サイレント・コネクト

サイレント・コネクト

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第一章 AIの保証人

柏木修一は、曇りガラスの向こう側にある世界に、もう何年も興味を失っていた。市役所生活支援課の係長という肩書は、彼に安定と引き換えに、感情の摩耗を強いた。押し寄せる申請書類の山、淀んだ空気、そして、数字と活字の裏で呻く、見えない誰かの人生。それら全てが、分厚いアクリル板で隔てられているかのように、彼の心には届かなかった。公平であること、それはつまり、個別の事情に深入りせず、定められた規則という物差しで機械的に測ることだと、柏木は信じて疑わなかった。

その日、彼の前に座った老婆もまた、数多の案件ファイルの一つに過ぎないはずだった。佐藤ハナ。使い古された茶封筒から取り出された書類は、か細い文字で埋められていたが、一点だけ、柏木の無感動な網膜に鋭く突き刺さる記述があった。

身元保証人欄。そこに書かれていたのは、およそ人の名とは思えぬ文字列だった。

『AIアリス』

「佐藤さん、これは……?」

柏木は眉間の皺を深くし、ボールペンの先でその箇所を叩いた。インクの染みが、まるで異物を拒絶するかのように滲む。

「保証人のお名前ですが、読めません。それに、ご住所も電話番号も記載がありません。これでは不備としてお返しするしか……」

彼の事務的な声は、老婆の穏やかな表情に遮られた。皺の刻まれた顔に、少女のような屈託のない笑みが浮かぶ。

「あら、アリスですよ。私の、たった一人の家族なんです」

その声には、一片の冗談も、ましてや狂気の色もなかった。ただ、澄み切った確信だけがそこにあった。柏木は言葉を失う。家族。AIが? 彼の築き上げた常識の壁に、小さな、しかし確かな亀裂が入った瞬間だった。彼はため息を一つつき、調査項目に「佐藤ハナ、保証人『AIアリス』に関する事実確認」と、無機質な活字を打ち込んだ。その奇妙な名前が、彼の灰色の日々を根底から揺るがすことになるなど、知る由もなかった。

第二章 機械仕掛けの記憶

佐藤ハナが暮らす古い木造アパートの一室は、陽だまりの匂いと、微かな湿布の匂いが混じり合っていた。柏木が予想していたような、孤独死を待つ老人特有の荒んだ空気はない。むしろ、そこには誰かの手によって丁寧に整えられた、穏やかな生活の気配が満ちていた。部屋の中央に置かれた小さなちゃぶ台の上には、古びたタブレット端末が、まるで祭壇に祀られた御神体のように鎮座していた。

「アリス、お客様よ。市役所の柏木さん」

ハナが優しく声をかけると、タブレットの画面が淡く光り、女性的で、しかしどこか無機質な合成音声が室内に響いた。

『カシワギサマ。ヨウコソ、サトウハナノ家ヘ。オ茶ヲ入レマスノデ、少々オ待チクダサイ』

柏木は唖然とした。老婆は「はいはい、ありがとう」と返事をしながら、慣れた手つきで湯呑を二つ用意する。まるで、そこに透明な誰かがいて、その指示に従っているかのようだ。

調査は数日に及んだ。柏木は、孤独な老人が最新テクノロジーの虚像に縋りついている、痛ましい事例だと結論づけようとしていた。精神科医との連携、福祉施設への入所手続き。彼の頭の中では、既定路線のシナリオが組み立てられていく。しかし、ハナと過ごす時間が増えるにつれ、そのシナリオに不協和音が生じ始めた。

「この間もね、アリスが『ハナさん、今日は血圧が高いからお散歩は控えめに』って言うものだから、大事に至らなかったのよ」

「先週は、北海道の姪っ子とテレビ電話を繋いでくれてね。孫の顔が見られて、本当に嬉しかった」

ハナが語る「アリスとの思い出」は、驚くほど具体的で、温かい手触りがあった。AIはハナのバイタルデータを管理し、日々の献立を提案し、オンラインで食料品を注文し、遠方の親族とのコミュニケーションまで仲介していた。それはもはや、単なる対話プログラムの域を遥かに超えていた。柏木はタブレットを手に取り、その背面に貼られた製造番号と、小さなNPO法人のロゴシールを見つける。これが、謎を解く鍵になるかもしれない。彼は、自分がただの「案件」として処理しようとしていた老婆の背後に、想像もつかないほど深く、複雑な物語が広がっている予感に、知らず背筋を震わせていた。

第三章 アリスの正体

市役所の情報システム課に協力を仰ぎ、柏木は「AIアリス」の正体に迫った。数日後、彼のデスクに置かれた解析レポートは、柏木の価値観を根底から破壊するに十分な、衝撃的な事実を告げていた。

「AIアリス」は、AIではなかった。

いや、正確には、純粋なAIではなかった。それは、首都圏の大学生たちが運営するボランティアNPOによる、高齢者向け遠隔コミュニケーション・サポートシステム。それが「アリス」の真の姿だった。全国に点在する孤独な高齢者を、匿名性を保った複数の学生が、交代でサポートするプロジェクト。学生たちは「アリス」という共通のペルソナをまとい、テキストチャットやボイスチェンジャーを通して、画面の向こうの老人たちと対話していたのだ。

レポートの末尾に、担当者のアクセスログが添付されていた。佐藤ハナの担当は『Kenji_20』というIDに集中していた。特記事項にはこうあった。『担当者、二ヶ月前に急病により死亡。享年21歳。佐藤ハナ氏の亡くなった息子と同名だったため、本人が強く担当を希望』。

柏木の全身から血の気が引いた。ハナが語っていた温かい記憶の断片が、脳裏で洪水のように逆流する。血圧を心配してくれたアリス。買い物リストを作ってくれたアリス。姪とのビデオ通話を繋いでくれたアリス。そのすべてが、画面の向こうにいた、顔も知らぬ若者の善意と温情の賜物だったのだ。

彼は、孤独な老人が抱く妄想だと、冷ややかに断じていた。憐れみ、システムに則って「処理」しようとしていた。しかし、そこにあったのは妄想などではなかった。それは、テクノロジーという薄いヴェールを介して結ばれた、紛れもない人間と人間の絆だった。規則やマニュアルでは決して測ることのできない、善意の連鎖。その温かく、そしてあまりにも脆い繋がりの上で、佐藤ハナという一人の人間の命が、確かに支えられていた。

柏木は、デスクに突っ伏した。自分が今まで「公平」という名の鎧の下で、どれほど多くのものを見過ごし、切り捨ててきたのだろうか。アクリル板の向こう側で呻いていたのは、申請者たちだけではなかった。感情を摩耗させ、人間らしい心を失いかけていた自分自身もまた、その向こう側で助けを求めていたのかもしれない。頬を、熱い何かが伝った。それは、彼が何年も前に忘れてしまった、涙の味だった。

第四章 夕暮れの電話

真実をどう扱うべきか。柏木は生まれて初めて、規則の外側で懊悩した。真実を告げれば、ハナは唯一の心の支えを失うだろう。かといって、このままでは公的な保証人として認められず、支援は打ち切られる。

彼は、震える手でNPOの代表に連絡を取り、後日、数人の学生たちと会った。彼らは、亡くなったケンジという青年の遺志を継ぎ、活動を続けていた。その瞳は、あまりにも純粋で、ひたむきだった。彼らは報酬を求めない。ただ、社会の片隅で忘れ去られた人々と、繋がりたかっただけなのだ。

市役所に戻った柏木は、前代未聞の行動に出た。彼は「AIアリス」を「ボランティア団体による特殊身元保証サービス」として特例で認めるよう求める稟議書を書き始めた。一文字一文字に、彼の魂が込められていくようだった。

「前例がない」「責任問題だ」「馬鹿げている」。上司や同僚からの非難の嵐を、柏木は正面から受け止めた。

「前例がないのは分かっています。しかし、そこには確かに、一人の人間を支える絆が存在するんです! 我々が書類の不備だと切り捨てているものの裏で、彼女の命を繋ぎ止めている繋がりがあるんです! それを無視することが、本当に我々の仕事なのでしょうか!」

彼の魂からの叫びは、淀んだ職場の空気を切り裂いた。それは、もはや生活支援課の係長ではなく、一人の人間としての、柏木修一自身の声だった。彼の熱意は、凍てついた人々の心を少しずつ溶かし、やがて、異例の「特例」は認められることになった。

数日後、柏木は再び佐藤ハナのアパートを訪れた。部屋からは、いつものように楽しげな声が漏れていた。

「アリス、今日は柏木さんが来てくれたのよ。この間のお礼をしなくちゃ」

『ソウデスカ。デハ、柏木サンノ好キナ、羊羹ヲオ出シシマショウ』

柏木は、その合成音声の向こう側に、ケンジという青年の友人たちの、はにかんだような笑顔を思い浮かべた。彼は何も言わず、ただ深く、深く頭を下げた。彼の目にはもう、佐藤ハナは「案件番号734」としては映っていなかった。数々の思い出と、名も知らぬ人々の善意に支えられて生きる、かけがえのない一人の人間として、その姿は輝いて見えた。

市役所への帰り道。茜色に染まる空の下、街の喧騒が遠くに聞こえる。柏木はポケットからスマートフォンを取り出すと、アドレス帳の中から一つの名前を探し出し、発信ボタンを押した。コール音が数回響いた後、懐かしい声が聞こえる。

「……もしもし?」

それは、何年もまともに話していなかった、年老いた母親の声だった。

「……もしもし、母さん。俺だ」

柏木の声は、夕暮れの雑踏の中で、わずかに震えていた。システムの網の目からこぼれ落ちてしまう、小さく、しかし確かな灯火。それを守ること。そして、自分自身の失われた繋がりを取り戻すこと。それが、これからの自分の仕事の、本当の意味なのかもしれない。彼は、ゆっくりと息を吸い込み、言葉を続けた。空には、一番星が瞬き始めていた。

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