夏空のイミテーション

夏空のイミテーション

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第一章 空色の侵入者

高槻湊(たかつきみなと)の世界は、常にくすんだ灰色をしていた。教室の隅、美術準備室の油絵の具の匂い、夕暮れの河川敷。彼が愛するそれらの場所は、彼自身が発する無色透明のオーラに包まれ、誰の注意も引くことはなかった。それでよかった。目立つのは苦手だったし、自分の内側にある、あまりに鮮やかすぎる色彩を誰かに知られるのは、もっと怖かったからだ。

だから、あの日の朝、湊は自分の目を疑った。

夏休みが明けたばかりの、気怠い空気が漂う校舎。その屋上に、巨大な「絵」が出現していたのだ。古い給水塔の壁面いっぱいに描かれた、空のグラフィティアート。それは、ただの空ではなかった。燃えるような茜色と、深く吸い込まれそうな群青色が渦を巻き、星屑のように散りばめられた光の粒子が、まるで生きているかのように瞬いている。あまりに幻想的で、暴力的なまでに美しいその空は、湊が誰にも見せたことのないスケッチブックの片隅に、こっそりと描き溜めていた「理想の空」そのものだった。

「誰が、どうして……?」

自分の秘密が、最も目立つ場所に、最も鮮烈な形で暴かれている。湊は恐怖と当惑で全身の血が逆流するような感覚に襲われた。職員室ではちょっとした騒ぎになっていたが、犯人は名乗り出ず、監視カメラにもそれらしい人影は映っていなかった。まるで、空から天使か悪魔が舞い降りて、一晩で描き上げたかのような、完璧な犯行だった。

その日の放課後、湊が美術準備室でひとり、混乱した頭を抱えていると、不意に背後から声がした。

「すごいよな、あれ。お前が描いたんだろ?」

振り返ると、そこに立っていたのは夏目陽(なつめよう)だった。夏休み明けに都会から転校してきたばかりの、太陽をそのまま人間のかたちにしたような男。日に焼けた肌、人懐っこい笑顔、クラスの中心にいるのが当たり前だというような、自信に満ちたオーラを放っている。湊とは対極の存在だった。

「ち、違う……僕じゃない」

「ふーん。でも、あんな空、お前しか描けないと思うけどな」

陽はニヤリと笑うと、湊が机の上に広げていたスケッチブックを、何の断りもなく手に取った。湊が止める間もなく、ページがめくられていく。そこに広がるのは、屋上のグラフィティと酷似した、湊だけの空想の風景たち。

「ほら、やっぱり」

陽は感嘆のため息をつくと、湊の肩を強く叩いた。「隠しておくなんて、もったいないぜ。お前のその才能、俺がもっとデカい場所に解放してやるよ」

その言葉は、湊の世界をこじ開けるための、無遠慮で、しかし抗いがたい響きを持っていた。

第二章 共犯者たちのキャンバス

陽は有言実行の男だった。その日から、彼は磁石のように湊に付き従い、彼の灰色の世界を、その明るさで無理やり照らし始めた。最初は戸惑うばかりだった湊も、陽の裏表のない純粋な賞賛と、底抜けの行動力に、少しずつ心を許していった。

「なあ湊、今夜学校に忍び込まないか?」

ある日の夕暮れ、陽は悪戯っぽく笑った。二人は誰もいなくなった夜の学校に忍び込み、プールサイドに寝転んで、本物の星空を見上げた。しんと静まり返った闇の中、陽は自分の夢を語った。世界中を旅して、誰も見たことのない風景をこの目で見たいのだと。そして、湊の絵には、そのまだ見ぬ風景を描き出す力があるのだと、熱っぽく語った。

湊は、自分の内なる色彩を理解してくれる初めての存在に出会ったことに、胸が高鳴るのを感じていた。陽といると、息がしやすかった。今まで自分を縛り付けていた透明な鎖が、音を立ててほどけていくようだった。屋上のグラフィティの謎は、いつの間にかどうでもよくなっていた。あれはきっと、自分たちの出会いを祝福するために現れた、奇跡の狼煙(のろし)だったのだとさえ思えた。

彼らの冒険はエスカレートしていった。閉鎖された古い工場の壁に、二人でこっそり小さなグラフィティを描いた。月明かりだけを頼りに、スプレー缶を手に壁に向かう時間は、まるで世界に二人だけしかいないような、濃密な共犯関係の匂いがした。陽は絵がうまくはなかったが、構図のアイデアを出したり、湊が描く姿をキラキラした目で見守ったりするのが得意だった。

「次は、もっとデカいのやろうぜ」

秋風が吹き始めた頃、陽が言った。「町の外れにある、あの廃墟のドライブイン。あそこの壁一面を使えば、お前の空が、きっと本物の空になる」

それは、あまりに大胆で、無謀な計画だった。しかし、湊は頷いていた。陽と一緒なら、何でもできる気がした。二人は何度も下見を重ね、綿密な計画を立てた。決行は、文化祭の代休の日。夜明けと共に始めれば、昼過ぎには完成するだろう。湊の心は、恐怖よりも期待で満たされていた。自分の絵が、陽という最高の理解者を得て、世界に解き放たれる。灰色の世界は、もうどこにもなかった。

第三章 夏の終わりの不在証明

決行の日の朝。夜明け前の冷たい空気の中、湊は指定された場所で陽を待っていた。画材の詰まった重いリュックが、期待の重さで肩に食い込む。しかし、約束の時間を過ぎても、陽は現れなかった。携帯に電話をかけても、留守番電話サービスに繋がるだけだった。

陽に限って、約束を破るはずがない。何か事故にでもあったのかもしれない。焦りと不安が、湊の心を黒く塗りつぶしていく。居ても立ってもいられなくなった湊は、陽から聞いていた住所を頼りに、彼の家へと走った。

「夏目……さんのお宅ですか?」

息を切らして呼び鈴を鳴らすと、出てきたのは陽によく似た、しかし光を失ったような瞳をした女性だった。陽の母親だろうか。湊が事情を話すと、彼女は悲しげに眉を寄せ、静かに言った。

「あの子は……陽は、今年の春に、もう……」

湊は、言葉の意味が理解できなかった。頭が真っ白になる。女性に招き入れられた薄暗い部屋には、小さな仏壇が置かれていた。そこに飾られていたのは、間違いなく夏目陽の、あの太陽のような笑顔の写真だった。

「じゃあ、僕が会っていたのは……一体、誰なんですか」

震える声で尋ねる湊に、部屋の奥から、陽と瓜二つの少年が姿を現した。しかし、その表情からは一切の光が消え失せ、深い影が落ちていた。

「俺だよ」

少年――夏目晶(なつめあきら)は、か細い声で言った。彼は、陽の双子の弟だった。

晶の口から語られた真実は、湊の世界を根底から破壊するのに十分すぎるものだった。

兄の陽は、春に交通事故で亡くなった。活発だった兄とは対照的に、内向的だった晶は、兄の死という現実を受け入れられず、いつしか陽として振る舞うようになってしまったのだという。陽の友人関係を、陽の好きだったものを、陽の口癖を、必死に真似て生きていた。

「兄貴の遺品を整理してたら、偶然スケッチブックを見つけたんだ。お前の……高槻湊の絵を。兄貴は、その絵に惚れ込んでた。『いつか、こいつと一緒に、世界がひっくり返るような絵を描きたい』って、何度も言ってた」

屋上のグラフィティは、晶が描いたものだった。兄の言葉を、兄の夢を、何とかして湊に伝えたくて。兄になりきって、湊の才能を解放することが、晶にとって唯一の救いだった。

「お前といる時だけは、本当に兄貴になれた気がした。楽しかった。……でも、もう限界なんだ。俺は、陽じゃない。偽物でいるのは、もう疲れた」

晶はそう言うと、深く頭を下げた。「ごめん」という言葉を残して、部屋の奥へと消えていった。

夏の日差し、共犯者の高揚、未来への期待。そのすべてが、砂の城のように崩れ落ちていく。湊が体験した輝かしい夏は、すべて幻。誰かの死の上に成り立った、痛々しいイミテーション(模造品)だったのだ。

第四章 彼方へのグラフィティ

湊は、一人になった。陽という太陽を失い、晶という影もまた消え去った。彼の世界は、再び色を失い、以前よりももっと重く、冷たい灰色に沈んだ。何度も絵を描くのをやめようと思った。スケッチブックを開くたびに、陽の笑顔と晶の苦悩が胸を締め付け、息ができなくなる。

数週間が過ぎた。部屋に引きこもる湊の元に、中学校の同級生から連絡があった。夏目晶が、遠くの街へ引っ越した、と。それを聞いた瞬間、湊の心に何かが灯った。それは怒りでも悲しみでもなく、不思議な熱を持った感情だった。

彼は立ち上がり、埃をかぶっていた画材をリュックに詰め込んだ。向かう先は、あの廃墟のドライブイン。陽と、そして晶と約束した場所。

一人で壁に向かう。巨大なコンクリートの壁は、絶望的なまでに大きく、冷たかった。スプレー缶を握る手が震える。何のために描くのか。誰のために描くのか。もう、見てくれる人はいない。

それでも、湊は描き始めた。

描きながら、思い出す。自分を縛り付けていた鎖を断ち切ってくれた、陽の屈託のない笑顔。自分の才能を信じ、光の中へ連れ出そうとしてくれた、彼の情熱。そして、兄を想うあまり、その幻を必死に生きた、晶の痛々しいほどの優しさと孤独。

二人の想いが、スプレーの飛沫と共に、壁に刻み込まれていくようだった。

湊は寝食も忘れ、何日もかけて絵を描き続けた。それは、屋上の空でもなく、スケッチブックの中の空でもない、全く新しい空だった。悲しみを溶かしたような深い藍色と、夜明けの希望を宿した淡い金色が、複雑に絡み合い、天へと昇っていく。それは、喪失と再生の物語そのものだった。美しく、どこまでも切なく、それでいて、圧倒的な生命力に満ち溢れていた。

最後のスプレーを吹き付け、壁画が完成した時、湊はそこに一人で立っていた。しかし、孤独ではなかった。彼の背中には、夏空に溶けていった太陽の熱と、その影で震えていた月の光が、確かに寄り添っている気がした。

灰色の世界は、もう戻ってこない。彼がこれから生きていく世界は、鮮やかなだけの楽園でもなければ、色を失った絶望の世界でもない。喜びも悲しみも、光も影も、そのすべてを内包した、複雑で、豊かで、そして愛おしい世界だ。

湊は完成したグラフィティに背を向け、ゆっくりと歩き出した。その足取りは、もう迷ってはいなかった。

遠く離れた街の片隅で、一人の少年がスマートフォンの画面を食い入るように見つめている。ネットニュースに映し出された、地方の廃墟に出現した謎の巨大グラフィティ。その、あまりに切なく美しい空を見つめ、夏目晶は、誰にも気づかれないように、小さく微笑んだ。

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