無色の馨り、あるいは世界を繋ぐプリズム
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無色の馨り、あるいは世界を繋ぐプリズム

第一章 硝子の向こうの極彩色

教室の扉を開けた瞬間、吐き気がした。

七月の湿気ではない。僕、アキラの鼻腔を暴力的に犯すのは、クラスメイトたちが垂れ流す感情の悪臭だ。

三列目で囁かれる噂話は、喉に張り付くような毒々しいピンク色のシロップの甘さ。窓際でテスト結果を握りつぶす男子生徒からは、錆びついた鉄と胆汁が混ざったような、胃の腑が縮む刺激臭が立ち上っている。

僕は眉間の皺を指で押し、銀縁眼鏡のブリッジを叩いた。

この分厚いレンズだけが、僕の視神経と嗅覚を守る唯一の防波堤だ。レンズ越しに世界を見ることで、僕はかろうじて他人の感情を「情報」として処理し、脳が焼き切れるのを防いでいる。

「……ひどい臭いだ」

僕の呟きは、教室の後方、異様な静寂に包まれた一角にかき消された。

そこには、一組の男女が座っている。彼らは一八歳を迎え、すでに『共鳴』を済ませた「完結者」たちだ。

二人は互いの瞳だけを見つめ合い、微動だにしない。周囲がどれほど騒がしかろうと、彼らの周りだけは音が吸い込まれ、真空のような無臭の空間が広がっている。彼らの世界には、もう二人以外は存在しないのだ。他者への関心を完全に遮断した、排他的で冷ややかな楽園。

「よう、アキラ。またシケた面してんな」

背後から、爽やかな風が吹き抜けた。

振り返ると、親友のリョウが立っている。彼が纏うのは、陽に干したばかりの麻のシーツのような、清潔で温かい琥珀色の香り。

この教室に充満する腐臭の中で、彼だけが唯一の呼吸できる場所だった。

「リョウか。……お前、その匂い、相変わらずだな」

「匂い? お前また変なこと言ってる」

リョウは屈託なく笑い、僕の肩を叩く。その振動に合わせて、琥珀色の香りが弾け、黄金の粒子となって舞い散った。僕の肺が、久しぶりに酸素を取り込んだように安らぐ。

「もうすぐだな、俺たちも」

リョウが顎でしゃくった先には、校庭の時計塔がある。

「あと三日で成人だ。俺、早く運命の相手を見つけて『共鳴』したいぜ。あそこの二人みたいに、世界の全部がどうでもよくなるくらい、誰かに夢中になりたい」

リョウの視線は、真空のカップルに向けられていた。

僕は喉の奥で苦い唾を飲み込む。

僕の手を見る。そこには、何もない。

僕からは、どんな色も、どんな香りも立ち上っていない。僕は、この極彩色の世界で唯一の「無臭」で「透明」なエラーだ。

感情がないわけではない。だが、僕の心から溢れるものは、なぜか無色透明に濾過されてしまう。

だから僕は誰とも混ざり合えない。透明な水が、油絵具と決して馴染まないように。

「……リョウ。世界がどうでもよくなるってことは、僕のことも見えなくなるってことだぞ」

「馬鹿野郎。俺とお前は親友だろ。システムなんかに負けねえよ」

リョウが白い歯を見せて笑った、その時だった。

キィン、と世界に亀裂が入るような耳鳴りがした。

「ガ、ぁ……っ!?」

リョウが唐突に胸を押さえ、膝をつく。

彼の輪郭がぐにゃりと歪んだ。

「リョウ!」

駆け寄ろうとした僕の足が止まる。本能的な恐怖が、全身の毛を逆立てた。

目の前で、リョウの香りが変質していく。

温かな琥珀色が、ドロドロとした黒いタールのように濁り、瞬く間に吸い込まれるように消失した。

後に残ったのは、スーパーマーケットの鮮魚コーナーの裏側のような、生臭い血と肉の臭いだけ。

「リョウ……?」

肩に手を置く。まるで屠殺されたばかりの家畜の肉に触れたような、生温かくも無機質な感触。

リョウがゆっくりと顔を上げた。

その瞳は、深海のように暗く、光を一切反射していない。

そこには親友の面影はなく、ただ「リョウの形をした肉塊」が呼吸を繰り返しているだけだった。

「……触るな」

リョウの唇から漏れた音は、黒板を爪で引っ掻いたような不快な周波数を帯びていた。

彼は僕の手を、汚物でも払うかのように乱暴に振り払う。

「リョウ、どうしたんだよ!」

「お前、誰だ。……うるさい。ノイズがする」

彼はまだ共鳴相手を見つけていない。なのに、彼の魂の扉は、外側から溶接されたかのように閉ざされていた。

あるはずのない断絶。

僕の鼻腔に残ったのは、親友が喪失したという事実と、吐き気を催すほどの生々しい肉の臭いだけだった。

第二章 断絶された回路

リョウが「断絶」してから一週間。教室は地獄に変わった。

リョウは席に座っている。だが、それはもうリョウではない。

クラスメイトが心配して声をかけても、彼は虚空を見つめたまま、機械的な単語を返すだけだ。

彼からは、かつての陽だまりの香りは微塵も感じられない。代わりに漂うのは、古くなった雑巾と、防腐剤の混じったような生理的な拒絶反応を引き起こす臭気。

僕は、彼を見るたびに込み上げる嘔吐感を必死に抑え込んでいた。

親友が生きたまま、中身だけを刳り抜かれてしまったような喪失感。

「……くそッ」

僕は放課後の図書室ではなく、無人の理科準備室にリョウを連れ込んだ。

彼は抵抗しなかった。ただの人形のように、引きずられるがままだった。

「リョウ、僕を見ろ!」

僕は彼の方を掴み、無理やり視線を合わせる。

無反応。焦点の合わない瞳孔。

その時、僕の『無色の能力』が、過剰なストレスに反応して誤作動を起こした。

バチッ、と脳内で火花が散る。

リョウの身体から、通常の感情とは異なる、異質な「情報の臭い」が逆流してきたのだ。

――鼻を突く、強烈な消毒液の臭い。

――黴びた羊皮紙と、冷たい金属の味。

視界が明滅し、僕の網膜に、リョウの記憶ではない「他者の記憶」がノイズとして割り込む。

白衣を着た男たち。無数の管に繋がれた脳。

『感情の過剰な共振は、社会の調和を乱す』

『ソウルメイト・システムの本質は、個の隔離だ』

『あいつは危険だ。適合係数が高すぎる。他者と繋がりすぎる個体は、システムを崩壊させる。剪定せよ』

脳裏に響く、無機質な声の残響。

それが「臭い」として僕の脳を直接刺激する。

理解した瞬間、戦慄が背筋を駆け上がった。

リョウは、共鳴に失敗したのではない。

彼は、誰よりも優しく、誰とでも深く繋がれる豊かな感受性を持っていた。その「過剰な繋がり」を、この世界の管理システムが危険因子と判断し、強制的に回路を焼き切ったのだ。

『共鳴』とは幸福のためのシステムではない。人間を最小単位の「二人」という檻に閉じ込め、社会全体を分断して統制するための首輪だったのだ。

「ふざけるな……」

僕の口から漏れた言葉は震えていた。

目の前のリョウは、システムによって心を殺された抜け殻だ。

彼から漂う防腐剤の臭いは、管理社会そのものの悪臭だった。

リョウの瞳から、一筋の涙が零れ落ちる。

表情は凍りついたまま、涙だけが流れている。

「……たす、け……」

蚊の鳴くような、掠れた声。

肉塊の奥底で、リョウの魂がまだ生き埋めにされながらも呼吸している。

「待ってろ、リョウ」

僕は拳を握りしめた。

僕には色がない。匂いもない。

だからこそ、この世界を縛る「色の檻」をすり抜けることができるかもしれない。

僕がただの透明な傍観者だったのは、この瞬間のためだったのかもしれない。

僕は準備室を飛び出した。

リョウの手を引き、屋上へと走る。

夕暮れの空が、血のような赤と、あざだらけの紫に染まっていた。

第三章 プリズムの覚醒

屋上の扉を蹴破ると、生温かい強風が僕たちを打ち据えた。

眼下に広がる街からは、無数の感情の澱みが陽炎のように立ち上っている。

リョウはフェンスに背を預け、崩れ落ちるように座り込んだ。

彼の胸のあたりから、どす黒いヘドロのような煙――システムが流し込んだ『断絶』のプログラム――が漏れ出し、彼自身を窒息させようとしている。

「アキラ……くるな、俺は、もう……」

「黙ってろ!」

僕はリョウの前に立ち、震える指先で自分の眼鏡に触れた。

このレンズは、僕を世界の汚濁から守る盾だった。

だが、盾を持ったままでは、泥沼に沈んだ友の手を掴むことはできない。

僕は両手で眼鏡を掴み、思い切り地面に叩きつけた。

ガシャン、という破壊音が、風の音を切り裂く。

砕け散ったレンズの破片が、夕陽を反射してきらりと光った。

「ぐっ……!」

裸眼になった瞬間、脳が殴られたような衝撃を受けた。

視界に映るすべてが、色と匂いの奔流となって襲い掛かる。

怒りの赤唐辛子、悲哀の湿ったカビ、嫉妬の腐った卵。

それらが混ざり合い、強烈な吐き気を催す情報の濁流となって、僕の神経を焼き尽くそうとする。

痛い。臭い。苦しい。

だが、僕は目を見開いた。

この濁流の中で、僕自身の輪郭だけが、どこまでも透明だった。

濁った色が僕に触れると、ジュッと音を立てて透明に中和されていく。

そうか。僕の『無色』は、単なる欠落じゃない。

あらゆる色を飲み込み、その毒素を濾過して、純粋な光へと還すための『プリズム』の性質。

「リョウ、受け入れろ!」

僕は濁流の中を突き進み、防腐剤の臭いを撒き散らすリョウの胸ぐらを掴んだ。

「お前の痛みも、その汚い断絶のプログラムも、全部僕が引き受ける!」

「やめろ、お前まで壊れるぞ!」

「壊れるもんか! 僕は空っぽだ。いくらでも詰め込める!」

僕はリョウを強く抱きしめた。

瞬間、僕の身体を媒体にして、リョウの中に溜まっていたどす黒いヘドロが、僕の中へと流れ込んでくる。

焼けるような激痛。内臓が鉛で満たされるような重圧。

他人の絶望、システムへの呪詛、孤独の冷たさが、僕の血管を侵食する。

「が、ぁぁぁぁッ!」

僕は絶叫した。

自分の魂が汚れていく感覚。自我が溶けてしまいそうな恐怖。

それでも、僕はリョウを離さなかった。

僕の体内で、ヘドロが透明な光へと変換されていく。

汚濁を吸い尽くし、清浄な風として世界へ還す。

それが、プリズムである僕の役割だ。

「……アキラ、アキラ……!」

リョウの声に、熱が戻っていた。

防腐剤の臭いが消え、微かに、本当に微かにだが、あの陽だまりの香りが鼻腔をくすぐった。

最終章 無色のまま、鮮やかに

意識が戻ったとき、僕はコンクリートの上で大の字になっていた。

空には満天の星。

夜の匂いは、雨上がりのアスファルトと、冷たく澄んだミントの香りがした。

「……おい、生きてるか?」

覗き込んできたリョウの顔は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。

だが、その瞳には光が宿っていた。

彼から漂うのは、以前のような圧倒的な陽だまりの香りではない。

少し弱々しく、恐怖の余韻という酸っぱい匂いも混じっている。

けれど、それは確かに「生きている人間」の匂いだった。

「……ああ、最悪の気分だ。全身が筋肉痛みたいだ」

僕は呻きながら体を起こす。

眼鏡はない。視界は少しぼやけているが、もう情報の奔流に溺れることはなかった。

僕の身体が、この世界の混沌を受け入れる器として覚醒したからだ。

「アキラ、俺……なんか、長い悪夢を見てた。世界中が灰色で、お前のこともわからなくて……でも、お前が泥だらけになりながら俺を引っ張り上げてくれたんだ」

「夢じゃないさ。お前は重かったよ、物理的にも精神的にも」

僕は笑おうとして、顔をしかめた。

世界は相変わらず、『ソウルメイト・シンクロニシティ』の支配下にある。明日になれば、また誰かが共鳴し、誰かとの縁を切るだろう。

だが、リョウの「断絶」は消えた。システムが排除しようとしたエラーは、僕というバグによって修復された。

「アキラ、お前……眼鏡、なくても平気なのか?」

「平気じゃないさ。臭いし、うるさいし、眩しい」

僕は立ち上がり、夜風を吸い込む。

街の方からは、相変わらず無数の感情の悪臭が漂ってくる。

だが、その中に混じる微かな花の香りや、誰かが誰かを想う甘い香りを、僕は嗅ぎ分けることができた。

僕には、特定の「ソウルメイト」は必要ない。

二人だけの楽園に閉じこもるのではなく、この混沌とした、汚くて美しい世界すべてと繋がり続ける。

それが、無色の僕が選んだ生き方だ。

「帰ろうぜ、リョウ。腹が減った」

「……ああ。おごるよ、ラーメンでも」

リョウが差し出した手を、僕は強く握り返した。

その手は温かく、少し汗臭く、そして何より人間臭かった。

二つの影が並んで歩き出す。

僕たちが通った跡には、目には見えないけれど、確かに世界を繋ぐ透明な橋が架かっていた。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**:
アキラは、他者の感情を「色と匂い」で暴力的に知覚する異能者。自身の『無色』を「欠落」と捉え、世界と距離を置いていた。しかし、親友リョウがシステムによって心を失った時、その能力が世界の感情の濁流を濾過し、純粋な光へと還す「プリズム」だと覚醒。孤独と向き合いながらも、自己犠牲を厭わず世界へ立ち向かう強い意志を見せる。リョウは純粋に共鳴を信じるが、その豊かな感受性ゆえにシステムに危険視され「剪定」される。

**伏線の解説**:
冒頭の「完結者」たちの異質な排他性や静寂は、ソウルメイト・システムが幸福ではなく「個の隔離」を目的とすることの伏線。また、アキラの『無色』が単なる欠落ではなく、後に「プリズム」として機能する特性も序盤から示唆される。リョウが「断絶」させられたのは、彼の「他者と繋がりすぎる」資質が、システムを揺るがす危険因子と判断されたためだった。

**テーマ**:
物語は、管理社会が「共鳴」という名の分断システムによって個を孤立させ、真の人間関係を奪う危険性を問いかける。アキラが『無色』の「プリズム」として覚醒し、システムの欺瞞を暴き、親友を救う姿は、異質な存在が既存の価値観を打ち破り、表面的な繋がりを超えた真の共感と友情の可能性を提示する。彼の覚醒は、混沌とした世界で「無色のまま鮮やかに」生きる道を示す。
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