第一章 謎の依頼人
江戸の片隅、神田の裏通りに、若き浮世絵師・龍之介は仕事場を構えていた。その腕は確かで、彼が描く美人画は、肌の艶から衣のひだに至るまで、まるで命が宿っているかのようだと評判だった。しかし、龍之介の心は、彼が描く華やかな絵とは裏腹に、乾ききった荒野のようだった。三年前、唯一彼の才能を信じ、絵師の道を拓いてくれた師匠が、謂れなき罪で非業の死を遂げて以来、彼は世の理不尽さに絶望し、ただ金のために筆を執るだけの男になっていた。
その日、梅雨の晴れ間の蒸し暑い午後だった。龍之介の仕事場に、一人の女が音もなく現れた。年は二十代半ばだろうか。藍染の質素な着物を纏い、派手な簪一つないその姿は、むしろ彼女の透き通るような白い肌と、憂いを帯びた涼やかな目元を際立たせていた。
「絵師の龍之介殿で、いらっしゃいますか」
鈴を転がすような、しかしどこか芯の強さを感じさせる声だった。女は小夜と名乗った。
「亡き人を、描いていただきたく参りました」
肖像画の依頼は珍しくない。龍之介は感情のこもらぬ声で応じた。
「お慰みになりますかな。元になる下絵か、あるいは面影をよくご存知の方がいれば、描けぬこともないが」
すると小夜は、懐から丁寧に畳まれた奉書紙を取り出し、龍之介の前にそっと置いた。龍之介が訝しげにそれを開くと、そこにはただ、まばゆいばかりの白があるだけだった。墨の跡一つ、皺一つない、完全な白紙。
「……からかっているのか」
龍之介の声に、刺が混じる。小夜は静かに首を横に振った。
「いいえ。この紙に、あの方の面影が残っております。あの方の息遣い、眼差し、そして無念の想い……そのすべてが。貴方様ほどの絵師であれば、きっとこの白き紙から、そのお姿を掬い上げてくださると信じております」
正気の沙汰とは思えなかった。だが、小夜が差し出した包みの中には、龍之介が一年かかっても稼げぬほどの分厚い小判が入っていた。金に目が眩んだわけではない。だが、この女の狂気じみた真剣さと、その瞳の奥に揺らめく深い悲しみに、龍之介は得体の知れない引力を感じていた。
「……引き受けよう。ただし、描けぬかもしれんぞ」
「いいえ、貴方様なら」
小夜は深く一礼し、風のように去っていった。残されたのは、不気味なほどの白紙と、部屋に満ちる白檀の香り。龍之介は、己が奇妙で、そして抗いがたい運命の渦に足を踏み入れてしまったことを、まだ知らなかった。
第二章 夢の中の侍
白紙を前に、龍之介は何日も筆を執れずにいた。ただの気まぐれな女の戯言だと切り捨てようとしても、あの小夜の瞳が脳裏に焼き付いて離れない。苛立ち紛れに酒を煽って眠りについた夜、彼は奇妙な夢を見た。
霧深い竹林の中に、一人の侍が立っていた。歳は三十路手前。着流し姿だが、その立ち姿には一点の隙もない。顔立ちは穏やかだが、その双眸には曇りのない理知の光が宿っていた。侍は誰に言うでもなく、静かに呟いた。
「義とは、力で示すものではない。心の在り様そのものだ」
その声は、なぜか龍之介の心の奥深くに沁み渡った。
次の夜も、また侍は夢に現れた。今度は縁側で、幼子に手習いを教えている。その眼差しは慈愛に満ち、優しい笑みは陽だまりのようだった。龍之介は、自分がなぜこの名も知らぬ侍の夢を見るのか分からなかった。だが、あの白紙の依頼を受けてから始まったのは確かだった。
まさか。龍之介は有り得ない考えに囚われた。小夜の言う「面影」とは、この夢のことなのか。馬鹿げている。そう思いながらも、彼の指は自然と筆を握っていた。夢の中の侍の面影を、無心で紙に写し取っていく。柳眉、通った鼻筋、固く結ばれながらも優しさを隠しきれない唇。描けば描くほど、侍の息遣いや体温までが、筆を通して伝わってくるような錯覚に陥った。金のためでも、義理のためでもない。ただ、この男を描き上げたい。忘れかけていた絵師としての純粋な衝動が、龍之介の心を突き動かしていた。
夢は次第に鮮明になり、断片的な情景が物語のように繋がり始めた。侍が同輩と剣の稽古に汗を流す姿。藩の行く末を憂い、真剣に議論する姿。そしてある夜、夢は凄惨な光景を映し出した。侍は血に濡れ、白装束で座している。彼の前には、介錯人が静かに刀を構えていた。侍は、ひとかけらの恐怖も見せず、ただ一点、天を見つめていた。その目に浮かぶのは、諦めではない。己の信じた義を貫けなかった、深い、深い無念の色だった。
龍之介は、汗びっしょりになって飛び起きた。心臓が激しく鼓動している。あれはただの夢ではない。一人の人間の、紛れもない最期の記憶だ。
「……あんたは、一体誰なんだ」
紙の上に描かれた侍は、ただ静かに龍之介を見つめ返しているだけだった。師匠が死んで以来、初めて彼の心に義侠心という名の炎が灯った。この男の無念を、このままにはしておけない。龍之介は、この侍の正体を突き止めることを固く決意した。
第三章 墨色の真実
龍之介は絵筆を置き、市井の噂をたどることにした。夢で見た断片的な情報――藩邸の紋、同輩の顔、そして切腹という非業の死。それらを頼りに聞き込みを続けるうち、やがて一つの名前にたどり着く。
橘右京(たちばな うきょう)。
一年前に、藩の重役殺しの大罪で切腹を命じられた武士の名だった。清廉潔白で人望も厚かったが、犯行を裏付ける「動かぬ証拠」が見つかり、罪人として死んだという。その人物像は、龍之介が夢で見た侍の姿と寸分違わず重なった。
「動かぬ証拠、か……」
龍之介はさらに深く探った。そして、たどり着いた事実に、彼は我が目を疑った。右京を罪に陥れた決定的な証拠とは、犯行時刻に右京が現場にいたことを示す、一枚の似顔絵だったというのだ。その似顔絵を描いたのは、藩お抱えの絵師。その名は――龍之介の師匠であった。
全身の血が逆流するような衝撃。師匠は、藩の不正を告発しようとして、口封じのために殺されたのだと、龍之介はずっと信じてきた。その事実は揺るがない。だが、その死の直前、師匠は藩命によって、無実の人間を罪に陥れる片棒を担がされていたのだ。師の無念と、右京の無念が、龍之介の中で黒い渦を巻いた。自分の信じていた物語が、根底から覆される。
愕然とする龍之介の元に、再び小夜が訪れた。龍之介は、震える声で問いただした。
「あんたは、橘右京の何なんだ。妹か? 許嫁か?」
小夜は悲しげに微笑み、静かに真実を語り始めた。
「私は、橘様を斬った介錯人……間宮隼人(まみや はやと)の、妻にございます」
言葉を失う龍之介に、小夜は続けた。彼女の夫・間宮は、右京の無実を誰よりも信じていた親友だった。しかし、藩命には逆らえず、涙を呑んで介錯人を務めた。その日から間宮は心を病み、今や死の床に就いているという。
「夫は、毎夜うなされております。橘様の無念を晴らせなかった己を責め、その誠実なお人柄が、罪人として忘れ去られることを嘆いて……。私は、せめて夫が逝く前に、あの方の真の姿を形にしてお見せしたかったのです」
では、あの白紙は何だったのか。龍之介の問いに、小夜は答えた。
「あれは、夫の心そのもの。夫が語ってくれた橘様の思い出、無念、そして友への詫びの気持ち……言葉にならぬすべてを、あの白紙に託しました。人の心の奥底にある真実を描き出せるという、龍之介様の師君の教えを受け継いだ貴方様なら、きっとその声なき声を聴いてくださると」
すべてが繋がった。師匠の無念、右京の無念、そして親友を斬らねばならなかった間宮の苦悩と、それを支える小夜の愛。龍之介は、巨大な運命の絡繰りの中心に自分が立たされていることを悟った。彼は利用されたのかもしれない。だが、それ以上に、人の想いの深さと、その重さに打ちのめされていた。
第四章 残影の先へ
龍之介は仕事場に戻り、一睡もせず筆を執った。もはや金のためではない。師のためでも、己の義侠心のためでもない。声なき者たちの魂を、この一枚の絵に宿すために。
彼の筆は、迷いなく紙の上を走った。描くのは、罪人の汚名を着せられた侍ではない。切腹を前にした悲壮な武士でもない。彼が描いたのは、縁側で幼子に手習いを教え、陽だまりのように優しく微笑む、一人の人間としての橘右京の姿だった。墨の一滴一滴に、小夜から聞いた右京の人柄、間宮の悔恨、そして師匠が描きたくても描けなかったであろう「真実」を込めた。
夜が明け、朝日が仕事場に差し込む頃、絵は完成した。そこに描かれた右京は、まるで生きているかのように穏やかな光を放っていた。それは、見る者の心を温かく包み込むような、魂の肖像画だった。
龍之介は、完成した絵を間宮の屋敷に届けた。絵を目の前にした小夜は、ただ静かに涙を流した。そして、病床の間宮の枕元にその絵を置いた。薄く目を開けた間宮は、絵の中の親友と視線を合わせると、苦悶に歪んでいたその顔に、ふっと穏やかな笑みが浮かんだ。まるで長年の重荷を下ろしたかのように安らかな表情で、彼は静かに息を引き取った。
藩の闇が暴かれることはないだろう。橘右京の名誉が、公に回復されることもない。しかし、龍之介は知っていた。この一枚の絵が、確かに三つの魂を救ったのだと。無念に散った友の魂を、苦悩に苛まれた介錯人の魂を、そして、乾ききっていた絵師自身の魂を。
数日後、龍之介は仕事場の画材を片付けていた。あの美人画を描いていた頃の、虚しい自分に別れを告げるために。彼は縁側に座り、新しい画仙紙を広げた。その顔には、もう迷いも絶望もない。ただ、雨上がりの空のように澄み切った、穏やかな微笑みが浮かんでいた。
彼の筆が、再び紙の上を滑り始める。これから描くのは、大名でもなければ、遊女でもない。名もなき市井の人々の、汗や涙、そしてささやかな喜びの中に宿る、ありのままの真実の姿。
残された影を追う絵師は、もういない。龍之介は今、光差す未来へと続く、新たな一枚を描き始めていた。その筆先には、確かな魂の温もりが宿っていた。