君が吐く泥は、僕を救う銀河だった

君が吐く泥は、僕を救う銀河だった

主な登場人物

瀬戸内 蓮(せとうち れん)
瀬戸内 蓮(せとうち れん)
17歳 / 男性
常に目の下に隈があり、気だるげ。制服のシャツは着崩しており、指先には常に落ちない絵の具がついている。視線を合わせないように前髪が長い。
白石 繭(しらいし まゆ)
白石 繭(しらいし まゆ)
17歳 / 女性
透き通るような白い肌に、色素の薄い茶色の瞳。清楚なセーラー服をきっちりと着こなし、常に古びた文庫本を抱えている。冬でもないのに常に手袋をしている。
九条 譲(くじょう ゆずる)
九条 譲(くじょう ゆずる)
29歳 / 男性
清潔だがどこか冷たい印象の白衣姿。銀縁の眼鏡をかけ、常にタブレットで何かの数値を記録している。喫煙者。

相関図

相関図
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第1章: 泥の告白

指先を蝕むプルシアンブルー。皮膚の溝に深く入り込み、何度洗っても落ちない。洗面所の鏡。そこに映るのは、十七歳の死体だ。伸びすぎた前髪が視界を遮断し、緩んだ襟元からは倦怠が滲み出ている。琥珀色の瞳は光を拒絶し、淀んだ沼のようにただ沈黙していた。

瀬戸内蓮にとって、世界とは排泄物で満たされた巨大な水槽に過ぎない。

教室の喧騒、教師の説教、友人の笑い声。それら全てに混じる「黒い泥」。他人が嘘を吐くたび、その口から、毛穴から、粘着質のコールタールが溢れ出す幻視。呼吸をするたび、肺が泥で埋まる。吐き気を噛み殺し、僕は今日も屋上の錆びたフェンスに背中を預けていた。

「あの、瀬戸内くん」

鈴を転がすような声。鼓膜が震える。

振り返ると、白石繭がいた。図書委員。この学園で唯一、色彩を持つ異物。透き通る白磁の肌、色素の薄い茶色の瞳。季節外れの手袋をした両手で、古びた文庫本を抱きしめている。

彼女が一歩、近づく。聖女のような穏やかさと、張り詰めた緊張。

「ずっと、見ていました。あなたの描く絵も、あなたが一人でいるところも」

風が彼女の髪を揺らす。僕はポケットに手を突っ込んだまま、顔をしかめた。どうせまた、泥が溢れる。

「私は、瀬戸内くんのことが好きです」

その瞬間、世界が壊れた。

彼女のサクラ色の唇が開いた途端、ドロリとした漆黒の液体が吐き出されたのだ。今まで見たどんな「嘘」よりも粘度が高く、おぞましい悪臭を放つ汚泥。ボコッ、ボコッ。気泡の破裂音と共に、大量の黒い泥が彼女の足元へ流れ落ち、コンクリートを浸食していく。

「……は?」

後ずさる。泥は止まらない。微笑むたび、頬を染めるたび、滝のような汚濁が彼女の全身を覆い隠そうとする。足首、膝、瞬く間に広がる黒い沼。

「付き合ってください、とは言いません。ただ、知ってほしくて」

嘘だ。全部、嘘。

これほどの泥が出るなど、一体どれほどの欺瞞を腹に抱えているのか。清らかな外見は、すべて偽りで作られたハリボテか。

胃液が逆流する。恐怖と嫌悪で顔が歪む。

「近づくな!」

喉が裂けんばかりの絶叫。

彼女は泥の海の中で、汚れた靴のまま立ち尽くしている。溢れ出る黒い液体が、僕の革靴のつま先を濡らす。

「汚いんだよ、お前……! 息をするように嘘をつきやがって。反吐が出る」

罵倒を浴びせても、彼女は逃げない。それどころか、泥にまみれ、黒く染まっていく視界の中で、彼女だけが慈愛に満ちた瞳で僕を見つめ、微笑んだ。

その笑顔。僕には、化け物の捕食行動にしか見えなかった。

◇◇◇

第2章: 矛盾する献身

あの日以来、白石繭は影となった。

美術準備室に逃げ込んでも、廃ビルの屋上で時間を潰しても、気づけば視界の端に彼女がいる。手には温かいココアの缶。あるいは、僕が落としたスケッチブック。

「瀬戸内くん、顔色が悪いですよ」

彼女が眉を下げる。その瞬間、身体からどす黒いヘドロが滲み出し、床を汚す。

「余計なお世話だ」

「でも、放っておけません。瀬戸内くんは、本当はとても優しいから」

まただ。

「優しい」という単語が紡がれた瞬間、喉元からゴボリと泥が溢れる。純白のセーラー服を黒く染め上げ、華奢な肩を重く押し潰すような質量。

視覚情報の矛盾。神経がやすりで削られるようだ。

僕の眼には、彼女は「世界で一番の嘘つき」として映る。口を開けば泥を吐き、微笑めば汚濁が広がる。軽蔑すべき対象。

なのに、現実はどうだ?

クラスメイトが僕を嘲笑する時、彼女だけが毅然と反論していた。

美術室に置き忘れた筆、彼女が丁寧に洗って乾かしてくれていた。

雨の日、傘を持たない僕に自分の傘を押し付け、ずぶ濡れで走って帰った後ろ姿。

「……何なんだよ、お前は」

放課後の廊下。彼女を壁際に追い詰める。

彼女の手には、僕が破り捨てたデッサン画。皺を丁寧に伸ばし、大切そうに握られている。

「どうしてそこまで嘘をつく? 僕を騙して、何が楽しい?」

詰め寄る僕に、彼女は困ったように笑った。

「嘘なんて、ついていません」

ドロリ。

言葉と共に、目元から黒い涙のような泥が伝い落ちる。

視えている「嘘」の証拠と、彼女が捧げる「献身」の事実。噛み合わないパズル。脳の処理が追いつかず、強烈な耳鳴りが鳴り響く。狂っているのは僕か、それとも彼女か。

「蓮くん」

初めて、名前を呼ばれた。

「大丈夫。私は、蓮くんがどれだけ傷ついていても、離れませんから」

爆発。

全身から泥が噴き出し、廊下を埋め尽くす黒い奔流となる。悪夢のような光景に足をすくわれ、僕は尻餅をついた。

泥の中で差し伸べられる手。手袋越しでも分かるほどの震え。けれど表情だけは、能面のように張り付いた笑顔のまま。

その指先に触れることなど、できるはずもなかった。

◇◇◇

第3章: 真実の反転

理科準備室。充満するホルマリンと焦げたコーヒーの匂い。

保健医の九条譲は、銀縁眼鏡の奥の冷ややかな瞳をタブレットに向けたまま、紫煙を燻らせている。

「……それで? 君は彼女を罵倒し、拒絶し続けているわけか」

低く、感情の抜け落ちた声。

僕はパイプ椅子で貧乏ゆすりを繰り返す。

「あいつが嘘つきだからだ。先生だって知ってるだろ、あいつの様子がおかしいことくらい」

「ああ、知っているとも。誰よりもな」

九条が白衣のポケットから何かを取り出し、机の上に放る。

繭が肌身離さず持っていた文庫本。ページの間からはみ出しているのは栞ではない。びっしりと書き込まれた、血の滲むような筆跡のメモ。

『痛くない。痛くない。蓮くんの代わりなら、痛くない』

『今日も蓮くんが笑わなかった。もっと私が引き受けなきゃ』

「……何だ、これ」

背筋を走る悪寒。

直後、廊下が騒然となる。「白石さんが倒れた!」という悲鳴。

弾かれたように部屋を飛び出す。

人だかりの中心、床に伏す繭。その姿を見て、僕は息を止めた。

泥など、どこにもない。

ただ、白い肌に無数の痣が浮き上がっている。誰かに殴られたような、見えない重圧に押し潰されたような、どす黒い内出血。

「どけ!」

駆け寄る。彼女が薄く目を開ける。焦点が合っていない。

「れん、くん……?」

「おい、しっかりしろ! なんで、こんな……」

抱き起こした身体は驚くほど軽く、燃えるように熱い。

外れた手袋。露わになった手の甲。そこには、僕が昨日、絵を描くときに怪我をした箇所と全く同じ場所に、生々しい傷が開いていた。

「……まさか」

九条が追いつき、僕から彼女を引き剥がすように抱き上げる。その顔に浮かぶ、初めて見る焦燥。

「どいていろ、瀬戸内。手遅れになる前に処置をする」

「先生、これは何だ。あいつの身体、どうなってるんだ!」

「まだ気づかないのか、愚か者が」

走り出しながら、九条は言い放つ。

「君に見えていた『黒い泥』は、嘘じゃない。彼女が君から吸い取った『痛み』と『絶望』の質量だ」

世界が反転する。

心臓の早鐘。背中を伝う冷や汗。

嘘をつくたびに泥が出ていたのではない。

彼女が「好きだ」「優しい」「大丈夫」と言うたび、僕が抱える人間不信や孤独、物理的な痛みまでもが、彼女の身体へと移動していたのだ。

僕は、僕を守ろうとする彼女を、汚物だと罵り続けていたのか。

◇◇◇

第4章: 贖罪の淵

集中治療室。モニターが刻む電子音だけが、静寂を支配する。

ガラス越しの白石繭。無数の管に繋がれ、石膏像のように動かない。医師は「原因不明の多臓器不全に近い」と言う。だが原因は僕だ。僕の十七年分の呪詛を、彼女がすべて飲み込んだのだ。

『君が世界を汚いと感じるたび、彼女はその汚濁を濾過して、自分の体内に溜め込んでいたんだよ』

九条の言葉が脳内で反響し、頭蓋骨を内側から削り取る。

病院の廊下のベンチ。頭を抱えてうずくまる。

爪の間に入り込んだ青い絵の具を、親指で強く擦る。皮膚が破れ、血が滲む。痛くない。僕が感じるべき痛みは、今もあそこで眠る彼女が引き受けているから。

「……ぁ、ぁぁ……」

声にならない呻き。

回想が刃物となって襲いかかる。

『近づくな!』

『汚いんだよ、お前』

『息をするように嘘をつきやがって』

そのたびに、泥にまみれながら笑っていた彼女。あれは嘘の笑顔じゃなかった。痛みに耐え、それでも僕を安心させようとする、聖母の微笑み。最も汚れていると思っていた彼女こそが、この腐った世界で唯一、混じり気のない純白だった。

ふらつく足取りで病院を出る。

雨。冷たい雨粒が頬を打つが、感覚がない。

帰宅し、自室のアトリエへ。描きかけのキャンバス。散乱する絵筆。

全てが、彼女の命を削って描かれたゴミだ。

イーゼルを蹴り倒す。

ガシャン、と派手な音。キャンバスが床に転がる。

「もう、描かない」

筆を握りしめ、両手でへし折った。乾いた音が部屋に響く。

僕が絵を描けば描くほど、世界を見れば見るほど、彼女が死に近づくなら。僕は二度と何も生み出してはいけない。

ベッドの下から、彼女が貸してくれたあの文庫本が出てきた。

震える手で拾い上げる。ページの間から、一枚の便箋が滑り落ちた。

そこには、震える文字で、たった一行。

『蓮くんの世界から、悲しい色が消えますように』

視界が歪む。涙ではない。

眼球が、世界を拒絶するように焼き切れていく感覚。

膝から崩れ落ち、床に額を擦り付けて慟哭した。

「繭……っ!! 繭ぅぅぅッ!!!」

喉が千切れそうなほどの絶叫は、雨音にかき消され、誰にも届かない。

◇◇◇

第5章: 銀河を描く

夜の病院。死のような静けさ。

警備員の制止を振り切り、病室へと走る。脇には、へし折るつもりだった筆、黒の油絵具、新しいキャンバス。

「瀬戸内! 貴様、何をするつもりだ!」

九条の怒号。だが止まらない。

ドアを乱暴に開ける。繭はまだ目を覚まさない。顔色は白蝋のように生気がなく、死神がすぐそばに立っている気配。

「間に合え……っ、間に合ってくれ……!」

ベッドの前にイーゼルを立てる。

震える手でチューブを絞る。黒。ただひたすらに、深い黒。

僕が見てきた泥の色。彼女を苦しめた呪いの色彩。そして、僕が忌み嫌い、拒絶してきた世界そのものの色だ。

「消すんじゃない……受け入れるんだ」

筆を走らせる。

今まで僕は、世界から目を逸らしていた。汚いものを見ないように、綺麗なものだけを描こうとしていた。でも、彼女は違った。僕の汚さを、泥を、全て受け入れて飲み込んだ。

なら、僕も描く。

この黒い泥を。おぞましい闇を。

「うおおおおおッ!!」

獣のような咆哮。キャンバスに黒を叩きつける。

塗り潰せ。絶望を。孤独を。後悔を。

画面は漆黒に染まる。だが、そこで終わりじゃない。

ペインティングナイフを取り出し、黒い絵の具の表面を削り、弾く。

ホワイト、イエロー、セルリアンブルー。微細な光の粒子を、闇の中に散りばめる。

泥の中にこそ、光はある。

彼女が飲み込んだ闇の中で、彼女の魂はずっと輝いていたはずだ。

僕に見えていた「黒い泥」は汚物じゃない。僕たちが生きていくために必要な、夜の闇だったんだ。

筆が唸る。呼吸が止まる。心臓が早鐘を打つ。

汗が目に入り、しみる。それでも手は止まらない。

黒い闇の中に、一つ、また一つと星が生まれる。渦を巻き、奔流となり、光の河がキャンバスを貫く。

「見ろ……繭……っ! これが、僕たちの色だ!!」

最後の一筆を振り下ろした瞬間、視界から「黒い泥」の幻覚が消え失せた。

そこにあるのは、無限の奥行きを持つ『銀河』。

あらゆる悲しみを吸い込み、なお美しく輝く、深遠なる宇宙。

「……ん……」

微かな声。

筆を取り落とし、ベッドに駆け寄る。

繭の目尻から、一筋の涙が伝い落ちていた。ゆっくりと開かれる茶色の瞳。焦点が、僕の顔と、その背後にある絵を行き来する。

「……綺麗……」

酸素マスクの下で、彼女が微かに笑った。

その笑顔から、もう泥は溢れない。

モニターの心拍数が安定していくのを、九条が入り口で呆然と見つめている。

僕は彼女の手を握りしめた。傷だらけで、ボロボロの手。

その温もりが、僕の冷え切った指先に伝わる。

「ごめん。……ありがとう。……好きだ」

喉から絞り出された、飾り気のない言葉。

彼女が握り返してくる力は弱い。身体はもう元通りにはならないかもしれない。僕の呪われた眼も、いつかまた泥を映すかもしれない。

それでも。

僕はこの手を二度と離さない。

彼女が背負った闇も、痛みも、これからは僕が絵筆に変えて、何度でも、何度でも、満天の星空に塗り替えてみせる。

カーテンの隙間から、朝陽が差し込む。

僕たちが迎える最初の朝は、涙が出るほど眩しかった。

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