第一章 色褪せたポラロイド
九月の風は、真夏の傲慢さを洗い流すように校庭の砂を巻き上げていた。俺、柏木湊(かしわぎみなと)は、埃っぽい窓ガラスの向こうで繰り広げられる、代わり映えのしない日常を眺めていた。夏休みが明けて一週間。あの熱狂的な日々はまるで遠い夢のようだ。いや、実際に夢だったのかもしれない。
きっかけは、机の引き出しの奥から偶然見つかった一枚のポラロイド写真だった。
ざらついた手触りの白いフレームに収められていたのは、見慣れた風景と、見慣れたはずの顔ぶれ。錆びた灯台を背に、親友の健太が馬鹿みたいに歯を見せて笑い、美咲が少し呆れたように隣に立っている。そして、一番端には俺。カメラを構えたまま、少しだけ不器用に微笑んでいる。ありふれた、高校二年の夏の記念写真。ただ一つ、決定的に奇妙な点を除いては。
俺たちの間に、もう一人、少女がいた。
逆光の中でふわりと笑う、知らない少女。太陽の光が輪郭を溶かして、顔の細部までは判然としない。だが、そこに「誰か」がいたという事実だけは、写真の中で揺るぎない存在感を放っていた。健太も、美咲も、その少女の肩に親しげに腕を回している。まるで、ずっと昔からの仲間であるかのように。
なのに、思い出せない。
脳の引き出しを片っ端から開けてみても、彼女に関する記憶が一片たりとも見つからないのだ。健太と美咲に写真を見せても、彼らは首を傾げるだけだった。「誰だ、これ?」「合成写真じゃないの?」と。
だが、俺には分かっていた。これは合成なんかじゃない。シャッターを切った瞬間の、指先に残る微かな感触。潮の匂いを含んだ風。そして、ファインダー越しに感じた、胸が締め付けられるような眩しさを、身体が覚えていたからだ。
写真の隅に、見慣れない丸っこい文字で、こう書かれていた。
『忘れないで』
その言葉は、懇願のようでもあり、呪いのようでもあった。俺たちの失われた記憶の断片。色褪せたポラロイドの中で、名も知らぬ少女だけが、あの夏の真実を知っているかのように微笑み続けていた。
第二章 夏凪ぐ日々の魔法
すべての始まりは、七月の始業式。蝉時雨が教室の窓を揺らす、蒸し暑い日だった。担任が連れてきた転校生は、まるで真夏の太陽そのものを人の形にしたような少女だった。
「夏凪汐里(なつなぎしおり)です。夏の間だけだけど、よろしくね!」
日焼けした肌に、快活な笑顔。彼女の周りだけ、空気がきらきらと輝いて見えた。退屈を隠しもせず、窓の外ばかり見ていた俺たちのクラスに、汐里は小さな波紋を広げた。最初は遠巻きに見ていた俺も、健太と美咲と一緒に、いつの間にか彼女の引力に巻き込まれていった。
「ねえ、あそこの岬にある古い天文台、行ってみない?」
汐里の提案は、いつも突拍子もなかった。地元民ですら近寄らない、廃墟と化した天文台。俺たちは埃まみれになりながらそこを掃除し、持ち寄った古びたソファやランプを置いて、自分たちだけの秘密基地に仕立て上げた。天井のドームを開ければ、そこには満天の星が広がっていた。
「わあ……!」汐里が上げた歓声が、ドームにこだまする。その横顔を、俺は夢中でカメラに収めた。写真部に籍を置いているだけの、幽霊部員だった俺が、初めて本気で誰かを撮りたいと思った瞬間だった。
汐里との日日は、魔法のようだった。真夜中の学校に忍び込んでプールで泳いだり、誰もいない海岸で線香花火をしたり、古い映写機で秘密基地の壁に星空を映したり。ありふれた田舎町の風景が、彼女といるだけで、特別な映画のワンシーンに変わっていった。俺のカメラのメモリは、あっという間に彼女の笑顔で埋め尽くされていく。
「湊くんの写真って、時間を閉じ込める魔法みたいだね」
ある日、現像した写真を渡すと、汐里はそう言って微笑んだ。彼女に褒められると、胸の奥がくすぐったく、そして少しだけ痛んだ。ファインダー越しに見る彼女は、時折、ふっと消えてしまいそうなほど儚げな表情を見せることがあった。
「汐里って、夏休みが終わったら、どこに引っ越すんだ?」
健太が何気なく尋ねた時、彼女は一瞬、遠い目をした。
「うん……すごく、遠いところ。もう二度と、ここには来られない場所」
その答えは、夏の終わりの寂しさと相まって、俺たちの胸に小さな棘のように刺さった。永遠に続けばいいと願った時間は、しかし、確実に終わりへと向かっていた。
第三章 存在の証明
八月最後の週。台風が過ぎ去った後の空は、不気味なほど澄み渡っていた。俺たちはいつものように、秘密基地の天文台に集まっていた。流れ星がよく見える夜だった。
ドームの隙間から吹き込む夜風が、汐里の髪を優しく揺らす。その横顔を見つめながら、俺は胸に渦巻く想いをどう伝えればいいのか、言葉を探していた。そんな俺の葛藤を見透かしたかのように、汐里が静かに口を開いた。
「ねえ、湊くん。もし、私が最初からこの世界にいなかった存在だとしたら、どう思う?」
冗談かと思った。だが、彼女の声は真剣で、星明かりに照らされた瞳は悲しいほど澄んでいた。
「私はね、『夏の記憶』そのものなの」
汐里は、信じがたい物語を語り始めた。彼女は、この海辺の町で過ごされた幾多の夏、人々が抱いた「楽しかった」「忘れたくない」という強い想いの集合体が、奇跡的に形を成した存在なのだという。ひと夏の間だけ、実体を持って誰かと過ごすことを許された、蜃気楼のような存在。
「そして、夏が終わると、私の役目も終わる。私は消える。それだけじゃない。私と関わった全ての人の記憶から、夏凪汐里という存在は、綺麗さっぱり消え去ってしまうの。それが、ルールだから」
頭が真っ白になった。手足の感覚が遠のいていく。健太や美咲と顔を見合わせるが、彼らも言葉を失っていた。目の前で微笑んでいる少女が、記憶そのもの?夏が終われば、記憶ごと消える?そんな馬鹿げた話があるものか。
だが、これまでの不可解な点が、パズルのピースのようにカチリとはまっていく。彼女の過去について誰も何も知らなかったこと。時折見せる、あの儚げな表情の理由。そして、「もう二度と来られない」と言った、あの言葉の意味。
「だから、お願い」汐里の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。「湊くんの写真だけが、私がここにいた唯一の証拠になるかもしれない。私が、みんなと笑って、泣いて、この夏を生きたっていう、たった一つの証明になるかもしれないの。だから……私を忘れないで」
その瞬間、俺の中で何かが弾けた。これまで撮ってきた写真は、単なる思い出の記録ではなかった。それは、消えゆく存在に抗うための、記憶との闘いそのものだったのだ。俺はカメラを強く握りしめた。レンズの向こうで、泣きながら微笑む汐里の姿が滲む。
「撮るよ、汐里」
声が震えた。
「お前がいたっていう証拠を、俺が絶対に、この世界に残してやる。一枚残らず、全部」
俺はシャッターを切り続けた。流れ星が尾を引く夜空の下で、俺たちは泣きながら笑った。それが、俺たちが四人で過ごした、最後の夜だった。
第四章 きみがいた夏
そして、現在。俺は再び、あの錆びた灯台の前に立っていた。手には、あのポラロイド写真と、愛用のカメラ。
夏休み最後の日、汐里はあの写真を俺に手渡し、「忘れないで」とだけ言って、陽炎のように揺らめきながら消えた。その直後、強い目眩に襲われ、気づいた時には、なぜ自分がここにいるのかさえ分からなくなっていた。ただ、胸を抉られるような、途方もない喪失感だけが残っていた。
結局、俺の記憶からも、夏凪汐里は消えた。彼女の名前も、声も、交わした言葉も、今はもう思い出せない。健太も美咲も、あの夏に「何か大切なものを忘れている」という奇妙な感覚だけを共有している。
それでも、俺は写真を撮り続けている。あの日以来、俺の写真は変わった。ただ風景を切り取るだけじゃない。その瞬間に宿る光、感情、そこに確かに存在した時間の重みを、一枚に閉じ込めようと必死になっている。何に駆り立てられているのか、その根源は思い出せない。だが、シャッターを切るたびに、胸の奥で微かな熱が灯るのだ。
潮風が頬を撫でる。俺はカメラを構え、ファインダーを覗いた。レンズの向こう、陽光にきらめく海を背景に、灯台が静かに佇んでいる。
カシャリ、と乾いたシャッター音が響く。
その瞬間、ファインダー越しに幻が見えた気がした。逆光の中でふわりと笑う、知らないはずの少女の姿が。日焼けした肌、快活な笑顔。
『湊くんの写真って、時間を閉じ込める魔法みたいだね』
思い出せないはずの声が、耳の奥で鮮やかに蘇る。途端に、視界が涙で滲んだ。名前も思い出せない君。記憶から消えてしまった君。でも、君がいた夏は、確かに俺の中に生きている。この胸の痛みとして。このシャッターを切る衝動として。
青春とは、やがては失われる輝きそのものなのかもしれない。記憶は色褪せ、形を失っていく。だが、その光に触れた魂は、たとえ理由を忘れても、その温かさを永遠に記憶し続ける。
俺は涙を拭い、もう一度カメラを構えた。失われた記憶の向こう側にある、確かな輝きを信じて。俺の夏は、まだ終わっていない。君が存在したという証明を、探し続ける旅は、今始まったばかりなのだから。