サイレント・オン・エア

サイレント・オン・エア

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第一章 ノイズ・ジャンキー

「無音は、死と同じだ」

僕にとっての世界は、常に何かしらの音で満たされていなければならなかった。

放課後のチャイムが鳴り終わるコンマ一秒前、僕はヘッドフォンを耳に押し当てる。

お気に入りのシューゲイザー・バンドの轟音が、脳髄を揺らす。

廊下を歩く上履きの擦れる音、運動部員の掛け声、遠くから聞こえる吹奏楽部のチューニング。

それら全てをノイズキャンセリング機能で遮断し、自分だけの「音」に浸る。

それが、高校二年生の僕、瀬名湊(せな みなと)の生存戦略だった。

「……ナト、湊!」

ヘッドフォンを無理やり剥がされる。

「おい、無視すんなよ」

目の前には、クラスメイトの陽介が立っていた。

「なんだよ」

「今日、放送室当番だろ? 鍵、職員室に取りに行けって先生が」

「……ああ」

忘れていたわけじゃない。

ただ、あの部屋に行くのが億劫なだけだ。

旧校舎の三階にある放送室。

そこは、全校生徒の中で唯一、僕がヘッドフォンを外さなければならない場所。

そして、もう一人。

最も「静寂」に近い人間がいる場所だからだ。

錆びついたドアノブを回すと、いつもの匂いがした。

埃と、古い機材の熱と、微かな潮風の匂い。

「……」

ミキサー卓の前に、彼女はいた。

古宮静(こみや しずか)。

彼女は、窓から差し込む夕日を背に、じっとマイクを見つめていた。

僕が入ってきても、振り返らない。

彼女は喋らない。

いや、正確には「喋れない」わけではないらしい。

場面緘黙(かんもく)症。

特定の場所や状況で、声が出せなくなる。

放送部なのに、喋らない部員。

音を愛するのに、静寂を恐れる僕。

皮肉な組み合わせだと、誰もが笑うだろう。

「古宮、昨日のプレイリスト、更新されてた?」

僕はあえて、明るい声を出した。

沈黙を埋めるために。

彼女はゆっくりと首を横に振る。

そして、一枚のSDカードを僕の方へ滑らせた。

『Rec_0415』

カードに貼られたラベルには、今日の日付と、彼女の几帳面な文字。

「今日の音?」

こくり、と頷く。

僕はため息をつきながら、SDカードをプレーヤーに差し込んだ。

ヘッドフォンをする。

再生ボタンを押す。

『ザザッ……』

風の音だ。

それも、ただの風じゃない。

『……カタン、コトン……』

遠くで響く電車のジョイント音。

その周波数の低さからして、鉄橋を渡っている。

風向きは北西。

マイクの吹かれ具合から見て、地上十メートル以上の場所。

「……これ、裏山の給水塔の上だろ」

僕が言うと、静は目を見開き、少しだけ口角を上げた。

正解、と言いたいらしい。

僕には特技がある。

環境音を聞くだけで、その場所や時間帯、天候まで特定できる。

絶対音感ならぬ、「絶対環境感」とでも言うべきか。

静は、毎日こうして「音」を録ってくる。

僕へのクイズのように。

そして、それが彼女なりの会話だった。

「危ないから登るなって言われてるだろ」

注意すると、彼女はまたマイクの方を向いてしまった。

夕日が、埃の舞う放送室をオレンジ色に染め上げる。

機材のファンが回る低い音だけが、二人の間に横たわる。

僕は耐えられなくなり、フェーダー(音量調整つまみ)を無意味に上げ下げした。

「なぁ、古宮」

「……」

「そろそろ、喋ってみないか? マイクに向かってなら、誰にも聞かれないし」

彼女の肩が、びくりと震えた。

第二章 周波数52ヘルツ

五月雨の降る午後だった。

「放送部、廃部の危機だってよ」

陽介が購買のパンをかじりながら言った。

「部員が二人しかいないし、実質活動してないも同然だからな」

「活動はしてるさ。お昼の放送だって」

「お前が好きな洋楽垂れ流してるだけだろ。評判悪いぞ、暗くて」

返す言葉がなかった。

放課後、放送室に行くと、静が珍しくヘッドフォンをして何かを聞き入っていた。

僕の足音に気づくと、慌ててヘッドフォンを外し、背中に隠す。

「何聞いてたんだ?」

彼女は首を振る。

頑なに隠そうとする。

僕は少し強引に、彼女の手からレコーダーを奪い取った。

「……あっ」

微かな、本当に微かな声が、彼女の喉から漏れた。

初めて聞いた、彼女の声。

それは、雨粒が水面に落ちるような、透明な響きだった。

驚いて彼女を見る。

静は顔を真っ赤にして、俯いてしまった。

僕はレコーダーの再生ボタンを押した。

『……あ、あー……テス、ト……』

録音されていたのは、静の声だった。

震えて、掠れて、今にも消え入りそうな声。

『……湊くん……聞こえますか……』

心臓が、早鐘を打った。

これは、練習だ。

彼女は、喋ろうとしていたんだ。

僕に、何かを伝えるために。

録音は続く。

『私……来月、転校することになりました』

時が止まった気がした。

雨の音が、遠のいていく。

『……だから、最後に……一緒に、放送がしたいです』

レコーダーの中の彼女は、必死に言葉を紡いでいた。

『湊くんが選んだ曲の曲紹介を、私がしたい。……それが、私の夢です』

プツッ。

録音が終わる。

再び訪れた静寂は、以前よりも重く、痛かった。

僕はレコーダーを彼女に返した。

手が震えていたかもしれない。

「……聞いたよ」

静は泣きそうな顔で、僕を見上げている。

「やろう。最後の放送」

僕が言うと、彼女の瞳から大粒の涙が溢れ出した。

それからの一ヶ月、僕たちは「特訓」を始めた。

放課後の放送室。

鍵をかけ、二人きりの密室。

マイクの前に座る静。

僕がミキサー卓でキューを出す。

最初は、呼吸音だけだった。

過呼吸になりそうなほど、彼女は緊張していた。

「大丈夫。僕しか聞いてない。このマイクは、まだOFFだ」

僕はヘッドフォン越しに、彼女の呼吸に耳を澄ませる。

不規則なリズム。

心拍の高鳴りまで聞こえてきそうだ。

「深呼吸して。……そう。僕の方を見て」

彼女が顔を上げる。

ガラス越しに目が合う。

「音を出そうとしなくていい。ただ、空気を震わせるイメージで」

僕のアドバイスは、いつだって抽象的だ。

でも、静にはそれが伝わっている気がした。

『……つ、ぎの……曲は……』

二週間後、彼女は一言だけ、喋れるようになった。

さらに一週間後、曲名まで言えるようになった。

そして、転校の前日。

「明日の昼放送。ゲリラでやるぞ」

僕の提案に、静は力強く頷いた。

第三章 ラスト・テイク

その日、空は抜けるような青だった。

昼休み。

生徒たちが騒がしく行き交う中、僕たちは放送室に立てこもった。

ドアには鍵をかけた。

先生が来ても開けない覚悟だ。

「準備は?」

マイクの前に座る静に問う。

彼女は台本を握りしめ、小さく深呼吸をした。

その手は震えているが、目は真っ直ぐにマイクを見据えている。

「……OK」

口パクで、彼女が答える。

僕はフェーダーに指をかける。

心拍数が上がる。

校内放送のスイッチをONにする。

『ピンポンパンポーン』

チャイムが鳴り響き、校舎内の喧騒が一瞬だけ静まる。

「こちらは、放送部です」

まずは僕が喋る。

いつもの、気だるげな声を作る。

「今日は、特別番組をお送りします。……DJは、古宮静」

僕は静に合図を送る。

フェーダーを上げる。

赤い『ON AIR』ランプが点灯する。

静寂。

一秒、二秒、三秒。

放送事故レベルの沈黙。

教室で、食堂で、生徒たちがざわつき始めるのが想像できる。

頑張れ。

声を出せ。

僕は祈るように彼女を見つめる。

静は、唇を噛み締め、目を閉じていた。

(ダメか……?)

僕がフォローに入ろうと、マイクに手を伸ばしたその時。

『……き、聞こえますか』

スピーカーから、震える声が流れた。

『……放送部の、古宮です』

校舎中が、水を打ったように静まり返った気がした。

あの「喋らない幽霊部員」が喋っている。

その衝撃が、波紋のように広がっていく。

『私は……話すのが、苦手です。……でも、今日は、届けたい音があります』

彼女の声は、次第に熱を帯びていった。

拙いけれど、一語一語、噛み締めるような喋り方。

『……私は、この学校の音が好きでした』

彼女は台本から目を離し、宙を見つめて語り始めた。

『廊下を走る足音。……黒板を消す音。……誰かの笑い声。……それは、私にとって、一番心地よい音楽でした』

僕は驚いてミキサーの手を止めた。

それは、台本にはない言葉だった。

『私は、その輪の中には入れなかったけれど……。ヘッドフォン越しに聞く皆さんの声に、いつも救われていました』

彼女は僕の方を見た。

ガラス越し、涙を溜めた瞳が笑っていた。

『……最後に。私に、音の世界を教えてくれた人に、この曲を捧げます』

彼女が選んだ曲。

それは、僕がいつも一人で聞いていた、あのうるさいシューゲイザー・バンドのバラードだった。

曲が流れる。

ノイズ混じりのギターが、切なく響き渡る。

曲が終わるまでの四分間、僕たちは一言も喋らなかった。

ただ、お互いを見つめ合っていた。

言葉はいらなかった。

音楽が、ノイズが、僕たちの感情を代弁していた。

曲のアウトロがフェードアウトする。

『……さようなら』

彼女の最後の言葉と共に、僕はフェーダーを下げた。

終章 0ヘルツのラブソング

静が去ってから、半年が経った。

放送部は廃部にはならなかった。

あの放送が「神回」として伝説になり、新入部員が入ってきたからだ。

僕は今、屋上の給水塔の上にいる。

かつて、彼女が音を拾っていた場所。

風が強い。

フェンスが風に鳴る音が、低く響いている。

僕はポケットから、彼女が最後に残していったSDカードを取り出した。

『For Minato』

そう書かれたカード。

再生するのは、これで百回目だ。

ヘッドフォンをする。

再生ボタンを押す。

『…………』

音は、しない。

波形データを見ても、完全にフラットだ。

0ヘルツ。

完全なる無音。

最初は、録音ミスだと思った。

でも、何度も聞くうちに、気づいた。

ボリュームを最大まで上げる。

ノイズキャンセリングを切る。

微かに、本当に微かに。

『……す……き……』

衣擦れの音よりも小さな、吐息のような声。

環境音にかき消されてしまうほどの、儚いシグナル。

僕にしか聞こえない。

あの放送室のノイズを知っている、僕にしか。

「……聞こえてるよ」

僕は空に向かって呟いた。

ヘッドフォンを外す。

風の音、遠くの電車の音、生徒たちの喧騒。

かつては騒音でしかなかったそれらが、今は愛おしい。

世界は、こんなにも彼女の痕跡で溢れている。

僕はレコーダーのマイクをオンにした。

そして、深呼吸をする。

「……元気か? こっちは、相変わらずうるさいよ」

僕の言葉は風に乗って、空へと溶けていった。

いつか、この周波数が、君に届くことを信じて。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • 瀬名湊 (Sena Minato): 静寂を「死」と同義と捉え、常にヘッドフォンで外界を遮断する少年。微細な環境音から場所や状況を特定できる「絶対環境感」を持つ。他者との関わりを避けていたが、静の「音」には興味を示す。
  • 古宮静 (Komiya Shizuka): 場面緘黙症により、学校では声が出せない少女。放送部員でありながら喋らない。レコーダーで収集した「音」を湊に聞かせることでコミュニケーションをとる。芯は強く、伝えたい言葉を内側に秘めている。

【考察】

  • ノイズと静寂の逆説: 物語序盤、湊にとってノイズは「安らぎ」で静寂は「恐怖」だった。しかし静との交流を通じ、ノイズ(他者の声、世界の実在)を受け入れ、静寂(彼女がいない空間、しかし想いが残る空間)を愛おしいものへと再定義する過程が描かれている。
  • Show, Don't Tellの徹底: 「好き」という言葉を直接的なセリフではなく、限界までゲインを上げなければ聞こえない「無音の録音データ」として表現することで、二人の関係性の秘匿性と特別感を演出している。
  • 52ヘルツの鯨: 第二章のタイトルにある「52ヘルツ」は、他の鯨とは周波数が異なるため仲間と通信できない「世界でもっとも孤独な鯨」のメタファー。静と湊は、互いにしか聞こえない周波数で繋がった「二頭の鯨」であることを示唆している。
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