ヴォイス・マーケット

ヴォイス・マーケット

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第一章 魂の振動

日向湊(ひなたみなと)の世界は、滑らかで、均一で、そしてひどく静かだった。人々は皆、話す。カフェでは談笑が、オフィスでは議論が、広場では演説が交わされる。だが、そのどれもが、空気を震わせる「生」の響きを持たなかった。

この国では、生まれながらにして誰もが「声」を失っていた。正確に言えば、声を出す器官は正常に機能する。しかし、その声で公に言葉を発することは、法律で固く禁じられていた。代わりに、政府と巨大通信企業「エウフォニア社」が共同開発した『標準音声システム』が、全国民の喉に埋め込まれたマイクロデバイスを通じて、彼らの思考を合成音声に変換していた。

声は商品だった。経済力に応じて、声のトーン、感情表現の豊かさ、響きの美しさが決まる。湊が使うのは、政府から無償で支給される最も安価な「標準音声Ver.1.2」。抑揚がなく、まるで初期のコンピュータが読み上げるような、無機質な音声だ。喜びも、悲しみも、怒りさえも、同じ平坦な音の羅列に変換されてしまう。

湊は、そんな世界で時代錯誤な職人として生きていた。古いレコードやカセットテープを修復する、しがない技術者だ。彼の小さな工房は、埃とオイルと、そして忘れられた「音」の匂いで満ちていた。

その日、彼が修復していたのは、錆びついたカセットテープだった。依頼主は、遺品整理で見つけたとだけ言っていた。慎重にテープを修復し、再生デッキにセットする。スイッチを入れると、サーというノイズの向こうから、信じられないものが流れ出した。

それは、女性の歌声だった。

合成音声ではない。息遣いが聞こえ、声が微かに震え、高音では少しだけ裏返る。完璧ではないが、だからこそ胸を打つ、本物の人間の声。歌詞は聞き取れなかったが、その歌声には、切ないほどの愛情と、柔らかな悲しみが溶け込んでいた。それは湊が今まで一度も体験したことのない、魂の振動だった。

湊は息を呑んだ。デバイスから出力される彼の声は、いつも通り平坦に「……すごい」と呟くだけだったが、心臓は激しく波打ち、指先は痺れていた。これが、失われた「生の声」の力なのか。

その感動が冷めやらぬうちに、工房の壁に設置された公共ディスプレイが、緊急ニュースを映し出した。『旧時代メディア規制法、改正案を閣議決定。歴史的価値の低い音声記録の個人所有を原則禁止へ』。エウフォニア社のロゴが、冷たく輝いていた。

湊の唯一の心の拠り所が、世界から完全に消し去られようとしていた。平坦な合成音声が支配する静かな世界で、彼の内なる叫びだけが、誰にも届かず木霊した。

第二章 サイレント・コーラス

規制法の施行は、湊のささやかな日常を根底から揺るがした。客は激減し、工房は閑古鳥が鳴いた。彼は法律に背き、密かに集めた「生の声」のコレクションを、防音加工を施した地下室で繰り返し聴いていた。それは危険な慰めであり、甘美な毒だった。

そんなある日、工房のドアを叩く者がいた。入ってきたのは、凛(りん)と名乗る女性だった。彼女が使っていたのは、エウフォニア社が提供する最高級の合成音声「プレミアム・ヴォイスVer.7.0」。まるでプロの声優のように感情豊かで、鈴を転がすような美しい響きを持っていた。しかし、その完璧すぎる声は、どこか人形めいた冷たさを湊に感じさせた。

「あなたの腕を見込んで、お願いしたいことがあるんです」

凛が語ったのは、「サイレント・コーラス」という地下組織の存在だった。彼らは、エウフォニア社のシステムに抵抗し、一瞬だけでも自分たちの「生の声」を取り戻そうと活動しているレジスタンスだという。

「私たちは、声を奪われたんじゃない。表現する心を奪われたの」

凛の完璧な合成音声が、珍しく微かな苛立ちを滲ませた。彼女は裕福な家庭に生まれ、何不自由なく育った。しかし、どんなに高価な声を買っても、それが自分の魂から発せられたものではないという虚しさに、ずっと苛まれてきたのだという。

湊は躊躇した。危険すぎる。だが、彼女の瞳の奥に、自分と同じ渇望の色を見た。そして、あのカセットテープの歌声が、耳の奥で蘇った。

「……何をすればいいんですか」

彼の無機質な声に、凛の美しい音声が安堵の色を浮かべた。「あなたの技術で、古い録音機器から『声の波形データ』を抽出してほしい。私たちのハッキングに、それが必要なんです」

湊は、サイレント・コーラスの活動に加わることを決めた。彼は、工房の機材を駆使して、古い音源から「生の声」のデータをデジタル化し、組織のハッカーたちに提供した。それは、忘れられた過去の魂を、未来への弾丸として装填するような作業だった。凛と過ごす時間が増えるにつれ、湊は彼女の偽りの声の奥にある、不器用で真っ直ぐな心に惹かれていった。彼らは、声なき世界で、確かに心を響かせ合っていた。

第三章 裏切りの喝采

サイレント・コーラスの計画は、壮大かつ詩的だった。『オペレーション・カデンツァ』と名付けられたその作戦は、中央管理タワーのシステムをジャックし、都市中のスピーカー、テレビ、個人の音声デバイスから、一斉にメンバーたちの「生の声」による合唱を流すというものだった。

決行の夜。湊は、アジトの薄暗い部屋で、モニターに映し出される無数のコードを固唾を呑んで見守っていた。隣には凛がいた。彼女の指先が、緊張で冷たくなっているのが伝わってきた。

そして、その瞬間は訪れた。

街から、あらゆる合成音声が消えた。一瞬の完全な沈黙の後、響き渡ったのは、不揃いで、洗練されてはいないが、力強い人間の歌声だった。それは、希望を歌う古い民謡だった。

街中の人々が足を止め、空を見上げた。驚き、困惑、そしてやがて、多くの人々の目に涙が浮かんだ。生まれて初めて聴く「生」の合唱。それは、忘れかけていた人間性の根源を揺さぶる、圧倒的な体験だった。湊の胸にも、熱い塊が込み上げてきた。やったんだ。世界は、変わるかもしれない。

だが、その感動が頂点に達した時、リーダーである壮年の男が、アジトのメインスクリーンに姿を現した。彼の背後には、見慣れたロゴが輝いていた。エウフォニア社のロゴだ。

「諸君、喝采を。今宵、我々は新たな市場を創造した」

リーダーの合成音声は、湊たちが使っているものとは次元が違う、威厳と説得力に満ちたものだった。彼は、エウフォニア社創設者の息子であり、今回の計画の真の目的を語り始めた。

「人々は思い出しただろう。合成音声がいかに不毛で、生の響きがいかに価値あるものかを。我々はシステムを破壊するのではない。アップグレードするのだ。これより、エウフォニア社は新サービス、『リアルヴォイス・オンデマンド』を開始する。月額数百万で、あなた自身の本当の声を、時間限定で“レンタル”できるサービスだ」

湊は全身の血が凍りつくのを感じた。純粋な願いも、自由への渇望も、すべてが仕組まれた壮大なマーケティングだったのだ。彼らは、システムの破壊者ではなく、新たな商品のための客寄せパンダに過ぎなかった。

絶望が部屋を支配する。凛は顔を覆い、その場に崩れ落ちた。彼女の父親こそが、この残酷な計画の首謀者だったのだ。街に響き渡っていた感動の合唱は、いつしか、史上最も皮肉なコマーシャルソングへと成り下がっていた。

第四章 小さな聖域

『オペレーション・カデンツァ』は、社会に巨大な爪痕を残した。リーダーの計画は内部告発によって頓挫し、彼は失脚した。しかし、一度価値を知ってしまった世界は、もう元には戻れなかった。闇市場では「生の声」のデータが高値で取引され、富裕層は非合法な手段で自らの声を取り戻し、新たな差別と分断が生まれた。世界は、より複雑で、より残酷な場所になっただけだった。

湊は工房に引きこもった。何もかもに絶望し、あれほど焦がれた「生の声」を聴くことさえできなくなった。裏切りの喝采が、耳について離れなかった。

そんな彼の元を、凛が訪れた。彼女は、父と決別し、すべてを失っていた。彼女のデバイスから流れるのは、湊と同じ、平坦な「標準音声Ver.1.2」だった。

「ごめんなさい」

無機質な音声が、深い悔恨を伝えていた。

「……あなたのせいじゃない」

湊の無機質な音声が、それに応えた。

二人は、言葉少なにお互いの傷を舐め合った。そして、その沈黙の中で、湊は気づいた。彼らが求めていたのは、世界を変えるような大革命ではなかったのではないか。ただ、自分の本当の声で、目の前の誰かと話したかった。ただ、それだけだったのではないか。

数日後、湊は工房の地下室の扉を開けた。埃を払い、古い椅子を並べ、ささやかな防音設備を整えた。そして、小さな看板をドアに掛けた。『歌声喫茶 ひなた』。

それは、社会への抵抗でも、ビジネスでもない。ただの、小さな聖域(サンクチュアリ)だった。口コミだけで、少しずつ人が集まり始めた。彼らはここで、エウフォニア社の監視を恐れることなく、おずおずと、何十年も使っていなかった自分の喉を震わせた。

最初は、かすれた息のような声しか出ない。上手く音程も取れない。それでも、彼らは笑い、話し、そして歌った。完璧ではない、不器用で、ありのままの声を響かせ合った。

湊も、その輪の中にいた。彼の喉から絞り出された声は、震えていて、頼りなかった。だが、それは紛れもなく彼自身の声だった。隣で、凛が優しい、少し音程の外れた声で歌っている。二人は視線を交わし、不器用に微笑んだ。

世界は変わらなかった。声が商品である社会は続いている。しかし、この小さな地下室では、確かに魂が解放されていた。本当の声を取り戻すとは、世界を変えることではない。自分自身を取り戻す、小さな、しかし尊い一歩なのだ。

窓の外では、均一な合成音声が行き交っている。だが湊の耳には、地下室から漏れ聞こえる、不揃いな歌声の方が、何よりも力強く、世界の真実として響いていた。

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