サイレント・コスト

サイレント・コスト

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第一章 完璧なアルゴリズムと一通の手紙

高坂健人(こうさか けんと)の世界は、コードと数字でできていた。大手IT企業「ネクスト・コア」の若きエースエンジニアである彼は、自らが構築した物流最適化システム『プロメテウス』の成功に酔いしれていた。それは、AIがあらゆるデータを瞬時に解析し、配送ルートから倉庫内の人員配置まで、一分の隙もなく最適化する完璧なシステム。メディアはそれを「物流革命」と称賛し、健人の名は業界に轟いた。モニターに表示されるグラフは、右肩上がりの効率化とコスト削減を示している。その数字こそが、彼にとっての正義であり、世界の進歩そのものだった。

ある雨の日の午後、会社のデスクに、一通の素っ気ない茶封筒が置かれているのに気づいた。差出人の名はない。訝しみながら封を切ると、中から現れたのは一枚の便箋と、古びた配送伝票の切れ端だった。便箋には、インクの滲む万年筆で、震えるような、しかし力強い筆跡でこう書かれていた。

『あなたの『効率』が、人の時間を奪っている』

心臓が、冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。ただの嫌がらせか、あるいは時代についていけない人間の妬みか。健人はそう結論づけようとしたが、なぜかその文字列が脳裏に焼き付いて離れなかった。配送伝票の切れ端には、掠れた文字で「ありがとう」と走り書きがある。それは、彼のシステムが「非効率」として切り捨てたはずのアナログな感謝の痕跡だった。

その数日後、健人はネットの片隅で小さな記事を見つける。プロメテウスが導入された同社の巨大配送センターで、ベテラン配送員が過労により倒れた、というものだった。記事はすぐに削除されたが、健人の心に刺さった棘は、さらに深く食い込んでいく。完璧なはずのシステムが生み出した、グラフには決して現れないノイズ。その時、健人はまだ、自分が築き上げた完璧な世界の土台が、どれほど脆いものの上に成り立っているのかを知る由もなかった。

第二章 画面の向こう側の顔

あの手紙が、呪いのように健人を蝕んでいた。彼は仕事に集中しようとすればするほど、モニターに並ぶ数字の羅列の向こう側に、名もなき誰かの疲弊した顔がちらつくようになった。いてもたってもいられなくなった健人は、有給休暇を取り、問題の配送センターがある郊外の街へと向かった。エンジニアとしてではなく、ただの一個人として、自分の目で確かめたかったのだ。

巨大な倉庫は、まるで生命を拒絶するかのような無機質な箱だった。その近くにある古びた定食屋の暖簾をくぐると、作業着姿の男たちが、黙々と昼食をかき込んでいる。その空気は、健人がいつもいる洗練されたオフィスのそれとはまるで違っていた。湿った油の匂い、くたびれた男たちの汗の匂い、そしてテレビから流れる気怠いワイドショーの音声。

健人はカウンターの隅に座り、壁のメニューを眺めるふりをしながら、彼らの会話に耳を澄ませた。「また一人辞めたらしい」「AI様には逆らえねえ」「休憩時間も一秒単位で管理されちゃ、たまったもんじゃない」。そこには、健人が誇りに思っていた「効率化」に対する、剥き出しの怨嗟が渦巻いていた。

意を決して、隣に座っていた中年の男に話しかけた。先日倒れたという配送員のことを尋ねると、男は怪訝な顔をしながらも、ぽつりぽつりと語り始めた。「ああ、田所さんのことか。あの人はすごかった。この辺の地理は全部頭に入ってて、客の家族構成まで覚えてた。システムが『非効率』だなんて言うけど、田所さんが届けると、みんな喜んでたんだ」。

その週末、健人はさらに一歩踏み出し、田所の自宅を訪ねた。インターホンを押すと、目の周りを腫らした、二十歳くらいの女性が出てきた。娘の美咲だった。健人は身分を偽り、父の元同僚だと告げた。彼女は健人を家の中に招き入れ、父の思い出を語り始めた。

「父は、この仕事を誇りに思っていました。『俺たちは、ただの運び屋じゃない。人と人との繋がりを運んでるんだ』って。でも、新しいシステムが入ってから、父は変わってしまいました。いつも時間に追われ、口癖は『申し訳ない』ばかり。父が大切にしていた『繋がり』は、全部『無駄』として切り捨てられたんです」。

美咲が差し出したアルバムには、笑顔で荷物を受け取る人々と、誇らしげに立つ田所の姿があった。その写真の一枚に、健人は見覚えのあるものを発見する。田所が持っている伝票の隅に、小さな文字で「ありがとう」と書かれていた。あの日、健人の元に届いた伝票の切れ端と同じものだった。自分の生み出したシステムが、一人の人間の誇りと、ささやかな幸せを奪い去った。その事実が、冷たい現実として健人の胸に突き刺さった。罪悪感が、彼の内側から静かに、しかし確実に世界の色を塗り替えていく。

第三章 剥がされた設計図

手紙の差出人を探し出すことだけが、今の健人にできる唯一の贖罪に思えた。万年筆のインク、古い便箋、そして田所さんの伝票。手掛かりは乏しかったが、彼は執念で調査を続けた。会社のOB名簿を洗い、過去のプロジェクト資料を漁るうちに、一人の人物にたどり着く。佐伯四郎。ネクスト・コアの創業メンバーの一人で、黎明期の物流システムをたった一人で作り上げた伝説のエンジニア。しかし、彼は会社の急進的な経営方針に異を唱え、十年前に隠居同然に会社を去っていた。

健人は、佐伯が暮らすという鎌倉の古い日本家屋を訪ねた。静かな庭を抜けると、縁側で独り、本を読んでいた老人が顔を上げた。穏やかだが、すべてを見透かすような鋭い瞳。佐伯四郎その人だった。

「君が、高坂健人君か。来ると思っていたよ」

佐伯の声は、枯れていたが芯があった。彼が手紙の差出人だと確信した健人は、自分が目にしてきた現実、田所さんのこと、現場の労働者たちの苦しみを堰を切ったように語った。そして、自分の作ったシステムが招いた悲劇を詫びた。

すべてを聞き終えた佐伯は、静かに首を横に振った。そして、書斎の奥から一枚の青焼きの設計図を取り出してきた。それは、健人が手掛けた『プロメテウス』の原型ともいえる、古いアルゴリズムの設計図だった。

「君は悪くない。むしろ、君も被害者だ」

佐伯は衝撃的な事実を語り始めた。健人が「ゼロから作り上げた」と信じていたプロメテウスの核心部分は、もともと佐伯が設計したアルゴリズムがベースになっていた。佐伯のアルゴリズムには、意図的に『バッファ』と呼ばれるものが組み込まれていたという。それは、効率だけでは測れない人間のための「遊び」や「余裕」の時間だった。渋滞や天候の急変、あるいは配送員と顧客との短い会話の時間。そういった予測不能な揺らぎを許容する、人間的なシステム。

「しかし会社は、私の思想を時代遅れだと切り捨てた。そして、私の設計図から『バッファ』を抜き取り、効率を極限まで高めることだけを目的としたシステムに作り替えた。それが『プロメテウス』の正体だ。会社は、その非人道的な搾取の仕組みを、君という若き天才の手柄として飾り立てた。君は、彼らの作った物語の、都合の良い主人公にされていただけなんだよ」

健人は愕然とした。自分の功績も、プライドも、信じてきた正義も、すべてが会社によって仕組まれた虚構だった。自分はただ、巨大な搾取システムの顔として利用されていただけだった。画面の向こう側の顔だけでなく、画面のこちら側にいる自分自身もまた、見えない鎖に繋がれていたのだ。頭を殴られたような衝撃に、立っていることさえままならなかった。降りしきる雨のように、彼の価値観が音を立てて崩れ落ちていった。

第四章 万年筆が描く未来

一週間後、健人はネクスト・コアに辞表を提出した。引き留める上司に、彼は何も語らなかった。告発も、暴露もしなかった。巨大な組織を前に、一個人の声がいかに無力であるかを、彼は佐伯との対話で痛いほど理解していたからだ。それは敗北ではない。搾取のサイクルから自ら降りるという、ささやかで、しかし決定的な抵抗だった。

退職した日、健人は再び佐伯の家を訪れた。縁側で二人、黙って茶を啜る。沈黙を破ったのは佐伯だった。

「これからどうするんだね」

「まだ、分かりません。でも…」

健人は鞄から、使い古されたノートと一本の万年筆を取り出した。それは、佐伯があの手紙で使っていたものと同じ、古いモデルだった。

「でも、もう数字だけを信じるのはやめます。僕は、僕が作ったシステムで苦しんだ人たちの顔を、忘れることはできませんから」

その言葉に、佐伯は満足そうに頷いた。そして、自分の万年筆を健人に差し出した。「君に託そう。私の果たせなかった夢を、君なりのやり方で描いてみてくれ」。

数ヶ月後。健人は小さなアパートの一室で、新しい挑戦を始めていた。それは、営利を目的としない、オープンソースのプロジェクト。AIによる効率化と、現場で働く人間の尊厳をいかに両立させるか。そのための、全く新しい設計思想を模索し、提唱する活動だった。佐伯から譲り受けた万年筆で、健人はノートに数式やフローチャートを書き込んでいく。そのインクの滲みは、彼がかつて切り捨てた「非効率」で「人間的」な温もりを帯びているようだった。

社会はすぐには変わらないだろう。彼の試みは、巨大な資本主義の奔流の中の、小さな泡のようなものかもしれない。前途は多難で、成功の保証などどこにもない。

それでも、健人は書くことをやめなかった。窓から差し込む夕陽が、彼の横顔を照らす。その表情には、かつてのエリート然とした自信とは違う、迷いを振り切った静かな決意が満ちていた。

彼の万年筆が描く一本の線は、どこへ繋がっていくのだろうか。それは、誰にも分からない。しかし、その線は確かに、数字だけでは測れない誰かの時間と、未来に向かって、静かに伸びていた。物語は、まだ始まったばかりなのだ。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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