第一章 錆びた鉄の味
唐突に、それはやってくる。
舌の上にじわりと広がる、錆びた鉄の味。アスファルトに頬を押し付けられた時のような、ざらりとした冷たい感触。全身の血が逆流するような感覚と共に、肺が圧迫され、息が詰まる。
「――っ、はぁ……っ」
俺、水瀬湊(みなせみなと)は、通学路の真ん中で膝に手をついた。心臓が嫌な音を立てて脈打っている。数秒後、幻覚のような感覚は霧散し、蝉時雨とむっとする夏の熱気だけが現実に戻ってくる。
これが俺の「能力」。まだ起きていない未来の感情を、五感で先取りしてしまう呪い。喜び、安らぎ、そして今のような圧倒的な絶備。原因も分からぬまま、ただその感覚の残滓に苛まれるだけの日々。
ポケットの中で、古びた砂時計がひんやりと冷たい。祖父の形見だというそれは、俺が未来の感情に苛まれるたび、中の瑠璃色の砂が流れ落ちる速度を変える。今は、まるで滝のように激しく砂が落ちていた。絶望の予兆。
学校からの帰り道、いつもは通り過ぎる旧校舎の裏手に、なぜか足が向いた。蔦に覆われた壁に、ぽつんと存在する木製の扉。今まで気づかなかったはずなのに、まるでずっと昔からそこにあることを知っていたかのように、自然に取っ手に手を伸ばしていた。
軋む音と共に扉を開けると、生温い風が頬を撫でた。
その先には、螺旋状にどこまでも続く、不思議な回廊が広がっていた。
第二章 終わらない夕暮れの回廊
そこは、現実の時間が停滞したかのような場所だった。空は永遠の黄昏に染まり、床も壁も、磨かれた琥珀のように淡い光を放っている。螺旋を描いて伸びる階段の先は見えず、奇妙な静寂が空間を支配していた。ここが、青春期の一部の人間だけが迷い込むという『螺旋の回廊』。俺は直感的に理解した。
「君も、迷い込んじゃったんだ」
軽やかな声に振り返ると、そこに一人の少女が立っていた。色素の薄い髪が夕暮れの光を透かし、きらきらと輝いている。橘栞(たちばなしおり)、と彼女は名乗った。
「ここはね、忘れられた場所なの。何をしてもいい。だって、ここから出たら、全部忘れちゃうんだから」
屈託なく笑う彼女の言葉は、俺にとって救いのように響いた。未来の感情に縛られることもない、ただ「今」だけが存在する場所。俺たちは他愛もない話をした。好きな音楽のこと、苦手な教科のこと。彼女といると、胸の奥がじんわりと温かくなるのを感じた。
ふと、ポケットの砂時計に触れる。中の砂は、星屑を散りばめたように輝きながら、信じられないほどゆっくりと、一粒一粒が愛おしむように落ちていた。
ああ、これが未来の「喜び」なのか。
この穏やかな時間が、ずっと続けばいい。そう、心の底から願った。だが、回廊から一歩外に出ると、栞と過ごした記憶は陽炎のように揺らめき、急速に輪郭を失っていく。胸に残るのは、確かな温かさと、そして同じくらいのどうしようもない喪失感だけだった。
第三章 予感という名の亡霊
回廊で栞と過ごす喜びは、俺の日常を鮮やかに彩った。しかし、それに比例するように、現実で感じる未来の感情は、より鋭く、より具体的になっていった。
ある雨の日、俺は強烈な「後悔」に襲われた。
全身を打ちつける冷たい雨の感触。ずぶ濡れの制服の重み。そして、腕の中に残る、急速に失われていく温もり。それは紛れもなく、栞を失う感覚だった。
「栞……っ!」
俺は教室で思わず彼女の名前を叫び、周囲の視線を集めた。現実世界の栞は、俺とほとんど話したこともないクラスメイトだ。彼女はきょとんとした顔で俺を見ている。
違う。この感情は、回廊で親しくなった「彼女」を失う未来だ。でも、その出来事は回廊の中ではなく、「外の世界」で起こる。
矛盾している。回廊の記憶は消えるはずなのに、なぜ俺だけが、回廊がもたらすはずの未来の感情を、こんなにも鮮明に受け取ってしまうんだ? 砂時計の砂が、警鐘のように不規則な速度で落ちていく。俺の能力と、この回廊の記憶消失には、何か隠された繋がりがあるに違いない。
第四章 調律者の影と逆流する砂
回廊の法則に疑問を抱いた俺の前に、それは現れた。影が人の形を取ったような、のっぺりとした顔の「存在」。
『探求は禁忌だ』
声は直接脳に響いてくるようだった。
『ここは青春という刹那の夢を見せる場所。夢から覚めれば記憶は消える。それが秩序。乱す者は排除する』
「調律者」と名乗るそれは、回廊の管理者らしかった。俺の能力も、砂時計のことも全てお見通しのようだった。
「なぜ記憶は消えるんだ! なぜ俺だけが未来の苦しみを背負うんだ!」
俺が叫んだ瞬間、これまでで最も強烈な絶望が全身を貫いた。目の前が真っ暗になり、立っていられない。ポケットの砂時計が灼熱を帯び、瑠璃色の砂が最後の数粒を落としきろうとしていた。
ああ、これで終わるのか。
だが、その時だった。ありえないことが起きた。
砂時計の砂が、重力に逆らって、下から上へと逆流を始めたのだ。ガラスの内側が淡く発光し、そこに震えるような文字が浮かび上がる。
『彼女を、守れ』
それは、未来からの悲痛な叫びだった。俺は顔を上げた。目の前の調律者に向かって、揺るぎない声で言い放つ。
「どけ。俺は、俺の未来を取り戻す」
第五章 未来からの手紙
砂時計の逆流は止まらない。光の奔流と共に、断片的なビジョンが俺の脳裏に流れ込んできた。それは、見知らぬ風景、知らないはずの出来事、そして、深い絶望に沈む、もう一人の俺の記憶だった。
未来の俺は、事故で栞を失っていた。
雨の日の交差点。けたたましいブレーキ音。俺の呼びかけに、もう二度と応えることのなかった彼女。その日を境に、未来の俺の世界は色を失った。俺が今まで感じてきた「絶望」や「後悔」は、すべてこの出来事に起因していたのだ。
未来の俺は、時を超えて過去の自分に伝わる感情の重みに、過去の自分が耐えられないことを悟った。確定した未来の苦しみは、まだ何も知らない心を容易く壊してしまうだろう、と。
だから、彼は創ったのだ。最後の力を振り絞り、この『螺旋の回廊』というシステムと、その管理者である「調律者」を。
記憶の消失は、罰でも呪いでもなかった。それは、未来の俺から過去の俺への、最大限の優しさだった。回廊での幸せな記憶ごと全てをリセットすることで、栞を失うという一点に収束する未来から俺を解放し、「真っ白な未来」と「無限の可能性」を与えようとしていたのだ。
砂時計は、その記憶リセットまでのタイムリミットを告げる装置。そして逆流は、未来の俺が遺した、最後のメッセージ。
『彼女を守れ』。それは、俺と同じ過ちを繰り返すなという、未来の自分からの祈りだった。
第六章 真っ白なプロローグ
全ての真実が、腑に落ちた。目の前では、調律者の影が静かに揺らめいている。それは管理者などではなく、未来の俺が作り出した、愛と後悔の結晶だったのだ。
回廊が、足元から静かに崩れ始めている。記憶のリセットが近い。
階段の向こうから、栞が駆け寄ってくる。「湊くん、どうしたの? なんだか、ここ、変だよ」
彼女は何も知らない。この出会いも、交わした言葉も、あと数分で全て消えてなくなる。
それでいい。いや、それがいい。
俺は未来の俺に、心の中で語りかけた。
(ありがとう。君の優しさは、確かに受け取った。でも、俺は君とは違う未来を選ぶよ)
俺は栞の手を強く握った。彼女は驚いたように目を見開く。
「行こう」
「え、どこへ?」
「俺たちの、明日へ」
彼女の手を引き、俺は崩壊する回廊を駆け抜けた。光の出口を抜けた瞬間、全身が強い浮遊感に包まれる。
次に目を開けた時、俺は旧校舎の裏手に立っていた。西日が目に眩しい。隣には、不思議そうな顔をした栞が立っている。
「……あれ? 私、どうして水瀬くんとここに?」
記憶は、綺麗に消えていた。回廊のことも、調律者のことも、未来の俺のことも。
でも、胸の奥には、名前のつけようのない温かい何かが、確かな感触として残っていた。そして、「彼女を守る」という、魂に刻まれたような揺るぎない意志だけが、俺の中に灯っていた。
ポケットを探ると、あの砂時計が静かにそこにあった。だが、中の瑠璃色の砂はもう動かない。ただの美しいガラスの置物になっていた。
「なんでもないよ」
俺は、初めて会ったはずの彼女に、自然に微笑みかけていた。
「これから、一緒に帰らないか?」
未来は白紙だ。どんな色で塗りつぶすかは、俺自身が決める。
空っぽになった砂時計は、終わりではなく、無限の可能性に満ちた、真っ白なプロローグの始まりを告げていた。