第一章 汚泥の色彩
「次」
私の声が、無機質な審問室の壁に吸われる。
革靴の音が響き、被告席に男が座った。
不動産王、金剛寺。
イタリア製の特注スーツは、彼の肥満体を優雅に包んでいる。
だが、私の網膜に映るのは高級生地の光沢ではない。
彼のエラが張った顎の下から、どす黒いヘドロのような紫煙が湧き出ているのだ。
腐った果実と排気ガスを煮詰めたような、視覚的な悪臭。
『悪意』だ。
男がハンカチで額を拭うたび、紫の飛沫が散る。
「最高審査官殿。私の『純度』をご確認を」
金剛寺が脂ぎった指で端末を差し出す。
『徳(ヴィルトゥ)スコア:850』
聖人クラスの数値。
だが、彼を取り巻く紫煙の濃度は、昨日とは桁違いに濃い。
端末の液晶に、赤黒いシミが見えた。
血ではない。貧民街の路地裏でしか付着しない、特有の油汚れだ。
昨夜、誰からこのスコアを『回収』したのか。
想像するだけで胃液がせり上がる。
「……昨晩の寄付は、さぞ素晴らしい行いだったのだろうな」
「ええ! 我が慈悲は海より深い!」
ニタニタと歪む口元。
私の右目が、チクリと痛んだ。
警告だ。
これ以上、彼に対して「不快感」を抱いてはならない。
感情はノイズ。
正義の執行に、心の揺らぎは不要。
この眼球は、感情回路を焼き切ることで、初めて真実を映し出す仕様なのだから。
私は氷点下の呼吸で、胸中の熱を殺す。
「承認。……無罪」
ガベルを叩く。
乾いた打音が、どこかの路地で少女が息絶える音と重なった。
「ハハハ! 感謝しますぞ、氷の審査官殿!」
紫色の汚泥を撒き散らしながら去っていく男。
私は眉間を強く揉んだ。
世界は今日も、正常に狂っている。
その時、懐の端末が絶叫した。
コード『000』。
システムの創造主。大統領の心停止。
第二章 マイナス9999の遺体
大統領執務室は、冷蔵庫の中のように冷え切っていた。
警備兵たちは幽霊でも見たかのように、直立不動で震えている。
部屋の中央、執務机に突っ伏した老人。
かつてスコア1000を記録し、現人神と呼ばれた男のなれの果て。
頭上のモニターが、異常な数値を吐き出していた。
『スコア:-9999』
『判定:排除対象(ウイルス)』
理論上の下限値。
大量虐殺者ですら、ここまでの数値は出ない。
私は遺体に近づく。
……妙だ。
彼からは、あの吐き気を催す紫煙が一切立ち上っていない。
むしろ、生まれたての赤子のように透明だ。
なのに、なぜシステムは彼を「最悪」と断じた?
視線を机の上に落とす。
そこには、国の命運を左右する『平和条約調印書』が広げられていた。
だが、署名欄は白紙。
書類は乱雑に脇へ追いやられ、その代わりに中央に鎮座していたのは――
一組の、小さな金ヤスリとピンセット。
そして、老人の硬直した指からこぼれ落ちた、歪な指輪だった。
拾い上げる。
軽い。
安物のガラス玉を削り出した、模造ダイヤの指輪。
市場価値など皆無。
だが、指の腹で触れた裏側には、無数の傷があった。
何度も失敗し、何度も削り直し、不器用な手つきで刻まれた文字。
『Mary』
亡き妻の名だ。
ふと、壁のカレンダーを見る。
昨日の日付に、赤ペンで花丸が描かれていた。
『結婚記念日』。
彼は、世界平和を左右する調印式をすっぽかしたのだ。
数億人の安全よりも、亡き妻へ捧げる、たった一つのガラス玉を磨くことを選んだ。
システムは冷徹に計算したのだ。
『個人の感傷』のために『全体の利益』を損なう行為。
それこそが、最も忌むべきウイルスであると。
第三章 崩壊する視界
「……馬鹿な人だ」
私の唇から、震える声が漏れた。
指輪を握る手に力が入る。
ガラスの鋭利な角が皮膚に食い込み、微かな痛みが走る。
システムが求めていたのは『善』ではない。
『滅私奉公』という名の歯車だ。
だが、この老人は最期に、歯車であることをやめた。
ズキン、と眼球の奥が脈打つ。
(よせ)
本能が警鐘を鳴らす。
これ以上、この指輪に「意味」を見出してはいけない。
この老人の愚行に「共感」してはいけない。
私の眼が、機能を停止してしまう。
今の地位。
安定した生活。
審査官としての特権。
感情を殺していれば、すべて守られる。
指輪をゴミ箱に捨てろ。
「愚かな反逆者でした」と報告すればいい。
だが、指は動かなかった。
ガラス玉の、不格好な輝き。
機械加工された完璧な宝石よりも、この傷だらけのガラスの方が、なぜこんなにも美しいのか。
「う……ぐっ」
視界が歪む。
色彩が溶け出し、砂嵐のようなノイズが走る。
熱い。
胸の奥から、煮えたぎるような何かが喉元までせり上がってくる。
これは同情ではない。
嫉妬だ。
すべてを捨ててでも、誰かを想い抜いた彼への、どうしようもない嫉妬と敬意。
「審査官!? 目が、血走っています!」
部下の悲鳴が遠い。
視界の端から、黒いインクを流したように闇が侵食してくる。
紫色の悪意も、灰色の壁も、すべてが漆黒に塗りつぶされていく。
怖い。
光を失うことが、これほど恐ろしいとは。
だが、それ以上に――このふざけた数式に支配されたまま生きる方が、よほど恐ろしい。
私は、ほとんど見えなくなった目でコンソールを睨みつけた。
最終章 闇の中の光
『警告。感情値オーバードライブ。視覚中枢への負荷増大』
『直ちに鎮静剤を――』
「うるさい」
私の指は、正確にキーボードを叩いていた。
視力はもうない。
だが、指先が覚えている。
管理者パスワード。
システムの中枢。
『警告。全市民のスコアがリセットされます』
『あなたのキャリアも抹消されます』
闇の中で、機械音声だけが響く。
足元が崩れ落ちるような浮遊感。
私は、左手に握りしめた指輪の感触を確かめる。
ザラザラとした、不器用な傷跡。
それが、私を現実に繋ぎ止める唯一の錨(いかり)だった。
「徳法(システム)、解除」
最後のエンターキーを、叩き込む。
『…………システム、崩壊(クラッシュ)』
ブツン、という音と共に、ファンの回転音が止まった。
静寂。
そして直後、窓の外からどよめきが聞こえ始めた。
誰かの悲鳴。
そして、鎖から解き放たれた獣のような、歓喜の咆哮。
私は、完全な闇の中に立っていた。
何も見えない。
金剛寺の脂ぎった顔も、紫色の悪意も、もう見る必要はない。
私は、見えない指輪をそっと唇に押し当てた。
ひんやりとして、安っぽくて。
けれど、人間の体温が残る、確かな熱。
「……綺麗だ」
視界は閉ざされた。
だが、私は生まれて初めて、この世界の美しさに触れていた。