錆色の贖罪

錆色の贖罪

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第一章 震える指と見えざる刃

「おい、九条。またかよ」

同心の呆れた声が、水底に響くように遠く聞こえる。

俺、九条蓮二郎は、路地の隅で胃液を吐き戻していた。

視界が歪む。世界がぐるぐると回転し、焦点が定まらない。

原因は、屋台の客が突き出した竹串だ。

朝日に反射し、鋭利な切っ先が煌めいた瞬間、俺の脳髄を白銀の稲妻が貫いた。

指先が痺れ、心臓が早鐘を打ち、脂汗が目に入って沁みる。

「……すまない。動悸が」

「ったく。『遺品整理役』なんて名ばかりで、死人の刀を運ぶことしか能がない腰抜けが」

同心は足元の砂利を蹴りつけ、現場へと戻っていく。

俺は震える膝を叩き、壁に手をついて無理やり上体を起こした。

武士のくせに、針の先ほどのものでも、この有様だ。

江戸は今、『白昼の神隠し』に怯えている。

心臓だけが抉り取られる猟奇殺人。

下手人の目撃証言は皆無。現場には、むせ返るような血臭と、場違いに甘い香りが漂っていた。

「……九条、さっさと鑑定しろ」

促され、俺は遺体の腰にある刀へ手を伸ばす。

指先が冷たい鞘に触れた瞬間、現実の音が遮断された。

――ザッ。

視界が裏返る。

死者の最期の記憶が、俺の網膜に焼き付いた。

誰もいない路地。

突然、空間が裂けた。

見えない刃が胸を貫き、心臓を抉り出す。

悲鳴を上げる間もなく、視界が赤黒く染まっていく。

(人が斬ったのではない……?)

残像が途切れる寸前、俺の鼻腔をくすぐるものがあった。

安物の白粉(おしろい)の香り。

胸がざわつく。俺はこの香りを知っている。

盲目の少女、小夜(さよ)の香りだ。

第二章 盲目の聖女

長屋の扉を開けると、静寂が出迎えた。

「……蓮二郎さまですね?」

六畳一間の薄暗い部屋。

小夜が、火鉢の前で微笑んでいる。

その目は光を失っているが、俺の足音だけで全てを悟ったようだ。

「お茶が入りました。熱いうちにどうぞ」

彼女が差し出した湯呑みを受け取る。

指先が触れた。

温かい。そして、あまりにも白い手だ。

「……すまない。いつも」

「いいえ。蓮二郎さまが来てくださるだけで、私は嬉しいのです」

彼女は手探りで俺の袖口を直し、綻びを見つけては小さく笑う。

この穏やかな時間。

俺が唯一、呼吸を許される場所。

だが、部屋には現場と同じ、あの甘ったるい白粉の匂いが充満していた。

「小夜」

俺は声を絞り出す。

「最近起きた辻斬り……お前、何か知っているな」

小夜の手が止まる。

彼女は静かに首を振った。

「私が斬ったのではありません」

「なら、なぜ現場にお前の匂いが……」

俺は衝動的に、彼女の細い肩を掴んだ。

その瞬間、脳内に奔流が流れ込んだ。

――ドクンッ!

視界が弾け飛ぶ。

俺が見たのは、十年前の雨の夜だ。

俺が、暴漢に襲われた彼女の父を、震える手で斬ってしまったあの夜。

絶望する俺の背後に、幼い小夜が立っていた。

彼女は泣いていなかった。

俺の体から立ち昇るどす黒い『罪悪感』を、その小さな唇から吸い込んでいたのだ。

(まさか……俺の罪を?)

映像が高速で切り替わる。

『遺品整理』のたび、俺が刀から受けるはずだった怨念や殺意。

それを、彼女は夜ごと俺に触れ、密かに吸い取り続けていた。

俺が壊れないように。

俺が、正気を保てるように。

(やめろ、やめてくれ!)

俺の心の中の叫びなど届かない。

映像の中の小夜の器は、とっくに限界を迎えていた。

あふれ出した『他人の殺意』が黒い靄となり、勝手に通り魔となって人を襲う。

「っ……!」

俺は弾かれたように手を離した。

小夜が苦しげに胸を押さえ、床に崩れ落ちる。

「……ばれてしまいましたか」

彼女の白い肌の下で、無数の黒い血管が蠢き始めた。

背後から、どす黒い『何か』が鎌首をもたげる。

「もう、抑えきれません。私の中に溜まった殺意が、外へ出ようとしています」

小夜が顔を上げた。

光のない瞳から、一筋の涙が伝う。

「蓮二郎さま、私を斬ってください。このままでは、私はただの化け物になってしまいます」

第三章 錆は剥がれ、銀は輝く

「……斬れるわけ、ないだろう!」

俺は叫んだ。

腰の刀に手が伸びる。

だが、指が凍りついたように動かない。

柄の先端を見るだけで、吐き気がこみ上げる。

視界が明滅し、指先の感覚が失われていく。

先端恐怖症。

あの日、彼女の父を斬った感触が生んだ呪い。

『グオォォォ……』

小夜の背後から溢れた黒い靄が、巨大な鬼の形相を成す。

あれが、彼女が俺の代わりに背負い続けてきた『殺意の集合体』。

「逃げて……蓮二郎さま!」

小夜の身体が宙に浮く。

黒い触手が、彼女自身の心臓を狙って収束していく。

器を壊し、完全な自由を得ようとしているのだ。

逃げる?

また、この娘にすべてを背負わせて?

俺だけが、のうのうと生き延びるのか?

(ふざけるな)

恐怖で呼吸が止まる。

心臓が破裂しそうだ。

だが、その恐怖の正体は何だ?

刃物が怖い?

先端が怖い?

違う。

脳裏に浮かんだのは、小夜がいない明日だ。

あの温かい茶も、綻びを直す手も、静かな微笑みもない世界。

それは、刃の煌めきよりも、遥かに冷たく、暗く、恐ろしい地獄だった。

(そっちの方が、よっぽど怖い!)

思考の留め金が外れた。

理屈ではない。

脊髄が、魂が、彼女を失うことを拒絶した。

「うおおおおぉっ!」

咆哮とともに、俺は錆びついた刀を一気に引き抜いた。

パラパラと、赤茶けた錆が宙に舞う。

現れたのは、鏡のように澄み渡った白銀の刃。

「見えた……!」

小夜の身体と、黒い靄の境界線。

殺意の残像が見える俺の目にだけ映る、わずかな隙間。

断ち切るべき、一点。

俺は踏み込んだ。

世界がスローモーションになる。

切っ先が小夜の喉元へ迫る。

彼女は安堵したように目を閉じた。

だが、俺が斬ったのは彼女ではない。

一閃。

銀の軌跡が、小夜の背後に張り付いていた黒い影だけを、綺麗に両断した。

断末魔のような風鳴りとともに、黒い靄が霧散していく。

小夜の身体がふわりと落ちてくるのを、俺は刀を捨てて抱き留めた。

「……蓮二郎、さま?」

「ああ。もう、終わったよ」

俺の視界の端で、地面に突き刺さった白銀の刀が、朝日に輝いていた。

不思議と、もうその切っ先を見ても、指は震えなかった。

俺の恐怖は、彼女を守るための刃に変わったのだ。

「帰りましょう、小夜」

「はい……」

江戸の空に、久しぶりの青が広がっていく。

俺たちは初めて、罪という名の重荷を下ろし、ただの人間として呼吸をした。

AIによる物語の考察

1. 登場人物の心理:九条の先端恐怖症は、小夜の父を斬った「殺人の感触」への強烈な拒絶反応です。対する小夜の献身は一見純愛ですが、彼の罪を肩代わりし続けることで、愛する人を「無垢な共犯者」として繋ぎ止めておきたいという、無意識の独占欲も孕んでいます。

2. 伏線の解説:現場の甘い香りと小夜の白粉の合致、そして九条が『遺品整理』で死者の記憶を辿るたびに、小夜の「器」が殺意で満たされていく構図が物語の裏側で静かに進行していました。タイトルの「錆」は、罪の意識で思考停止し、時が止まったままの九条の心を暗示しています。

3. テーマ:本作は「真の贖罪」の在り方を問うています。過去の罪に怯え、自責の念に沈むだけでは救いになりません。過ちを背負ったまま、今隣にいる人を守るために再び剣を取る勇気。負の連鎖を断ち切り、他者と共に明日へ歩み出す決意こそが、魂を浄化するのだと訴えています。
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