第一章 燃えない言葉
和人(カズト)の日常は、灰とインクの匂いに満ちていた。
国の命令により設置された「文化統制局」の焼却炉担当官。それが、文学を愛した彼の現在の肩書だった。コンクリートの壁に囲まれた薄暗い焼却室で、彼は毎日、山と積まれた「敵性語」の書物を炎に投じていた。分厚い哲学書も、軽薄な恋愛小説も、子供向けの絵本も、等しく炎に呑まれ、黒い煙となって空に消えていく。
革表紙が熱で縮れ、ページが内側から赤く燃え上がる様を、和人は感情を殺して見つめていた。かつては一文字一文字に心を震わせたその「言葉」たちが、今はただの燃料に過ぎない。戦争は、物語の意味さえも焼き尽くしてしまうのだ。無力感が鉛のように身体にまとわりつき、彼の若さを蝕んでいた。
その日も、彼は台車に山積みにされた本を、無心で炉に放り込んでいた。その時、一冊の本が彼の足元に滑り落ちた。拾い上げると、それは鮮やかな夜空色の装丁が施された、大判の絵本だった。英語で『The Star Chaser(星を追う者)』と金文字が箔押しされている。敵国の言葉で書かれたそれは、間違いなく焼却対象だった。
いつもなら、躊躇なく炎に投じるはずだった。しかし、その絵本には奇妙な引力があった。まるで、掌で生きているかのように微かな温もりを感じる。鬼気迫る上官の監視の目もない。和人は一瞬の衝動に駆られ、作業着の懐にその絵本を滑り込ませた。心臓が早鐘を打ち、冷たい汗が背筋を伝う。たった一冊の本。しかし、この行為が発覚すれば、彼の命運もこの炉の灰と同じになるだろう。
その夜、自室の粗末なベッドの上で、和人は盗んだ絵本を恐る恐る開いた。インクの匂いがふわりと香り、彼の心を遠い記憶へと誘う。物語は、自分の失くした一番星を探して旅をする、小さな王子の話だった。緻密で優しいタッチの挿絵が、ページをめくるごとに王子の冒険を彩っていく。和人はしばし、灰色の現実を忘れて物語の世界に没頭した。
そして、最後のページ。王子が満天の星空の下で、ひときわ輝く星を見つける場面。その美しい挿絵の余白に、見慣れた日本語が、震えるようなインクの文字で書きつけられていた。
『私の心臓を、見つけて』
その言葉は、唐突で、不可解で、そしてあまりにも切実だった。和人は息を呑んだ。これは一体、誰が、何のために? これは単なる落書きではない。物語の優しい世界観とは不釣り合いな、悲痛な叫び声のように、彼の胸に突き刺さった。この日から、和人の灰色の日常に、一つの謎という名の星が灯った。それは、彼自身の運命をも焼き尽くしかねない、危うい光だった。
第二章 ささやく挿絵
『私の心臓を見つけて』――その言葉は、和人の頭の中で何度も反響した。彼は毎晩、その絵本を繰り返し読んだ。王子の旅路、出会う奇妙な生き物たち、そして背景に描かれた風景。そのすべてに、何か暗号が隠されているのではないか。彼は、挿絵に描かれた星の配置を書き写し、文章の頭文字を拾い、あらゆる可能性を試した。しかし、謎は深まるばかりだった。
日中の焼却作業は、以前にも増して苦痛なものになった。今、彼の目の前で灰になっていく本たちは、もはや単なる紙の束ではなかった。その一冊一冊に、『星を追う者』と同じように、誰かの声が、誰かの心が宿っているのかもしれない。そう思うと、シャベルを持つ手が震えた。
「最近、どうした。顔色が悪いぞ」
同僚の男が、訝しげに和人を見た。彼は慌てて首を振り、作業に集中するふりをした。疑いの目は、そこかしこにあった。この時代、他人への過剰な興味は、密告と背中合わせだ。絵本の存在は、誰にも悟られてはならない。
和人は手がかりを求め、休日に街の古書店街を彷徨った。もちろん、ほとんどの店は閉鎖され、ショーウィンドウには埃が積もっている。それでも、何軒かの店主は、店の奥でひっそりと営業を続けていた。
「『星を追う者』?……ああ、確か『リトルスター書房』という小さな出版社が出していたものだ」
埃っぽい帳簿をめくりながら、年老いた店主が教えてくれた。リトルスター書房は、主に海外の児童書を翻訳・出版していたが、開戦を機に「非国民」と糾弾され、廃業に追い込まれたという。
「作者は、たしか……ミヤザワ・サキという女性だったかな。挿絵も自分で描く、才能のある人だったが……。今、どうしていることやら」
店主はそれだけ言うと、寂しそうに口を閉ざした。
ミヤザワ・サキ。和人はその名前を心に刻んだ。彼女が、あのメッセージの主なのか? 彼はわずかな希望を胸に、閉鎖されたリトルスター書房の跡地を訪ねた。そこは既に更地になり、冷たい風が吹き抜けるだけだった。戦争は、物語だけでなく、物語を生み出す場所さえも無に帰してしまう。
諦めかけたその夜、和人は再び絵本を手に取った。何度見ても変わらない挿絵。だが、その時、彼はふと気づいた。物語の中で、王子は常に何かを探すように、地面や足元を見つめている。しかし、最後のページだけは、空を見上げている。そして、その王子の視線の先にある一番星だけが、他の星とは違う、わずかに盛り上がったインクで描かれているように見えた。
まさか。和人は指先でそっとその星に触れた。硬い。インクではない。彼は震える手で、カミソリの刃を慎重に絵本の裏表紙に差し込んだ。分厚いボール紙が、ゆっくりと剥がれていく。彼の心臓は、まるで警鐘のように激しく鳴り響いていた。
第三章 絵本の心臓
ボール紙が完全に剥がれると、そこには本の内容とは全く関係のない、空洞がくり抜かれていた。そして、その空洞に鎮座していたのは、和人の想像を絶する「もの」だった。
それは、蝋のようなもので丁寧にコーティングされ、乾燥した植物の葉に包まれた、小さな塊だった。赤黒く変色しているが、その形は紛れもなく――人間の心臓だった。子供の掌に収まるほどの、小さな、小さな心臓。
和人は息を呑み、後ずさった。眩暈がして、床に手をつく。これは何だ。悪趣味な悪戯か? それとも、呪いか? 恐怖で全身が凍りつく中、彼は心臓が収められていた空洞の底に、折り畳まれた一枚の便箋が残されているのに気づいた。
彼は震える指でそれを取り出し、開いた。そこには、絵本の余白と同じ、繊細で美しい文字が綴られていた。
『この手紙を読む方へ。
どうか、驚かないでください。そして、もし許されるなら、私の最後の願いを聞いてください。
私は、ミヤザワ・サキ。この絵本の作者です。
戦争が始まる前、私は一人の異国の男性を愛しました。彼は私の国の言葉を学び、私は彼の国の物語を愛しました。私たちは、互いの違いを愛し、小さな命を授かりました。その子が、私の『星を追う者』、私の王子でした。
しかし、戦争がすべてを奪いました。彼は敵国の兵士となり、私と息子を残して戦地へ赴き、二度と戻りませんでした。残された私は、スパイの嫌疑をかけられ、日夜監視されるようになりました。
そんな中、私の王子は……生まれつき心臓が弱く、星の光も届かないような暗い部屋で、私の腕の中で静かに旅立っていきました。彼は、たった三つの星しか見ることができませんでした。
絶望の中、私にできたのは、この絵本を描くことだけでした。天国へ旅立った私の王子が、道に迷わぬように。彼が探していた一番星を、見つけられるように。
そして、この子の心臓です。この小さな心臓だけは、炎で焼かれたくなかった。憎しみの中で消されたくなかった。この子がこの世界に生きていた証を、誰かに記憶していてほしかったのです。
『私の心臓を、見つけて』――それは、私の心であり、私の命そのものである、この子の心臓を見つけてほしいという、母親の身勝手な願いです。
もし、あなたがこの子の存在を憐れんでくださるなら、どうか、この心臓を星のよく見える場所に埋めてはいただけないでしょうか。それこそが、私の王子が見つけたかった、一番星なのです。
もうすぐ、当局の者が私を連れに来るでしょう。けれど、私はもう怖くありません。私の物語は、私の心臓は、あなたに託したのですから。』
手紙を読み終えた和人の頬を、熱い涙が伝っていた。彼が抱えていた謎は、恐ろしいほどの悲しみと、あまりにも深い愛の物語だった。彼が焼こうとしていたのは、敵性書物などではなかった。それは、戦争によって引き裂かれた母子の、魂そのものだったのだ。無力感に苛まれていた彼の心は、今、まったく違う種類の重みで満たされていた。それは、一つの命を託されたという、聖なる重みだった。
第四章 星降る丘の墓標
その夜、和人は決意した。彼はもう、灰色の傍観者ではいられない。
深夜、彼は絵本と、布に丁寧に包んだ小さな心臓を懐にしまい、寮を抜け出した。街は灯火管制で漆黒の闇に沈み、時折、遠くで響く高射砲の音が不気味に空気を震わせる。彼は、誰にも見つからないよう、息を潜めて裏道を急いだ。
目指すのは、街外れにある小高い丘だ。子供の頃、父に連れられて星を見に来た場所。そこなら空襲の被害も少なく、何よりも、星がよく見える。ミヤザワ・サキが息子に見せてやりたかったであろう、満天の星空がそこにはあるはずだ。
丘の頂に着くと、冷たい夜気が肌を刺した。しかし、頭上には、手の届きそうなほど無数の星がまたたいていた。まるで、天の川がこぼれ落ちてくるかのようだ。和人は、ここだ、と思った。
彼は持参した小さなシャベルで、地面を掘り始めた。硬い土を掘り返すたびに、自分の心臓の鼓動が聞こえる。これは罪を隠すための行為ではない。これは、一つの魂を弔うための、神聖な儀式なのだ。
十分に穴を掘ると、彼はまず、絵本『星を追う者』をそっと置いた。そして、その上に、小さな心臓を安置した。まるで、王子が母親の物語に抱かれて眠るように。
「君のお母さんは、君をとても愛していた。君は、決して忘れられたりしない」
和人は、声にならない声で呟いた。それは、名も知らぬ王子へ向けた言葉であり、自分自身への誓いでもあった。
彼はゆっくりと土を被せ、小さな墓標を作った。目印は何もない。ただ、彼だけが知っている場所。彼は焼却炉の番人であることをやめ、一つの物語の、たった一人の墓守になることを選んだのだ。
すべてを終え、和人は丘の上に座り込んだ。空を見上げると、一つの星がひときわ強く輝いているように見えた。あれが、王子が見つけたかった一番星なのだろうか。
戦争は、多くのものを奪う。命を、日常を、そして物語さえも灰にする。しかし、それでも。誰かが誰かを愛した記憶は、その愛から生まれた物語は、こんなにも強く、人の心を動かす。たとえ世界が憎しみに覆われても、この小さな丘の上には、確かに愛の証が眠っている。
いつか戦争が終わり、平和が訪れたなら、またこの丘に来よう。そして、誰かに話そう。星を探し続けた小さな王子と、その子のために命を懸けた母親の物語を。この星空の下で、自分がどうやって「心臓」を見つけたのかを。
和人は、ただ静かに星空を見上げていた。彼の心には、悲しみと、切なさと、そして、暗闇の中に確かな光を見出したような、静かな誇りが満ちていた。物語は終わらない。語り継ぐ者がいる限り、決して。
fin.