72MHzの色彩、君と描くサヨナラの音

72MHzの色彩、君と描くサヨナラの音

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第一章 廃部寸前の周波数

放課後の放送室は、埃と古い機材の匂いがした。

窓から差し込む西日が、宙を舞う埃をキラキラと照らしている。

僕はミキサー卓のフェーダーに指を置き、目を閉じた。

『下校時刻となりました。生徒の皆さんは――』

校内放送のチャイムが鳴る。

僕の瞼の裏には、その音が「錆びた鉄色の波紋」として広がっていた。

音に色が見える。

誰に言っても信じてもらえない、僕だけの奇妙な感覚。

共感覚というらしいが、僕にとってはノイズでしかない。

「ねえ、そこの君」

突然、放送室の重い防音扉が開いた。

世界の色が変わる。

パッと弾けるような、鮮烈なレモンイエロー。

振り返ると、知らない女子生徒が立っていた。

制服のリボンは緩んでいて、汗ばんだ額に前髪が張り付いている。

「放送部、だよね? マイク、貸してくれない?」

「……は?」

「時間がないの。どうしても、今、届けたい声があるんだ」

彼女は僕の返事も待たず、強引に放送席へ座り込んだ。

名前も知らない。

でも、彼女の声が発する色彩は、僕が見てきたどんな音よりも眩しかった。

「湊(みなと)。僕の名前」

「私は紬(つむぎ)。ねえ湊くん、フェーダー上げて」

彼女の瞳には、有無を言わせない強い光が宿っていた。

僕はため息をつきつつ、親指でゆっくりとフェーダーを押し上げた。

ON AIRランプが赤く点灯する。

『あー、テステス。校内の皆さん、聞こえますか?』

レモンイエローの飛沫が、放送室いっぱいに飛び散った。

第二章 世界を録音する旅

「もっと、世界の音を集めたいの」

あの日以来、紬は毎日放送室に現れるようになった。

彼女の目的は、廃部寸前の放送部を立て直すことではない。

『この街の音を全部入れた、タイムカプセルみたいな番組を作りたい』

そう言って、僕たちはレコーダー片手に街へ出た。

「ほら、湊くん! この炭酸のシュワシュワって音、どんな色?」

防波堤に座り、彼女はラムネの瓶を開ける。

「……薄い水色の粒が、上昇していく感じ」

「ふふ、詩人だね」

「見たままを言ってるだけだ」

カモメの鳴き声は白い矢印。

遠くの踏切の音は、赤い警告色の帯。

波の音は、深い藍色の絨毯。

僕の世界は常に騒がしい色彩に溢れている。

でも、紬といる時だけは、その色が綺麗な絵画のように整って見えた。

「ねえ、湊くん」

「ん?」

「私の声は? 何色に見える?」

ファインダー越しではなく、彼女は僕の目を真っ直ぐに見ていた。

夕陽が彼女の輪郭を金色に縁取っている。

「……黄色。それも、すごく明るい、向日葵みたいな」

「そっか。元気な色でよかった」

紬は笑った。

でも、その笑顔の端に、ほんの一瞬だけ「灰色」のノイズが走ったのを、僕は見逃さなかった。

音割れのような、不吉な濁り。

その正体に気づいたのは、それから一週間後のことだ。

第三章 沈黙の足音

図書室での録音中だった。

「次は、ページをめくる音ね」

紬が本を開く。

カサッ、という乾いた音。

「いい音」

彼女は満足げに頷いた。

その直後だ。

背後で、重たい辞書が床に落ちた。

ドンッ!

図書委員が慌てて拾い上げるほどの大きな音。

僕は驚いて振り返った。

僕の視界には、黒い衝撃波のような色が走った。

けれど。

紬は、動かなかった。

ページを見つめたまま、微動だにしない。

「……紬?」

僕が肩に触れると、彼女はビクッと体を震わせて振り返った。

「え? なに? 湊くん、急に触らないでよ」

「今の音、聞こえなかったのか?」

「音? なんの?」

彼女の瞳が揺れている。

その声の色が、また灰色に滲んだ。

「……紬、お前」

「言わないで」

彼女は僕の口を掌で塞いだ。

手のひらが、冷たくて震えている。

「消えちゃうの」

静寂な図書室に、彼女の囁きだけが響く。

「私の耳、もうすぐ聞こえなくなるんだって。感音性難聴が急激に進んでるの」

世界から、音が消えていく。

僕には色が多すぎて困る世界が、彼女にとっては色褪せた無音の世界に変わろうとしている。

「だから、録りたかったの。私が忘れないように。私が……音を覚えていられるように」

彼女の目から涙がこぼれた。

その涙が床に落ちる音さえ、僕には悲しい水色に見えた。

掛ける言葉が見つからなかった。

僕の特異な才能なんて、彼女の喪失の前では何の役にも立たない。

「怖いよ、湊くん。湊くんの声も、いつか聞こえなくなっちゃうのかな」

僕は拳を握りしめた。

爪が食い込む痛みが、現実を突きつける。

第四章 72MHzの奇跡

「放送、やろう」

翌日、僕は放送室で告げた。

「最後の放送だ。全校生徒へ向けて、じゃない。未来のお前へ向けて」

紬の聴力は、日に日に落ちていた。

補聴器をつけても、会話のキャッチボールが遅れる。

タイムリミットは近い。

僕たちは徹夜で編集作業をした。

集めた街の音。

笑い声。

風の音。

それらを繋ぎ合わせ、一つのシンフォニーを作る。

「湊くん、BGMの音量、これじゃ大きすぎない?」

「いいんだ。これくらいじゃないと」

放送当日。

昼休みの校内放送ジャック。

先生たちが放送室に走ってくるまでの、わずか15分間。

『こんにちは。放送部の、最後の番組です』

紬の声がマイクに乗る。

少し震えているけれど、鮮やかなレモンイエローは健在だ。

僕はミキシングコンソールを操作しながら、イコライザーを調整する。

低音(ベース)を極限まで上げる。

空気が振動する。

床が、机が、ビリビリと震える。

隣にいる紬が、驚いたように僕を見た。

そして、マイクスタンドを握る手に力を込め、ふわりと笑った。

聞こえているんじゃない。

感じているんだ。

音の振動を、肌で。

『私は、この街の音が好きでした。みんなの笑い声が、好きでした』

彼女の語りは、遺言のようであり、ラブレターのようだった。

僕の視界には、彼女の声と、僕が作り出した重低音の色彩が混ざり合い、見たこともないオーロラのような光景が広がっていた。

『聞こえなくなっても、私は忘れない。絶対に』

放送室のドアが叩かれる。

先生たちの怒鳴り声。

でも、僕たちの世界には、二人だけの音しか鳴っていなかった。

僕は最後のフェーダーを下げた。

静寂が戻る。

「……ありがとう、湊くん」

彼女の唇の動きだけで、そう読み取れた。

その時、僕に見えていたレモンイエローの色は、永遠に僕の網膜に焼き付いた。

第五章 音のない絵画

あれから、十年が経った。

僕は都内の小さなギャラリーにいた。

壁一面に飾られているのは、僕が描いた絵画だ。

タイトルは『Soundscape』。

かつて僕が聞いていた音を、キャンバスに色彩として定着させた作品群。

「いらっしゃいませ」

入り口のベルが鳴る。

僕にはその音が、懐かしいオレンジ色の輪に見えた。

入ってきたのは、大人の女性だ。

長い髪を揺らし、ゆっくりと絵を見て回る。

彼女は一枚の絵の前で足を止めた。

それは、鮮やかなレモンイエローと、深い海のような藍色が混ざり合った、抽象画。

タイトルは『72MHz』。

彼女は絵を見つめ、そっと指先で触れようとして、ためらった。

僕は静かに近づき、彼女の隣に立った。

彼女は気づかない。

僕はポケットからメモ帳を取り出し、ペンを走らせて彼女の視界に入れた。

『いい色でしょう?』

彼女は驚いて顔を上げ、僕を見た。

その瞳が大きく見開かれる。

十年前と変わらない、強い光。

彼女は手話で何かを伝えようとして、やめた。

その代わりに、僕のメモ帳を受け取り、ペンを走らせる。

『懐かしい、音がする』

文字になった彼女の声。

音はない。

色も見えない。

けれど、僕の心の中では、あの日のレモンイエローが鮮烈に弾けた。

「久しぶり、紬」

僕は口を大きく動かして言った。

彼女は涙を浮かべながら、最高の笑顔で頷いた。

静寂の中で、僕たちの物語は、新しい色を重ねていく。

音のない世界で、僕たちはいつまでも、あの日のおしゃべりを続けていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 湊(みなと): 音を「色」として認識する共感覚の持ち主。常に視覚的なノイズに晒されているため、他者との関わりを避け、シニカルな態度をとる。しかし、音響機材を扱う才能は天才的で、紬のために「振動」と「記憶」を操る演出家となる。
  • 紬(つむぎ): 明るく行動的な女子生徒。進行性の感音性難聴を患っており、音が消える恐怖と戦っている。自身の声を、そして世界の音を「証」として残すために放送部へ入部する。彼女の声は湊にとって「鮮烈なレモンイエロー」として映る。

【考察】

  • 共感覚と喪失の対比: 音が「見えすぎる」湊と、音が「聞こえなくなる」紬。過剰と欠落という対照的な二人が、互いの足りない部分を補完し合う関係性がテーマ。
  • 「Show, Don't Tell」の演出: 紬の難聴の進行を、「会話のテンポのズレ」や「背後の落下音に反応しない」という描写のみで表現し、直接的な説明を避けることでリアリティと緊迫感を持たせている。
  • タイトルの意味: 『72MHz』はFMラジオの周波数帯(日本では76MHz〜が一般的だが、学校の旧式機器や特定用途として少しズレた周波数を使用している設定、あるいは二人の「ズレ」の象徴)。72MHzは「72(ナツ=夏)」の語呂合わせも含み、青春の一瞬の輝きを暗示している。
  • 結末の救済: 音を失った紬に対し、湊は音を「絵画」へと昇華させて再会する。これは「失われたものは戻らないが、形を変えて残り続ける」という、喪失に対する肯定と救済を描いている。
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