六十秒の永遠と、透明な砂時計
第一章 逆流する砂
「――ごめん、やっぱり僕には」
言葉が喉で詰まる。クラスメイトたちの失望に染まった視線が、熱した針のように肌を刺す。逃げ出したい。その一心で、僕はシャツの下にあるペンダントを握りしめた。
硝子越しに伝わる体温。僕は奥歯を噛み締め、強く念じる。
吐き気がした。
世界が裏返るような強烈なめまい。極彩色のノイズが視界を覆い、鼓膜の奥で何かが千切れる音がする。心臓が早鐘を打ち、逆流する血液が血管を軋ませる。
息を吸い込むと、そこは一分前の教室だった。黒板の文字も、窓から差し込む陽の角度も、完全に同じ。
僕は震える手を膝の上で握り込み、さっきとは違う言葉を無理やり絞り出す。
「……その係、僕がやります」
教室の空気が弛緩する。「時野が? 助かるよ」
安堵の息を吐いた瞬間、背筋が冷やりとした。
代償はすぐにやってくる。
昨日の晩御飯のメニュー。それが思い出せない。必死に記憶の引き出しを開けようとするが、そこだけ黒く塗りつぶされたように認識できないのだ。
恐怖で脂汗が滲む。先週は、実家の電話番号を失った。その前は、好きだった絵本のタイトル。
この砂時計を使うたび、僕という人間を形成するピースが一つずつ剥がれ落ちていく。
それでも僕は、このペンダントを手放せない。臆病な自分を守るためなら、僕は自分の魂さえ切り売りできる卑怯者だ。
第二章 ノイズを聴く少年
「時野、さっきコーラこぼさなかったか?」
放課後の昇降口。転校生の佐倉零が、靴を履き替えながら不意にそう言った。
僕は靴紐を結ぶ手を止めた。心臓が嫌な音を立てる。
「……何のこと?」
「いや、気のせいか。なんか、お前のシャツに茶色いシミが広がっていく映像が、パッと浮かんでさ」
佐倉は悪びれもせず笑ったが、僕は立ち上がることすらできなかった。
一時間前の昼休み。僕は確かに食堂で彼とぶつかり、コーラを浴びた。その恥ずかしさに耐えきれず、僕は時間を巻き戻して、彼とすれ違うルートを変えたのだ。
書き換えられた事実は、僕の脳内にしか存在しないはずだ。なのに、佐倉零だけは違う。彼は時折、消滅したはずの時間の残滓(ざんし)を、デジャヴュのように感じ取る。
「お前さ、たまにひどく疲れた顔するよな」
佐倉が僕の顔を覗き込む。その瞳は、すべてを見透かすように澄んでいる。
「何か大事なものを、どこかに置き忘れてきたみたいな顔だ」
「……考えすぎだよ」
「そうかな。俺には、お前が一人でずっと走り続けてるように見えるけど」
彼はそれ以上追求しなかった。けれど、その何気ない言葉が、空っぽになりかけた僕の心に重く響く。
彼は気づいている。僕が世界を騙すたびに生じる微細な「歪み」を。
僕はペンダントに触れた。中の砂はもう、残りわずかしかない。母親の顔すら思い出せなくなりつつある今、次に失うのは何だろうか。
第三章 透明になった時間
轟音は、前触れもなく響いた。
文化祭準備で賑わう体育館。ステージ上の照明機材を固定していたワイヤーが、金属疲労で弾け飛んだのだ。
落下地点にいたのは、佐倉零だった。
「佐倉!」
叫ぶ間もなく、彼は鉄の塊の下敷きになった。悲鳴。血の匂い。
僕はペンダントを握り潰す勢いで念じた。戻れ!
視界が歪む。吐き気と共に、一分前の体育館に戻る。
佐倉はまだステージの下で作業をしている。
「そこをどいて!」
僕が叫ぶと、佐倉は不思議そうに顔を上げた。「え? なんだよ急に」
そのタイムロスが命取りだった。説得している間にワイヤーが切れる。再びの轟音。
(間に合わない……!)
何度繰り返しても、物理的な距離と、佐倉に状況を理解させる時間が足りない。
六十秒という時間は、運命を変えるにはあまりに短すぎた。
三度目のループ。四度目。
繰り返すたびに、僕の意識が白濁していく。自分の名前が霞む。ここはどこだ? 僕は誰だ?
脳が焼き切れるような頭痛。代償が、僕の根幹を喰らい尽くそうとしている。
(次が、最後だ)
砂時計の砂は、あと一回分しかない。これを使えば、僕は「僕」でいられなくなるかもしれない。
それでも、佐倉が死ぬ光景だけは鮮明に焼き付いている。
彼を助けなきゃ。僕の弱さに気づいてくれた、唯一の友人を。
戻れ。
五度目の六十秒前。
僕は迷わず走り出した。叫んでも無駄だ。説明しても間に合わない。
佐倉までの距離、十五メートル。全速力で駆ける。
頭上できしむ金属音。
「時野?」
佐倉が振り返る。僕は彼に飛びかかった。
優しさも説明もいらない。僕は全体重を乗せて、彼を突き飛ばした。
「どけぇっ!」
僕たちはもつれ合うように床を転がる。直後、数センチ横に巨大な照明が落下し、床板を粉砕した。
衝撃と爆風。
薄れゆく意識の中で、佐倉が僕を見て目を見開いているのが見えた。
僕の名前を呼んでいる気がする。けれど、その音はもう、僕の意味ある言葉として届かなかった。
僕の中の砂時計が砕け散り、世界が真っ白な光に包まれる。
最終章 記憶のバトン
消毒液の匂いで目が覚めた。
白い天井。カーテン越しの柔らかい陽光。
「……ここ、どこだっけ」
体を起こそうとして、全身の節々が痛むのに気づく。右腕には包帯が巻かれていた。
胸元に手が触れる。空っぽのガラスのペンダント。中身は何もない。
ただのガラス玉だ。なんでこんなものを大切につけていたんだろう。
「目が覚めたか」
パイプ椅子に座っていた少年が、本を閉じてこちらを見た。
見覚えはある。同じクラスの……佐倉くん、だったか。
「僕、どうして……」
「お前、機材が落ちてきた時、俺を突き飛ばして助けたんだよ。覚えてないのか?」
佐倉くんの声は少し震えているように聞こえた。
覚えていない。
いや、それどころか、高校に入学してからの記憶が、虫食いのように穴だらけだ。
僕は自分がどんな人間だったのかさえ、うまく思い出せない。
「ごめん。なんか、頭がぼんやりしてて」
「……そうか」
佐倉くんは痛ましげに顔を歪め、それからふっと優しく笑った。
「お前はすごいよ。本当に」
彼は僕の手をそっと握った。その温もりが、冷え切った僕の空白を埋めるように伝わってくる。
「なあ、時野。お前が忘れても、俺が全部覚えてるから」
「え?」
「お前がどれだけ必死だったか。どれだけ勇敢だったか。俺だけは、絶対に忘れない」
彼の瞳の奥に、僕が失くしてしまった「大切な何か」が揺らめいている気がした。
理由はわからないけれど、涙がこぼれた。
失った記憶は二度と戻らない。けれど、この手の温もりだけは、確かな真実としてここにある。
「ありがとう、佐倉くん」
「零でいいよ。……これからよろしくな、遥」
空っぽの砂時計が、窓からの光を受けてきらりと輝いた。
止まっていた僕の時間が、彼の声と共に、今ここから静かに動き出した。