灰色の残響、透明な囚人
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灰色の残響、透明な囚人

第一章 灰色の街

俺、水瀬カイの目には、この世界が灰色に澱んで見えた。それは比喩ではない。人々が胸の奥底にしまい込み、蓋をした「諦め」が、俺の網膜には物理的な塊として映るのだ。

朝の通勤ラッシュ。駅のホームに溢れる人々からは、無数の灰色の塊が滲み出ていた。過重労働にすり減ったサラリーマンの肩には、粘土のように重くこびりついた諦めが。恋に破れた学生の足元には、今にも砕け散りそうな薄いガラス細工の諦めが転がっている。俺はそれらを無意識に避けながら、清掃員のカートを押して歩く。この能力は、物心ついた時からの呪いだった。

この世界には、もう一つの理(ことわり)がある。社会貢献度がポイントとして可視化され、一定値を超えた者は、その肉体が徐々に透明になっていく。そして完全に姿を消した者は「光の使者」と呼ばれ、社会の指導層として、我々凡人とは隔絶された領域へと迎え入れられるのだ。人々は彼らを神のように崇め、自らも透明になることを夢見て、日々の貢献に勤しんでいた。

だが俺には、あの透明な存在が、どうしようもなく空虚なものに見えていた。街の大型ビジョンに映し出される「光の使者」の微笑みは、完璧すぎて何の感情も読み取れない。そして何より奇妙なのは、彼らからは、あの灰色の「諦め」が一切見えないことだった。まるで、生まれながらにしてそんな感情を持たなかったかのように。

第二章 透明な憧憬

「カイ、久しぶり」

声をかけられ振り向くと、そこにエレナが立っていた。幼馴染の彼女は、陽光を浴びてキラキラと輝いている。いや、輝いているのではなく、その体が光を透かし始めているのだ。彼女の社会貢献ポイントは、同世代の中でも突出していた。

「エレナ……ずいぶん、透き通ったな」

「ええ。もうすぐなの」

彼女は嬉しそうに微笑み、自分の手のひらを太陽にかざした。指の輪郭が曖昧に溶け、向こう側の景色がうっすらと見える。その仕草は神々しくさえあったが、俺の目には別のものが映っていた。彼女の胸の中心、心臓があるべき場所に、かつて見たこともないほど歪で、黒く凝縮された「諦め」の塊が渦巻いていた。それは、まるで小さなブラックホールのように、彼女自身の光さえも吸い込んでいるように見えた。

「光の使者になれば、もう苦しむこともない。迷うこともない。完全な調和の中で、社会のために尽くせるの」

彼女の言葉は、澄んだ鈴の音のように響いた。だが、その声とは裏腹に、胸の内の塊はぐずぐずと形を変え、苦悶の悲鳴を上げているようだった。俺は何も言えなかった。彼女の夢を、希望を、俺にだけ見えるこの灰色の幻で汚すことなど、できるはずもなかった。

第三章 虚ろなブローチ

ある日の午後、街の中央広場で一体の「光の使者」が民衆の前に姿を現した。完全に透明なその人影は、そこにいるのかいないのかさえ判然としない。人々は熱狂し、その名を叫び、祈りを捧げている。俺は少し離れた場所から、その非現実的な光景を眺めていた。

その時だった。使者の胸元で、何かが銀色にまたたくのが見えた。目を凝らすと、それは装飾品――ブローチのようだった。実体がないはずの使者になぜ? 俺の視線がその一点に吸い寄せられた瞬間、世界がぐにゃりと歪んだ。

――パチパチとキャンバスが燃える音。焦げ付く絵の具の刺激臭。床に散らばる無数のデッサン。「才能がないのなら、諦めろ」。冷たい声が響き、若い男が膝から崩れ落ちる。彼の背中には、巨大な絶望がのしかかっていた。

「うっ……!」

強烈な情景のフラッシュバックに、俺は思わずその場にうずくまった。あれは、あの使者の過去。彼が、画家になるという夢を諦めた瞬間の記憶。あの『虚ろなブローチ』は、彼が捨て去ったはずの「諦め」の残骸を映し出す鏡なのだ。人々が崇める光の奥で、忘れ去られたはずの痛みが、静かに瞬いていた。

第四章 最後の放出

エレナが「光の使者」へと昇華する儀式の日が来た。純白の大聖堂は、荘厳なパイプオルガンの音色と、人々の熱気に満ちていた。俺は群衆の後ろから、祭壇に立つ彼女を見つめていた。彼女の体はもう、ほとんど輪郭しか残っていない。

司祭が高らかに宣言し、祭壇の天井から眩い光がエレナに降り注ぐ。彼女の最後の輪郭が、光の中に溶けて消えようとした、その瞬間だった。

俺の目にだけ、信じがたい光景が映った。

エレナの胸から、あの黒い「諦め」の塊が、まるで拷問のように引きずり出されたのだ。それは叫び声を上げるように捻じ曲がり、引き伸ばされ、祭壇に設置された巨大な水晶体へと、一筋の黒い奔流となって吸い込まれていった。それは彼女が生涯で抱えたであろう、すべての後悔と悲しみ、そして諦めの結晶だった。

水晶体が黒いエネルギーを呑み込むと、聖堂全体が、そして街中が一瞬、より一層明るく輝いた。人々は奇跡だと歓声を上げる。

光が収まった後、祭壇には完全に透明になったエレナが立っていた。表情はない。感情もない。ただ、完璧な「光の使者」としてそこに存在するだけ。そして、その胸元には、新しく生まれた『虚ろなブローチ』が、虚ろな銀色の光を放っていた。

第五章 システムの真実

俺はすべてを悟った。あの灰色の「諦め」は、消えていたのではなかった。この社会を維持するためのエネルギーとして、変換され、利用されていたのだ。

街を照らす輝きも、滞りなく動く公共機関も、人々が享受する平和も、そのすべてが「光の使者」たちの犠牲――彼らが諦めた夢や、捨て去った人間性の残骸を燃料にして成り立っていた。人々が崇める希望の光は、誰かの絶望を燃やして灯る、偽りの篝火だった。

俺は震える足で大聖堂を後にした。夜の街は、イルミネーションで美しく彩られている。だが今の俺には、その一つ一つの光が、犠牲者たちの断末魔に見えた。

俺は無意識に、エレナのブローチに意識を集中させた。脳裏に、暖かく、そして切ない情景が流れ込んでくる。

――幼い頃、二人で交わした他愛ない約束。「大人になったら、海の見える小さな家で一緒に暮らそう」。はにかみながら頷くエレナの笑顔。

それが、彼女が最後に手放した、最も根源的な「諦め」だった。平凡で、ささやかで、しかし誰よりも大切だったはずの願い。涙が頬を伝った。

第六章 灰色の選択

なぜ俺だけが「諦め」を見ることができるのか。なぜ俺だけがブローチの記憶に触れられるのか。答えは単純だった。俺のこの能力は、この完璧なエネルギー抽出システムにおける、唯一のバグなのだ。俺が「諦め」を視認し、その本質に触れるたび、システムには測定不能な微細なノイズが発生する。俺という存在そのものが、この世界の調和を乱す異物だった。

選択を迫られている。

この偽りの平和が続くよう、俺の能力を封印して沈黙を貫くか。

それとも、システムの核である大聖堂の水晶体に干渉し、すべてを破壊するか。

世界は混沌に陥るだろう。エネルギー供給は止まり、社会は崩壊するかもしれない。人々は再び、痛みや苦しみに満ちた不完全な感情を取り戻すことになる。

俺はビルの屋上から、眼下に広がる街を見下ろした。無数の人々から、灰色の「諦め」がゆらゆらと立ち上っている。それは醜く、重く、苦しいものだ。だが、それこそが、彼らが人間であることの紛れもない証なのだ。エレナが失ってしまった、最後の証。

俺の目に映る灰色の塊は、もはや呪いではなかった。それは守るべきもの、取り戻すべき、愛おしい人間の不完全さそのものだった。

俺は踵を返し、再び大聖堂へと向かって歩き出した。重く冷たい決意を胸に抱いて。夜明け前の冷たい風が、俺の頬を撫でていった。その選択の先に何が待っていようと、もう迷いはなかった。

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