第一章 感情なき透明な世界
都市の灰色の空の下、アオイは今日も無感情に一日を始める。朝のニュースは、各地のEQスコア平均値が安定していることを淡々と報じている。アオイの自宅の壁に埋め込まれた「バイオエモーション・リーダー(BEL)」のディスプレイには、彼の今日のEQスコア「72.3」という数字が静かに表示されていた。これは、この社会において「極めて安定した、理想的な市民」であることを示す、何の問題もないスコアだ。
この社会では、全ての人々がBELという小型デバイスを装着している。それは言葉を発するたびに、その言葉に紐づく感情を瞬時に分析し、数値化する。その数値、通称「EQスコア」は、個人の信用度、職業、居住区、さらには恋愛対象の適合率までをも決定づける絶対的な指標だった。喜怒哀楽といった強い感情は「社会的不安定要素」と見なされ、EQスコアを著しく低下させる。結果として、人々は本心を隠し、常に平穏で、波風の立たない「最適化された」コミュニケーションを築き上げることを強いられていた。表面上は摩擦のない、完璧な平和が保たれているかに見えた。
アオイはシステム管理者として、BELから収集される膨大な感情データを監視・分析する職務に就いている。彼の仕事は、社会のEQスコアが平均から逸脱しないよう、異常値を検出し、必要に応じて調整を提案することだ。冷徹な数字の羅列の中に人間性を見出すような、矛盾した仕事だと、アオイは時折、漠然と感じていた。しかし、その感情すら、彼のBELは読み取らない。彼は完璧に感情を「最適化」し、自身の心の深層に押し込めることに長けていた。
オフィスでコーヒーを一口啜る。苦味、香り、舌触り、全てが均一で、予測通りの「平均的なコーヒーの味」だ。その時、彼のディスプレイにアラートが点滅した。通常では考えられない、極めて高いEQスコアの変動を示すデータが検出されたのだ。それは、過去24時間で最大で30ポイント以上も乱高下している。驚くべきことに、その対象者はシステムが設定する「安全範囲」を何度も逸脱しているにもかかわらず、何の警告も受けていなかった。
対象者の情報が画面に表示される。氏名:カシワギ・ユウ。年齢:88歳。居住区:スラムにほど近い旧市街。
88歳。BELが導入される前の、あの「感情の時代」を生きてきた数少ない人間の一人だった。彼女のEQスコアのグラフは、まるで荒れ狂う海の波濤のように、制御不能な変動を続けていた。喜びの頂点から絶望の淵へ、怒りの爆発から深い悲しみへ。それはこの「感情なき透明な世界」において、異質な、ほとんど狂気じみた現象だった。
アオイの心に、微かな、しかし抗いがたい好奇心が芽生えた。それは、彼自身がこれまで感じたことのない、未知の感情の揺らぎだった。
第二章 声なき叫びの残響
アオイは、仕事を終えた足で、カシワギ・ユウの住む旧市街へと向かった。整然と区画された新市街とは異なり、そこは錆びついた鉄骨と色褪せたコンクリートの建物が乱立し、BELの光が届きにくい、忘れ去られた場所のようだった。薄暗い路地裏を曲がると、古びたアパートの一角から、微かに歌声が聞こえてきた。古の民謡だろうか、朗々としたその声には、喜びと、そして深い悲しみが混じり合っているように聞こえた。
ユウは、路地で小さな花壇の手入れをしていた。彼女の首には、他の市民と同じくBELが装着されている。しかし、その顔はしわくちゃながらも、豊かな表情で満ちていた。アオイが近づくと、彼女は満面の笑みで振り返った。
「あら、珍しいね。こんなところに若いもんが来るなんて。あんた、BELの監視員かい?」
アオイは平静を装い、用件を告げた。彼女の異常なEQスコアについてだ。
ユウはケラケラと笑った。「ああ、あれかい。私ゃ、昔から隠し事が苦手でね。それに、感情ってのは、しまい込んでちゃ意味がないんだよ。生きている証なんだから」
彼女の言葉は、アオイの知る「最適化された」コミュニケーションとは全く異なっていた。ユウの言葉の一つ一つから、喜び、怒り、悲しみ、驚きといった感情が、BELの数値として鮮やかに脈動する。それは、アオイがデータ上でしか見たことのない、生々しい人間の姿だった。
ユウはアオイを部屋に招き入れた。簡素な部屋には、古い写真や手作りの工芸品が飾られ、新市街の無機質な空間とはまるで違う温かさがあった。
「BELが導入されたのは、もう半世紀も前の話だ。その頃は、人と人との間に憎しみが渦巻いて、毎日どこかで争いがあった。だから、感情の『透明化』が、平和をもたらすって言われたんだ」ユウはそう言って、遠い目をした。「確かに、争いは減った。でもね、あんたたちには、本当の笑顔や、心からの涙もなくなっただろう? 愛する人を失った悲しみも、不正に対する怒りも、全てが『不安定』って一言で片付けられてしまう」
アオイは何も言えなかった。彼の心の奥底で、何かが確かに揺さぶられていた。これまで感じていた空虚感の正体が、漠然と輪郭を帯び始める。それは、感情を失ったことによる、人間性の欠落だった。ユウの言葉は、まるで彼の心のBELに直接語りかけるかのように、深く響いた。彼は初めて、システムという壁の向こうに、生きた人間が確かに存在することを実感したのだ。
第三章 システムの深淵
ユウとの出会い以来、アオイの日常は変容し始めていた。彼のBELが示すEQスコアは相変わらず安定しているものの、彼の内面では嵐が吹き荒れていた。ユウの言葉、彼女の豊かな表情、そして彼女のデータが示す感情の波は、アオイのシステム管理者としての冷静な視点と、人間としての本能の間で激しい葛藤を生み出した。
アオイは、ユウのデータだけでなく、過去の膨大なEQスコアのアーカイブを独自に分析し始めた。BELが導入された初期のデータと、現在のデータを比較する。すると、ある不自然な傾向が見えてきた。導入当初は、人々の感情の振幅は今よりもはるかに大きかった。しかし、徐々にその振幅は小さくなり、現在の「安定した」状態へと収束している。まるで、何らかの力が人々の感情を均一化しているかのように。
彼は、BELシステムのコアプログラムへとアクセスを試みた。それは最高機密に属する領域で、通常の管理者権限では立ち入れない。しかし、アオイは卓越した技術と、ユウから得た「知りたい」という初めての感情に突き動かされ、セキュリティの壁を突破した。
そこで彼が目にしたものは、彼の世界を根底から揺るがす、あまりにも衝撃的な事実だった。
BELシステムは、感情を「数値化し、公開する」だけの単純なデバイスではなかった。そのアルゴリズムの奥深くには、極めて巧妙に隠された「**感情減衰機能**」が組み込まれていたのだ。特に、社会に大きな変動をもたらす可能性のある特定の感情――例えば、強い「怒り」、深い「共感から生まれる悲しみ」、あるいは過剰な「情熱」といった感情は、BELによって検出されると、**その感情自体が微弱な電磁波によって脳神経に作用し、意図的に抑制・減衰されるようにプログラムされていた**。
つまり、人々は感情を自ら隠しているのではなく、BELによって強制的に感情を抑えつけられていたのだ。このシステムは、過去の激しい社会対立や紛争の再発を防ぐという大義名分の下、真の目的は、支配層にとって都合の悪い「感情の爆発」を防ぎ、社会を完全にコントロールするためのツールとして設計されていた。人々が感じていた「平和」は、感情が奪われた結果の、偽りの平穏だった。
アオイのBELは、彼の内側で爆発寸前の感情を必死に抑え込もうとしていた。初めて感じる、腹の底から湧き上がる激しい「怒り」と、全てが欺瞞だったことへの深い「絶望」。それは、彼のEQスコアを瞬間的に跳ね上がらせるほど強烈なものだった。ユウの言葉が、彼の脳裏で雷鳴のように響く。「あんたたちは、自分たちの心を自分で選ぶ自由を奪われているんだよ」。その意味を、アオイは今、痛いほど理解した。
第四章 選択の波紋
アオイは自席で、凍り付いたように動けなかった。ディスプレイには、感情減衰機能の詳細なアルゴリズムが青白い光を放っている。このシステムの存在を公表すれば、社会は未曾有の混乱に陥るだろう。人々は欺かれていたことに激昂し、長年抑圧されてきた感情が一度に噴き出せば、再び争いの時代が訪れるかもしれない。しかし、この事実を隠蔽すれば、人々は永遠に偽りの平和の中で、自らの感情を奪われたまま生き続けることになる。
アオイは、これまで感じたことのない深い葛藤の中にいた。システム管理者として、社会の秩序を維持する役割。しかし、一人の人間として、奪われた真実と感情への怒り。彼の心は、これまで無機質なデータとして扱ってきた人々の顔を次々と映し出した。誰もが安定したEQスコアを維持し、最適化された笑顔を浮かべていた。しかし、その笑顔の下には、BELによって抑圧された無数の感情が眠っている。
夜、アオイは再びユウの元を訪れた。老女はいつものように、路地のベンチに座って星空を見上げていた。
アオイは震える声で、BELシステムの真実を打ち明けた。ユウは、アオイの言葉を静かに聞いていた。彼女の顔には深い悲しみが浮かんでいたが、驚きはなかった。
「やっぱりねぇ……。そんな気がしてたんだよ。人間ってのは、そんなに簡単に変われない。変わったように見えたのは、誰かに変えさせられていたからさ」
ユウはアオイの震える手を優しく握った。「あんたが、どうしたいか。それが大事だよ。この真実をどうするか、あんたの心で決めなさい」
アオイは、これまで人生で一度も「自分の意思で」何かを選択したことがなかったことに気づいた。全てはシステムによって、あるいは社会の規範によって最適化された選択肢の中から選んできた。しかし今、彼は自分の心の奥底で燃え盛る感情を、初めて明確に認識していた。それは、この偽りの世界への怒りであり、人々に感情を取り戻してほしいという切なる願いだった。
彼は、システムを破壊するような劇的な行動は選ばなかった。それでは、混乱を引き起こすだけで、根本的な解決にはならないだろう。アオイが選んだのは、静かで、しかし確かな反逆だった。彼はオフィスに戻り、BELのコアプログラムの深奥部へ再びアクセスする。感情減衰機能を無効化するコードを、極めて慎重に、そして巧妙に書き換える。それは、誰もが気づかないうちに、しかし確実に、人々の心の奥底に眠る感情の蓋を開放するプログラムだった。彼は、自身の選択がもたらすであろう未来の不確実性を覚悟しながら、最後のコードを打ち込んだ。彼のBELは、静かに「安定」の数値を示していたが、アオイの心は、激しい高揚感と、初めて感じる「希望」という感情で満たされていた。
第五章 夜明けの微風
アオイがBELシステムを書き換えてから数週間が経過した。表向き、社会は以前と変わらない平穏を保っているように見えた。EQスコアの平均値も大きな変動はなく、システム管理者たちは異常を報告しない。しかし、アオイだけは知っていた。日々のデータの中に、微かな、しかし確かな変化の兆しがあることを。人々のEQスコアは、これまでと比べて、ほんのわずかだが、以前よりも豊かな振幅を示すようになっていたのだ。それは、怒りや悲しみといった「不安定」な感情だけでなく、純粋な喜びや深い共感といった「人間らしい」感情の再燃を意味していた。
街角のカフェで、アオイはユウと向かい合っていた。ユウはホットコーヒーを一口啜り、ゆっくりと顔を上げた。
「あんたの顔、少し柔らかくなったね」
アオイは少し驚いた。彼自身、自分の顔に変化があるとは思っていなかった。
「私が初めてあんたと会った時、あんたが飲んだコーヒーのEQスコアは『0.0』だった。ただの栄養補給、って感じだったんだろうね」ユウは微笑んだ。「でも、今日のあんたのコーヒーのEQスコアは、『3.7』だ」
アオイは、自分のカップを見つめた。コーヒーの湯気から、仄かな苦味と香りが立ち上る。彼は一口飲むと、これまで感じたことのない温かさが、彼の胸に広がっていくのを感じた。
「……美味しいです」
その言葉と共に、彼のBELが示すEQスコアは、瞬間的に「5.1」に上昇した。
世界はまだ混乱を免れている。感情の解放は、劇的な変化ではなく、まるで夜明けの微風のように、ゆっくりと人々の心に浸透し始めていた。カフェの隣のテーブルでは、若い男女が以前よりも少し熱のこもった声で、しかし楽しげに話し込んでいる。彼らのBELは、微かに、しかし確かに、喜びと驚きの数値を示していた。
人々はまだ戸惑いながらも、ふとした瞬間に、これまで抑え込んできたはずの感情が溢れ出るのを経験するだろう。それは、喜びだけではない。やがて、失望や怒り、悲しみといった感情も、再び人々の心に宿るだろう。そして、それらは社会に新たな摩擦や対立を生むかもしれない。
しかし、それは、人々が自らの意思で感情を選択し、向き合うことのできる、真に人間的な社会への移行を示す一歩だった。アオイは、ユウの温かい眼差しの中で、これまで感じたことのない「希望」という感情を静かに噛みしめる。彼の心には、システムが奪い去ったはずの色彩が、ゆっくりと、しかし確実に、戻り始めていた。
偽りの平穏は終わりを告げた。これから始まるのは、不確実性、そして無限の可能性に満ちた、感情の新しい時代だ。アオイは、その夜明けの風を肌で感じながら、深く、静かに息を吸い込んだ。