第一章 ゼロ・ヘルツ
線香の匂いが、染みついた部屋の生活臭と混ざり合う。
重苦しい、湿った空気。
四十八歳の夏。
俺、相田ケンジは、二十年ぶりに「静寂」を聞いていた。
布団の上には、動かない母さんがいる。
まるで電池が切れた古いラジオみたいだ。
「……母さん」
呼んでも、返事はない。
いつもなら、「ケンジ、ご飯だよ」とか、「あんた、いつまで家にいるの」とか、ドア越しに飛んでくる声が、ない。
俺はヘッドホンを首にかけたまま、その場に立ち尽くしていた。
足元には、散乱したカセットテープ。
壁際には、自作のハイスペックPCと、マイク機材。
俺の唯一の才能であり、逃げ場所。
絶対音感と、音声編集技術。
引きこもりの二十年、俺は世界中のラジオやポッドキャストを編集し、ノイズを除去する作業だけで小銭を稼いできた。
現実のノイズ──他人の視線や、社会の要求──からは耳を塞いで。
「どうすんだよ、これ」
震える手でスマホを握る。
119?
110?
通話ボタンを押そうとして、指が止まる。
救急車が来れば、近所の連中が集まってくる。
警察が来れば、俺の存在が白日の下に晒される。
『あそこの息子さん、まだいたのね』
『いい年して、親の年金で……』
想像するだけで、吐き気がした。
呼吸が浅くなる。
視界がチカチカする。
俺は、母さんの亡骸に背を向け、PCのモニターを見た。
画面には、開発中の音声合成AIソフト『ミミック・ボイス』が立ち上がっている。
学習データは、山ほどある。
母さんがドア越しに叫んだ小言。
近所の井戸端会議。
カセットテープに残った、昔の優しい歌声。
魔が差した、なんて言葉じゃ足りない。
俺は、生きるために、母さんを「再起動」することを選んだ。
第二章 合成された温もり
『あら、田中さん。お久しぶりねえ』
スピーカーから流れる声は、完璧だった。
波形モニターが、母さんの声紋と同じ形を描く。
電話の向こうで、隣人の田中さんが安堵の息を漏らすのがわかった。
「ハルさん、心配したのよ。最近、姿を見ないから」
俺はキーボードを叩く。
カタカタ、ッターン。
《ちょっと腰を痛めちゃって。でも、口だけは元気よ》
エンターキーを押すと、0.2秒のラグのあと、AIの母さんが喋る。
抑揚、息継ぎ、少し掠れた笑い声。
すべてが計算通り。
すべてが偽物。
「よかったわあ。ハルさんの声を聞くと、なんだかホッとするのよ。あのね、うちの主人がまた……」
田中さんの愚痴が始まった。
俺はヘッドホンでそれを聞きながら、適当な相槌を生成していく。
《それは大変ね》
《男の人って、いくつになっても子供だから》
俺が打つテキストは無機質だ。
でも、AIを通すと、そこには「母性の質量」が宿る。
皮肉な話だ。
生前の母さんとは、まともに会話なんてしなかったのに。
死んでからの方が、俺たちはよく喋っている。
それから一週間。
団地の噂は広まるのが早い。
「ハルさんと電話すると元気になる」
「悩みを聞いてくれる」
そんな評判が立ち、家の固定電話は鳴り止まなくなった。
孤独な老人たち。
彼らは、誰かに話を聞いてほしいだけなのだ。
俺は一日中、モニターの前に座り、母さんの代役を務めた。
《大丈夫、あんたは間違ってないよ》
《今日はいい天気だから、窓を開けてごらん》
俺自身は、カーテンを閉め切った暗室にいるのに。
一度だけ、母さんの声生成パラメータをいじってみた。
「優しさ」の数値を最大に。
「小言」の数値をゼロに。
出来上がったのは、俺が子供の頃に夢見ていた、理想の母親だった。
『ケンジ、ご飯できたわよ』
テスト再生してみる。
胸の奥が、焼けるように痛んだ。
俺は、何をしているんだろう。
腐敗が進まないよう、ドライアイスで冷やされた隣の部屋の現実から、目を背け続けて。
第三章 ノイズの向こう側
異変に気づいたのは、民生委員の小田切が訪ねてきた時だった。
「相田さーん、ハルさーん。いらっしゃいますか?」
ドアポスト越しに、若い男の声。
俺は心臓が早鐘を打つのを感じながら、インターホンの受話器を取り、PCのマイクを近づけた。
キーボードを叩く指が汗で滑る。
《はーい、ごめんなさいね。今、ちょっと手が離せなくて》
「あ、ハルさん! お元気そうでよかった。実は、来週の高齢者検診の件で……」
小田切は疑っていない。
だが、会話の端々に違和感が混じる。
「最近、息子さんはどうされてます?」
ドキリとした。
俺のことだ。
俺は迷った。
なんて答えればいい?
「働いています」?
「出て行きました」?
その時、指が勝手に動いた。
いや、俺の意志じゃない。
AIが、過去の学習データから「最適解」を予測して、文章を生成したのだ。
『あの子は、あの子なりに頑張ってるわよ。優しい子なの』
スピーカーから流れたその声に、俺は息を呑んだ。
そんなこと、母さんは一度も言わなかった。
いつだって、「情けない」「恥ずかしい」と罵られていたはずだ。
なのに、なぜ?
俺はログを遡った。
学習データの中に、俺が知らないテープが含まれていた。
『日記_2005.mp3』
二十年前。
俺が引きこもり始めた頃の日付だ。
震える手で再生する。
『……ケンジが部屋から出てこない。私の育て方が悪かったのかしら。でも、あの子は昔から耳が良くて、人の気持ちに敏感すぎて、疲れちゃうのよね。……いつか、あの子がまた外の音を楽しめる日が来るといいんだけど』
涙が、キーボードに落ちた。
俺は、何も聞いていなかった。
ヘッドホンで耳を塞いで、自分の殻に閉じこもって。
母さんの本当の声なんて、何一つ聞いていなかったんだ。
「……ハルさん? もしもし?」
小田切の声が遠く聞こえる。
俺は泣きながら、必死にキーボードを叩こうとした。
でも、指が動かない。
嘘を重ねることに、限界が来ていた。
ガタン。
隣の部屋で、音がした。
ドライアイスが崩れた音か。
それとも、母さんが「もういいよ」と言ったのか。
「……開けますよ」
小田切の声色が、業務的なものから、警告の色を帯びたものに変わる。
第四章 閾値(スレッショルド)
ドアノブがガチャガチャと回される。
鍵はかかっている。
でも、もう終わりだ。
「相田ハルさん! 緊急事態と判断します!」
外でサイレンの音が近づいてくる。
団地の住人たちが、ざわめきながら集まってくる気配がする。
『ハルさん、どうしたの!?』
田中の声だ。
俺はヘッドホンを外した。
世界が、生々しい音で満たされる。
セミの鳴き声。
遠くの車の走行音。
ドアを叩く拳の音。
PCの画面の中で、波形がまだ揺れている。
『ケンジ、大丈夫よ』
AIが、俺が入力していない言葉を吐き出した。
それはバグか、それとも俺の願望が生み出した幻聴か。
俺は立ち上がった。
足が痺れて、うまく歩けない。
それでも、隣の部屋へ向かう。
冷たくなった母さんの手を、一度だけ握りしめた。
「……行ってくる」
二十年分の埃が舞う廊下。
玄関までの数メートルが、果てしない距離に感じる。
ドアの向こうには、断罪が待っている。
死体遺棄。
年金不正受給。
社会的な死。
それでも、もう、母さんの声を借りて生きるのはやめる。
俺は、俺の声で話さなきゃいけない。
チェーンロックに手をかける。
冷たい金属の感触。
カチャリ。
その小さな金属音が、やけに大きく響いた。
第五章 生音(ライブ・サウンド)
ドアを開けた瞬間、強烈な西日が俺の目を射抜いた。
「……あっ」
民生委員の小田切が、息を呑む。
後ろには、田中さんや、近所の老人たちが心配そうな顔で立っていた。
警察官の姿も見える。
「……母は」
喉が張り付いて、声が出ない。
二十年ぶりの、他人に向ける肉声。
それは、カエルの鳴き声のようにひどく掠れていた。
「母は……死んでいます」
静まり返る廊下。
風が吹き抜け、錆びた手すりを揺らす音だけが響く。
「ごめんなさい。……ずっと、隠してました」
俺は頭を下げた。
地面のアスファルトが見える。
罵声が飛んでくるのを待った。
手錠をかけられる冷たい感触を待った。
だが。
「……やっぱり、そうだったのかい」
田中さんの声は、震えていたけれど、怒りを含んでいなかった。
顔を上げる。
田中さんは、涙を拭っていた。
「薄々はね、気づいてたのよ。ハルさんの話し方、あんなに理路整然としてないもの」
「え……」
「でもね、嬉しかったのよ。誰かが、私なんかの話を一生懸命聞いてくれてるって。それが、機械だろうが、あんたが打った文字だろうが……温かかったんだよ」
他の住人たちも、静かに頷いていた。
「アンタ、ケンジくんだろう?」
杖をついた爺さんが言った。
「昔、俺のラジオを直してくれたっけな。……そうか、ずっとそこにいたのか」
警察官が、ゆっくりと俺に近づいてくる。
法は、感情では動かない。
俺は罪を償わなければならない。
「署で、詳しくお話を聞きます」
俺は大人しく両手を出した。
その時、団地のどこかで、ピアノの練習をする音が聞こえた。
下手くそな『エリーゼのために』。
以前の俺なら、イラついてノイズキャンセリングをしていただろう。
でも今は、その音が愛おしい。
「……行ってきます」
俺は言った。
母さんの声マネではなく、俺自身の、震える低い声で。
空を見上げると、入道雲が崩れかけていた。
ヘッドホンを外した世界は、やかましくて、面倒くさくて、残酷で。
けれど、泣きたくなるほど、音が溢れていた。