色彩のレガート
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色彩のレガート

第一章 藍と橙のフーガ

私の世界は、音に色がついていた。特に、親しい人々の声は、まるでオーケストラのように鮮やかな色彩を伴って鼓膜を揺らす。幼馴染の湊(みなと)の声は、深く澄んだ藍色。静かな湖の底を思わせるその色は、私の心をいつも穏やかにしてくれた。クラスメイトの陽気な笑い声は、太陽をたっぷり浴びた蜜柑のような橙色に弾ける。私のこのささやかな秘密を知っているのは、湊だけだった。

「今日のユイの声は、きれいな若草色だな」

放課後の誰もいない音楽室。ピアノの前に座る湊が、鍵盤に指を滑らせながら言った。彼の紡ぐ音色は、声と同じく静謐な藍色をしていた。

「湊こそ。今日のピアノ、いつもより青が深いよ」

私はスケッチブックを広げた。そこには、私が聞き取った声の色をクレヨンで描き留めた、二人だけの秘密の記録が詰まっている。ページをめくると、藍色と若草色が絡み合い、橙色が飛び跳ねる、私たちの友情の歴史がそこにあった。

この世界では、誰もが十八歳になると、生涯で最も強く感じた一つの感情が、タトゥーとなって全身に浮かび上がる。愛、憎悪、歓喜、絶望。その刻印はその人の本質を定め、未来を決定づけると言われている。そして、タトゥーが現れるその瞬間、私のような思春期特有の微細な知覚は、永遠に失われるのだ。湊の十八歳の誕生日まで、あと一ヶ月。彼の体には、どんな感情が刻まれるのだろう。私は、彼の藍色が刻む未来を、少しの寂しさと共に見つめていた。

第二章 ひび割れたパレット

異変は、静かに始まった。

湊の声から、あの深く澄んだ藍色が、少しずつ褪せていくのに気づいたのだ。それはまるで、上質な絵の具に灰色の水を一滴ずつ垂らしていくような、緩やかで、しかし確実な変化だった。

「湊、最近疲れてる?」

ある日の帰り道、私は思い切って尋ねた。彼の声は、くすんだ空色になっていた。私の問いかけに、彼は一瞬だけ足を止め、すぐに曖昧な笑みを浮かべた。

「そうかな。別に、いつも通りだよ」

その言葉は、色を持たない乾いた音として私の耳に届いた。絆が希薄になると、色彩は色褪せる。私たちの間に、何か見えない亀裂が入り始めているのだろうか。焦りが胸を締め付けた。

追い打ちをかけるように、学校で不吉な噂が流れ始めた。

「湊くん、もしかして『空白』なんじゃないか」

『空白』。それは、十八歳になっても何のタトゥーも浮かび上がらない者たちを指す言葉。感情を失い、誰の記憶にも残らず、やがてこの世界から静かに姿を消していく存在。噂は囁かれ、伝染し、湊の周りから彩りのある声が一つ、また一つと消えていった。

私は否定したかった。湊が消えるなんて、ありえない。彼の藍色は、誰よりも深く、誰よりも優しかったのだから。しかし、日に日に色を失っていく彼の声が、その噂に恐ろしいほどの信憑性を与えていた。

第三章 モノクロームの沈黙

私は必死だった。失われゆく藍色を取り戻したくて、がむしゃらに湊との時間を増やそうとした。幼い頃に遊んだ秘密基地の跡地へ連れて行ったり、他愛もない思い出話を何度も繰り返したりした。私たちの絆はここにある、と証明したかった。

しかし、努力は空回りするばかりだった。

「ありがとう、ユイ」

湊は静かに言う。その声は、もうほとんど白黒写真のような、色彩のない濃淡でしか感じられなかった。彼は優しい表情を浮かべているのに、その内側にあるはずの感情の色が、私には見えない。彼は私から遠ざかっているのではなく、彼自身が、彼という存在そのものが、薄く、透明になっていくようだった。

ある夜、私は湊の部屋を訪れた。彼の部屋の窓から見える月は、冷たく白く輝いていた。

「湊、怖いよ。あなたがいなくなるなんて、考えられない」

私の声は震え、きっと濁った色をしていたことだろう。

湊はしばらく黙って窓の外を見つめていたが、やがて静かに私に向き直った。その瞳には、諦めでも悲しみでもない、何か巨大なものを前にした者の、厳粛な覚悟のようなものが宿っていた。

「ユイ。俺の誕生日の夜、あの音楽室で会ってくれないか。大事な話があるんだ」

彼の声には、もう色はなかった。ただ、音としての響きだけが、静寂な部屋に吸い込まれていった。

第四章 古書のインクの匂い

約束の日まで、私は何かに憑かれたように古い図書館に通い詰めた。『空白のタトゥー』について、何か手がかりがないか、カビとインクの匂いが染みついた書物を片っ端からめくった。ほとんどの記述は、噂通りの不吉なものばかりだった。感情の喪失、存在の希薄化、そして消滅。ページを繰る指が冷たくなっていく。

諦めかけたその時、禁書室の片隅で、埃をかぶった一冊の本を見つけた。それは、この世界の成り立ちについて書かれた神話のような古文書だった。その中に、私は信じられない一節を発見した。

『空白は喪失にあらず。空白とは、あらゆる色を受け入れるための器なり。』

そこにはこう記されていた。『空白』のタトゥーを宿す者は、感情を失うのではない。彼らは『感情の媒介者』として、この世界で生まれ、忘れ去られていった無数の人々の最も強い感情――歓喜も、悲哀も、愛も、怒りも――そのすべてを受け継ぎ、未来へと繋ぐ役割を担うのだと。彼らは個人の感情を手放す代わりに、世界の感情の調和を保つ、崇高な調律者になる。しかし、その使命に目覚める時、彼らは現在の世界との繋がりを断ち、新たな次元へと旅立たねばならない、と。

インクの文字が滲んで見えた。湊は消えるのではない。選んだのだ。自分の絆や感情と引き換えに、この世界全体の感情を守るという、途方もなく孤独な道を。彼の声から色が失われていったのは、私たちの絆が薄れたからではなかった。彼が、より大きな絆のために、自らの色を空にしていたのだ。

第五章 約束のスクラップブック

湊の十八歳の誕生日、その前夜。月の光だけが差し込む音楽室で、私たちは再会した。ピアノの前に座る湊の姿は、まるで影絵のようだった。彼の声は、完全に無色透明になっていた。

「ユイ、来てくれたんだな」

「……全部、知ったよ。図書館の本で」

彼は驚いた顔をしたが、すぐに穏やかな微笑みを浮かべた。

「そうか。なら、話は早いな」

彼は語り始めた。自分が『媒介者』の運命にあることを幼い頃から知っていたこと。それは誰かに強制されたのではなく、忘れられた声たちの囁きを聞き、自ら選んだ道であること。世界のどこかで泣いている誰かの涙を、未来の誰かの笑顔に変えるために、自分は旅立つのだと。

私は黙って、あのスクラップブックを彼に差し出した。

「これは、持っていって」

湊がそれを受け取り、ゆっくりとページをめくる。その瞬間、信じられないことが起こった。私が描き留めたクレヨンの色彩が、淡い光を放ち始めたのだ。藍色が、若草色が、橙色が、ページから溢れ出し、音楽室の闇を照らす。それは私たちが紡いできた思い出の色だけではなかった。見たこともない、黄金の歓喜、深紅の愛情、瑠璃色の悲哀――古文書に書かれていた、過去の時代に生きた人々の『失われた声の色彩』が、スクラップブックを道標として、そこに蘇っていた。

「すごい……これが、俺が運んでいくものたちか」

湊は、溢れ出す光の奔流を、眩しそうに、そして愛おしそうに見つめていた。

第六章 透明なタトゥー

夜明けが近づき、東の空が白み始める。その光が窓から差し込み、湊の体を照らした瞬間が、彼の十八歳の始まりだった。

噂通り、彼の肌に浮かび上がったのは『空白』だった。だが、それは空虚な無ではなかった。あらゆる光を反射し、あらゆる色を内包するような、無限の可能性を秘めた透明な輝き。まるで、磨き上げられた水晶のように、彼の全身が静かな光を放っていた。

「時間だ」

湊の体が、足元からゆっくりと光の粒子に変わっていく。彼の輪郭が、世界の風景に溶けていく。彼は感情を失った虚ろな顔などしていなかった。むしろ、その表情は、世界中の感情を受け入れる器となったことで、この上なく満ち足りて、穏やかに見えた。

彼は、消えゆく体で、最後に私を見た。その瞳には、言葉にならないほどの感謝の色が映っていた。ありがとう、ユイ。君がいたから、俺は俺の道を選ぶことができた、と。声にならない声が、私の心に直接響いてきた。

第七章 世界に響めく君の色

湊の姿が、胸のあたりまで光の粒子に変わろうとしていた。もう、声は出せないはずだった。それでも私は、最後の力を振り絞って叫んだ。

「ミナト!」

その瞬間、私自身の口から、燃えるような真紅の光がほとばしった。それは、私が今まで見たどんな色よりも鮮やかで、暖かく、力強い色彩。湊への愛情、行かないでと願う悲しみ、彼の選択を誇りに思う気持ち、そして、ありがとうという感謝。私の全ての感情が凝縮された、たった一音の『赤』。

湊は、その真紅の光を両手で受け止めるようにして、微笑んだ。

それが、彼の旅立ちの、最後のエネルギーとなった。

真紅の光を抱いたまま、彼は完全に光の粒子となり、音楽室の窓から差し込む朝の光の中へ、静かに溶けて消えていった。

湊が消えた瞬間、私の世界から、すべての色が失われた。音はただの音になり、世界はモノクロームの濃淡へと変わった。

けれど、不思議と絶望はなかった。

私は目を閉じる。耳を澄ますと、風が窓を揺らす音の中に、遠くで鳴り響く教会の鐘の音の中に、あの深く澄んだ藍色の気配が、微かに残っている気がした。

私の世界から色彩は消えた。でも、私の心の中には、湊と分かち合った数えきれないほどの色彩が、決して色褪せることのない記憶として、鮮やかに焼き付いている。

私はゆっくりと目を開け、白黒の朝日が照らす世界へと、一歩を踏み出した。

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