮膚の呼吸を止めるための特殊な硬化剤を塗布する。
全身の神経を焼き切るような激痛。
弓なりに反る小夜の身体、ガタガタと悲鳴を上げる拘束具。
赤神 宗次郎「素晴らしい……! その痙攣、その筋肉の躍動! 生命の輝きそのものだ!」
走る筆。
一度塗り、乾かし、研ぐ。
その工程を生きた皮膚の上で繰り返す。
小夜の意識はまだある。涙が乾き、声が枯れても、痛みだけは鮮明に脳を焼き続ける。
「殺して……殺して……」
漏れる掠れた声。
赤神 宗次郎「死んではいけません。生きたまま閉じ込めるからこそ、この艶(つや)が出るのです」
三日三晩、不眠不休で続く作業。
宗次郎の指先もまた、漆にかぶれ、赤く腫れ上がり、皮膚が裂けている。
だが痛みなど感じない。
揺らぐ視界。見える幻覚。
小夜の肌から無数の赤い蝶が飛び立ち、天井を埋め尽くす。
赤神 宗次郎「足りない……赤が、まだ足りない……!」
僕の血だ。僕の命を混ぜなければ。
自身の小指に小刀を突き立てる宗次郎。
漆の桶に滴り落ちる鮮血。
自らの肉を、血を、魂を、作品と融合させる。
消えていく境界線。
赤神 宗次郎「なれ! 永遠になれ! 君は僕のものだ、骨の髄まで、魂の果てまで!」
小夜の瞳から光が消えかけている。
その最期の視線が、宗次郎を捉えた。
憎悪か、それとも諦念か。
琥珀色の瞳が、漆黒の漆に飲み込まれていく。
筆が止まる。
そこにはもう、人間はいなかった。
呼吸すら忘れさせるほどの、圧倒的な朱色の塊。
艶やかな光沢を放つ、人型の宇宙。
完成だ。
第五章: 無明の愛
影山屋敷の大広間。
数十本の蝋燭が揺らめく中、鎮座するその「作品」。
息を呑む静寂。
誰も言葉を発せない。
あまりの美しさに、恐怖すら覚えるほどの存在感。
深紅の着物を纏った小夜は、瞬き一つせず、永遠の微笑みを湛えている。肌は透き通るような朱色で、奥底から燐光を放っているように見えた。
影山卿「おお……おおお……! 小夜。美しい、なんと美しいのだ!」
涙を流し、娘だったものに頬ずりをする影山卿。
硬く、冷たく、滑らかな感触。
腐敗の予兆など微塵もない。
影山卿「宗次郎! 天晴れだ! 褒美は望むままに取らせよう!」
部屋の隅で深く平伏する宗次郎。
その顔は蒼白で、目は虚ろだ。
赤神 宗次郎「……褒美など、要りません」
もう、十分だ。
その夜。
自らの工房に戻った宗次郎。
小夜は影山卿の屋敷に残された。だが、彼の手には、制作の過程で小夜の肌から削ぎ落とした薄い漆の膜が一欠片、握られていた。
小刀を取り出し、切っ先を自身の右目に向ける。
赤神 宗次郎「これ以上の美は、この世に存在しない。ならば、見る必要もない」
ブシュッ。
鈍い音と共に、世界が半分消えた。
躊躇いなく、左目にも刃を突き立てる。
顔を覆う鮮血。訪れる永遠の闇。
数年後。
盲目となった漆芸家は、とある屋敷の地下牢に幽閉されていた。
影山卿が死に、屋敷が没落した後、好事家によって買い取られた「生き人形」のメンテナンスをするためだけに生かされているのだ。
暗闇の中、宗次郎は「小夜」を抱きしめている。
彼女は動かない。心臓が動いているのか、中でまだ意識があるのか、それは誰にも分からない。
ただ、宗次郎の指先だけが、その滑らかな感触を感じ続けている。
赤神 宗次郎「小夜……今日も綺麗ですよ。ほら、ここが少し曇っている。僕が綺麗にしてあげますね」
空っぽの眼窩から涙を流しながら、永遠に、永遠に、動かぬ恋人の肌を磨き続ける宗次郎。
それは、世界で最も残酷で、誰にも邪魔されることのない、二人だけの幸福な地獄。
終わり。