さよならのデシベル

さよならのデシベル

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第一章 スタティック・ノイズ

放課後の放送室は、世界の墓場に似ていた。

埃の匂い。錆びついたマイクスタンド。そして、窓から差し込む西日が、舞い上がる塵を黄金色の粒子に変えている。

「……テスト、ワンツー」

僕はマイクのスイッチを入れる。赤いランプが灯る。その瞬間だけ、僕はこの世界の「主」になれる。

スピーカーから流れるのは、僕の声ではない。レコード針が拾う、パチパチというノイズだ。静寂が怖い。沈黙は、僕の記憶を少しずつ削り取っていくヤスリのようだ。

僕、瀬戸口カイトには欠陥がある。

完全記憶能力。かつてはそう呼ばれていた。

けれど、それはストレスと共にバグを起こし始めていた。音がないと、過去が映像としてフラッシュバックし、現実を塗りつぶしてしまう。

だから僕は、常に音を探している。換気扇の回る音、遠くの野球部の掛け声、廊下を歩く上履きの摩擦音。

「ねえ、そのノイズ、雨の音に似てる」

ふいに、ヘッドフォン越しに声が聞こえた。

心臓が跳ねる。放送室の防音扉は閉まっているはずだ。振り返る。誰もいない。

「ここだよ、カイトくん」

声は、ミキサー卓の隅に置かれた、古いカセットデッキから聞こえていた。

再生ボタンが押されているわけではない。けれど、インジケーターの針が微かに振れている。

「幽霊……?」

「失礼ね。周波数が合っただけ」

スピーカーからの声は、少し籠もっていたが、透明感のあるアルトだった。

「私は、この放送室の残留思念……って言ったら信じる?」

「科学的根拠がない」

「じゃあ、隣のクラスの不登校児、牧野シオリ」

牧野シオリ。名前は知っている。二学期から姿を見せなくなった、特進クラスの秀才。

「どうして、ここから声が?」

「ジャックしてんの。アンテナをいじって、特定の周波数でそこに飛ばしてる。……私ね、もうすぐ学校が取り壊されるって聞いて、どうしても『音』が欲しかったの」

彼女の要求は奇妙だった。

古い校舎の、きしむ床の音。図書室のページをめくる音。屋上のフェンスを風が揺らす音。

「君は、学校に来ないのか?」

「行けないの。……うるさすぎるから」

彼女は笑ったようだった。ノイズ混じりの笑い声。

僕はその日、奇妙な共犯関係を結んだ。僕が音を集め、彼女に届ける。世界の解像度を保つために。

第二章 サイレント・サイレン

「今日は、三階の渡り廊下の音」

シオリのリクエストは、日に日に具体的になっていった。

僕はハンディレコーダーを片手に、廃校寸前の校舎を彷徨う。

渡り廊下は、風の通り道だ。

ヒュウ、と細い音が鳴る。サッシの隙間風だ。

「いい音」

夜、自宅から彼女専用の周波数にアクセスすると、彼女は満足そうに息を吐いた。

「カイトくんの拾う音は、色彩があるね」

「音に色はない」

「あるよ。昨日のチョークの音は白かった。今日の風は、薄い水色」

彼女との会話は、僕のバグを落ち着かせた。過去のフラッシュバックが減り、現在の「音」に集中できる。

だが、違和感もあった。

彼女は、リアルタイムの音には反応が遅れる。僕が問いかけてから、数秒の間がある。

ある雨の日。

僕は意を決して、彼女の「発信源」を探ることにした。

電波の強弱を頼りに、自転車を走らせる。

辿り着いたのは、学校から三キロ離れた総合病院だった。

「……ここから?」

病室のネームプレート。『牧野シオリ』。

ノックをする。返事はない。

そっとドアを開ける。

窓際のベッドに、彼女はいた。

ヘッドフォンをして、膝の上の機械を操作している。

窓の外は激しい雷雨だ。雷が光り、窓ガラスがビリビリと震えるほどの轟音が響く。

けれど。

彼女は、一度も瞬きをしなかった。

雷の音に、驚きもしなかった。

「……シオリ?」

声をかける。反応がない。

近づいて、彼女の肩に触れる。

彼女は飛び上がるほど驚き、そして僕を見て、悲しそうに微笑んだ。

ヘッドフォンを外す。

そこから漏れていたのは、僕が送った『雨の音』の録音だった。

「……バレちゃった」

彼女の声は、どこか調律の外れたピアノのようだった。

「聞こえて、ないのか」

彼女は僕の口元の動きを見て、スケッチブックに文字を書く。

『もうほとんど、何も。私が聞いていたのは、骨伝導と、記憶の中の音』

「うるさすぎるって、言ったじゃないか」

『静寂がうるさいの。耳が聞こえなくなるとね、頭の中でキーンって音が鳴り止まないの。だから、カイトくんの集めてくれた「生きた音」だけが、その耳鳴りを消してくれる薬だった』

彼女は特異な聴覚障害を抱えていた。

進行性の感音性難聴。世界は徐々にボリュームを絞られ、やがて完全な無音になる。

彼女が放送室をジャックしていたのは、かつて自分が放送部員だった頃の機材知識と、最後に「世界」を焼き付けておきたいという執念だった。

「私、もうすぐ完全に聞こえなくなる。医者がそう言った」

彼女は指先で、窓ガラスに触れる。

「振動しか、わからない。……カイトくんの声も、もう思い出せない」

僕は拳を握りしめた。

僕が恐れる静寂。彼女がこれから一生背負う静寂。

「まだ、終わってない」

僕はスマホを取り出し、文字を打つ。

『最高の音を、聞かせてやる。振動でも、鼓膜が破れるくらいのやつを』

最終章 ラスト・レゾナンス

学校の取り壊し工事が始まる前日。

僕は放送室に、ありったけのアンプとスピーカーを持ち込んだ。

校庭に向けられた四基の巨大スピーカー。校舎内の全教室のスピーカーも最大出力に設定する。

許可なんて取っていない。これが最初で最後の、ゲリラ放送だ。

「準備はいい?」

放送室の椅子に、シオリが座っている。

彼女は病院を抜け出してきた。パジャマの上に、ブカブカの制服を羽織っている。

彼女は頷く。その手は、ミキサー卓のフェーダーに置かれている。

「曲は?」

彼女が口の形だけで訊く。

「曲じゃない」

僕はマイクを握る。

「世界だ」

再生ボタンを押す。

瞬間。

空気が爆ぜた。

流れたのは、僕が集めた一ヶ月分の「学校」の音だ。

一時間目のチャイム。

廊下を走る足音。

古文教師の退屈な読経のような授業。

弁当箱を開ける音。

炭酸の抜ける音。

放課後のグラウンドの土を蹴る音。

音楽室からの下手くそなトランペット。

そして、放送室のドアが開く、軋んだ音。

それら全てを重ね合わせ、リミックスし、一つの奔流にした。

音楽ではない。ただのノイズの塊だ。けれど、そこには確かに「青春」という名の周波数が宿っていた。

校舎が震える。

ガラスが共振し、埃が舞い上がる。

シオリが目を見開く。

彼女は聞こえていないはずだ。けれど、彼女の頬を涙が伝う。

「……痛い」

彼女が呟く。

「痛いくらい、響いてる」

彼女はミキサー卓に突っ伏し、その振動を全身で受け止めていた。

床から、机から、空気そのものから、音が彼女の体を貫いていく。

僕の「絶対音感」が捉えた世界を、彼女の「皮膚」が翻訳している。

『聞こえるよ、カイトくん』

彼女の唇が動く。

『これが、私たちの学校の音だね』

数分後、ブレーカーが落ちた。

プツン、という音と共に、世界は唐突に静寂に包まれた。

先生たちが怒鳴り込んでくる足音が、遠くから聞こえる。

けれど、放送室の中だけは、奇妙なほど静かだった。

シオリは満足そうに微笑んで、ヘッドフォンを首から外した。

夕日が、彼女の横顔を照らしている。

「ありがとう」

彼女の声は、もう音としては聞こえていないのかもしれない。

それでも、僕にははっきりと届いた。

僕はマイクのスイッチを切る。

赤いランプが消える。

静寂は、もう怖くなかった。

だって、この静けさの向こう側には、確かに彼女が生きているのだから。

「さよなら、放送室」

僕は口パクでそう言い、彼女の手を握った。

彼女が握り返してくる。

その手のひらの温かさだけが、雄弁に物語を語っていた。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 瀬戸口カイト: 静寂を恐れる放送部員。完全記憶能力を持つが、過去のフラッシュバックに苦しむ。「今」を繋ぎ止めるために音を収集する。
  • 牧野シオリ: 進行性の難聴を患う特進クラスの少女。入院中だが、電波ジャックで放送室にアクセスする。音が消える恐怖と戦いながら、世界の記憶を求めている。

【考察】

  • 音と静寂の対比: カイトにとって静寂は「過去への幽閉」を意味し、シオリにとっては「未来の断絶」を意味する。二人が共有する時間は、その狭間に存在する刹那的な避難所である。
  • 「Show, Don't Tell」の具現化: シオリの難聴を直接的な説明ではなく、雷鳴への無反応や、振動への感応で表現することで、読者に彼女の孤独な感覚を追体験させている。
  • ラストシーンのメタファー: ブレーカーが落ちた後の静寂は、単なる音の消失ではなく、二人が「音のない世界」を肯定し、新しいコミュニケーション(手の温もり)へと移行したことを象徴している。
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