第一章 未来を撮る転校生
校舎の屋上は、僕だけの聖域だった。
コンクリートの照り返しと、生ぬるい風。フェンスの向こうには、どこまでも続くありふれた街並み。僕はそのすべてを、愛用のデジタル一眼レフのファインダー越しに眺めるのが好きだった。四角く切り取られた世界は、煩わしい現実のノイズを消し去り、構図と光だけが支配する美しい静寂を与えてくれる。人間関係の複雑さも、将来への漠然とした不安も、この四角い窓の中では意味をなさない。
高校二年の初夏。その日も僕は、昼休みの喧騒を逃れて屋上にいた。レンズを空に向け、流れる雲の形を追っていた時、背後で不意に声がした。
「いい色だね、今日の空」
振り返ると、そこに彼女がいた。夏目陽菜。一週間前に都会から転校してきた、クラスでも少し浮いている少女。色素の薄い髪が風に揺れ、首から提げた古めかしいフィルムカメラが、白いブラウスの上で小さな存在感を放っていた。
「……ああ」
僕は素っ気なく返事をして、再びファインダーに目を戻す。関わるな、と心の中の警報が鳴る。だが、彼女はお構いなしに僕の隣に立った。
「何撮ってるの?」
「……別に。ただの、風景」
「ふうん」
陽菜は僕のカメラを覗き込むでもなく、自分のフィルムカメラをそっと持ち上げた。カビ臭さと革の匂いが混じったような、懐かしい気配が風に乗って漂う。
「ねえ」
彼女はファインダーを覗いたまま、僕に言った。
「あなたの未来、撮ってあげようか?」
思わずファインダーから目を離す。彼女のレンズが、まっすぐに僕を捉えていた。未来を撮る? 馬鹿げた冗談だ。だが、陽菜の表情は冗談を言っているようには見えなかった。真夏の太陽のように真っ直ぐで、一点の曇りもない瞳。
「……意味がわからない」
「このカメラ、ちょっと特別でね。その人の、一番輝く未来の瞬間が写るの」
悪戯っぽく笑いながら、彼女はこともなげに言う。僕は呆れて言葉を失った。非科学的で、物語じみた与太話。けれど、なぜかそれを一蹴することができなかった。
カシャ。
乾いたシャッター音が、屋上の空気に小さく響いた。僕の顔にレンズを向けたまま、陽菜は満足そうに微笑んだ。
「撮れた。きっと、すごくいい未来が写ってるよ」
そう言い残して、彼女は軽やかな足取りで階段の方へ消えていった。一人残された僕は、心臓が妙に速く打っていることに気づく。ファインダー越しの安全な世界に、突然、予測不能な闖入者が現れた。その日を境に、僕の静かで退屈な日常は、ゆっくりと色を変え始めた。
第二章 ピンボケのファインダー
夏目陽菜という存在は、僕にとって理解不能な現象の連続だった。彼女は僕が所属する写真部にも顔を出すようになった。最新の機材が並ぶ暗室で、年代物のフィルムカメラをいじる彼女は、まるで時空を旅してきた旅行者のようだった。
「湊くんの写真って、すごく綺麗だよね。でも、ちょっとだけ寂しい匂いがする」
僕がコンクール用に撮りためた街の写真を眺めながら、陽菜は言った。
「寂しい?」
「うん。誰もいないから。建物とか、道とか、空とか、全部綺麗に切り取られてるけど、そこにいるはずの人たちの体温が感じられない」
図星だった。僕は人を撮るのが苦手だった。予測不能な表情や動きは、僕が求める完璧な構図を乱す。だからいつも、被写体から人間を排除してきた。それは、僕が現実の人間関係から距離を置いていることの、何よりの証明だった。
「今度、私を撮ってみてよ」
陽菜はそう言って笑った。僕は戸惑った。だが、彼女の引力に抗うことはできなかった。
それから僕たちは、よく二人で放課後を過ごすようになった。海沿いの公園、夕暮れの鉄塔、紫陽花が咲き乱れる路地裏。僕は陽菜にレンズを向け、何度もシャッターを切った。彼女はファインダーの中でよく笑い、よく動いた。その姿を追っていると、不思議と息苦しさが消えていくのを感じた。
しかし、現像した写真を見て、僕は愕然とした。どの写真も、陽菜の顔だけが奇妙にピントを外しているのだ。背景の紫陽花や、彼女が着ているブラウスの質感は驚くほどシャープに写っているのに、肝心の彼女の笑顔だけが、まるで陽炎のようにぼやけている。
「なんでだろう……」
暗室で赤いセーフライトの光に照らされながら、僕は何度も首を傾げた。手ブレのはずはない。設定も完璧だった。まるで、被写体そのものがピントを合わせることを拒んでいるかのようだった。
「未来の写真、まだ見せてくれないのか」
僕は陽菜に尋ねた。僕を撮った、あの屋上での一枚。
「だーめ。未来なんだから、そんなにすぐに見えちゃったらつまらないでしょ」
彼女はいつもそう言って、はぐらかすのだった。ピンボケの写真と、見ることのできない未来の写真。陽菜を巡る謎は深まるばかりで、僕の心は焦燥感と、今まで感じたことのない種類の好奇心で満たされていった。僕はもっと彼女を知りたかった。ファインダー越しではなく、この手で触れられるほどの距離で。
第三章 嘘つきの時間旅行者
文化祭が二週間後に迫っていた。写真部の展示に向けて、誰もが作品の選定に追われていた。僕は、陽菜を撮ったピンボケの写真たちを前に、途方に暮れていた。それでも、諦めたくはなかった。完璧な一枚を撮って、彼女を驚かせたい。僕の世界は、もはや彼女なしでは考えられなくなっていた。
その日の放課後、僕は足りなくなった印画紙を買いに、学校近くの大型文具店に向かっていた。近道になる病院の脇の道を通った時、見慣れた姿が目に入った。陽菜だった。彼女は病院の正面玄関から、ふらつくような足取りで出てきた。いつも快活な彼女とは別人のように顔色が悪く、その横顔には深い疲労が刻まれていた。
僕の心臓が、嫌な音を立てて軋んだ。見間違いだと思いたかった。だが、彼女はゆっくりとこちらに顔を向け、僕の存在に気づくと、凍りついたように立ち尽くした。
近くの公園のベンチで、僕たちは無言で向かい合っていた。夕暮れの光が、彼女の顔から血の気を奪っていくように見えた。
「……見てたんだ」
陽菜が、か細い声で呟いた。僕は頷くことしかできない。
長い沈黙の後、彼女はぽつりぽつりと話し始めた。自分は重い病気を患っていること。治療法はなく、残された時間は限られていること。そして、あのカメラの本当の秘密を。
「未来を撮るなんて、嘘。あのカメラはね、過去を写すの」
彼女の言葉が、僕の頭を鈍器で殴ったようだった。
「病気のせいで、だんだん記憶が曖昧になっていくの。楽しかったことも、嬉しかったことも、まるで夢みたいに霞んで消えていく。それが怖くて……。だから、忘れたくない大切な瞬間を、写真に撮って残してる。私がいたっていう証拠を、一枚でも多く」
未来を撮る、一番輝く瞬間。それはすべて、僕を励ますための、彼女がついた優しい嘘だったのだ。
「じゃあ、僕の未来を撮ったっていうのは……」
「あれは、私の『願い』。湊くんには、未来を諦めてほしくなかったから。ファインダーの後ろに隠れてないで、ちゃんと前を向いてほしかったから。だから、湊くんが未来で笑っている姿を、私が忘れないように、撮らせてもらったの」
では、なぜ彼女自身の写真はピンボケになるのか。その疑問が口から出る前に、答えに気づいてしまった。病気の進行で、彼女自身の記憶、つまり彼女が写そうとしていた「過去」そのものが、曖昧にぼやけ始めていたのだ。
世界が反転するような衝撃だった。僕が逃げていた「今」というこの瞬間が、彼女にとっては喉から手が出るほど欲しい、かけがえのない宝物だった。僕がファインダー越しに世界を拒絶している間に、彼女は薄れゆく記憶と必死に戦いながら、今を焼き付けようとしていた。
僕は、自分のあまりの身勝手さと愚かさに、涙が止まらなくなった。
第四章 今、この瞬間を
文化祭当日。写真部の展示スペースの壁に、僕はたった一枚だけ写真を飾った。
それは、病院で真実を知った翌日に撮った、陽菜の写真だった。構図も光も完璧ではなかった。けれど、その写真の中の陽菜は、ほんの少しだけ、ピントが合っていた。はにかむような、泣き出しそうな、それでいて全てを受け入れたような、複雑な微笑みを浮かべて。
写真の横には、小さなプレートを置いた。
タイトル、『今』。
展示の喧騒を後にして、僕は陽菜のいる病院へ向かった。病室の窓からは、文化祭の賑わいが遠くに聞こえる。ベッドに座っていた陽菜は、僕が差し出した写真を見て、驚いたように目を見開いた。
「……すごい。ピント、合ってる」
彼女は指先でそっと写真の表面をなぞり、その瞳から大粒の涙がぽろぽろとこぼれ落ちた。
「ありがとう、湊くん。私の『今』を、ちゃんと写してくれて」
その言葉が、何よりの賞賛だった。
陽菜は、ベッドサイドの引き出しから一枚の写真を僕に手渡した。屋上で撮られた、「僕の未来」の写真だった。
そこに写っていたのは、見知らぬ誰かに囲まれ、カメラを首から提げながらも、ファインダーは覗かずに、自分の目で見て、屈託なく笑っている僕の姿だった。それは、陽菜が願ってくれた僕の未来の姿。僕がこれから目指すべき、道標だった。
季節は巡り、やがて陽菜はいなくなった。まるで、ひと夏の幻だったかのように。
僕の日常から彼女の姿は消えたけれど、僕の世界は変わった。もう、ファインダーの後ろには隠れない。陽菜が教えてくれた「今」を、この一瞬一瞬を、大切に生きるために。
今日も僕は、カメラを手に街へ出る。シャッターを切る前に、まず自分の目で世界を見る。柔らかな光、風の匂い、人々の笑い声。そのすべてを五感で受け止める。
僕の心の中のアルバムには、色褪せることのない一枚の写真が焼き付いている。夏空の下で笑う、嘘つきな時間旅行者の笑顔と、彼女が写してくれた僕の未来。
ファインダーを覗くと、世界は今も美しく切り取られる。でも、本当に美しいのは、その四角いフレームの外に広がる、不確かで、愛おしい、この現実の時間なのだと、僕はもう知っている。