虚白のソラと忘れられた名

虚白のソラと忘れられた名

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第一章 凍てつく残像

氷室朔(ひむろ さく)の世界は、常に霞んでいた。彼にだけ見える、灰色がかった残像のせいだ。交差点の真ん中、アスファルトの上に転がる子供の赤いボール。誰もが見過ごした、ほんの数秒の親の不注意。朔がその残像に不用意に近づくと、ざらりとした空気が肌を撫でた。

「危ない!」

思わず手を伸ばし、ボールの幻影に触れてしまう。途端、脳内に鋭い閃光が走った。――焦燥。後悔。安堵。そして、すぐに忘れてしまおうとする無関心。感情の奔流が朔の全身を駆け巡り、体温を根こそぎ奪っていく。心臓が氷の塊になったかのような冷たさが、指先からゆっくりと全身に広がった。

「……またか」

朔は小さく呟き、震える手でコートの襟を立てた。街行く人々は、青ざめた顔で立ち尽くす彼を奇妙なものを見る目で見やり、そしてすぐに視線を逸らす。彼らもまた、朔という存在を『見過ごして』いく。

この街は、静かに、しかし確実に蝕まれていた。人々が社会的責任を放棄するたびに、街の一部が物理的に消滅するのだ。昨日まで確かにそこにあったはずの古書店が、今日はがらんどうの虚無空間に変わっている。人々はその喪失を嘆くどころか、最初から何もなかったかのように振る舞う。消滅した区画は、人々の記憶からも曖昧に削り取られていく。朔だけが、その不自然な空白に気づき、見過ごされた出来事の残像に凍え続けていた。

第二章 透明な手がかり

朔は、街外れの消滅区画に足を踏み入れた。第七地区と呼ばれていた場所だ。かつては小さな工場や住宅がひしめいていたはずだが、今では地平線まで続く、墨を流したような虚無が広がっている。音も、匂いも、風さえもここにはない。重力すら曖昧になるような心許ない感覚が、立っているだけで精神を削り取っていく。

その虚無の中心に、何かが淡く光っていた。

吸い寄せられるように近づくと、それは手のひらサイズの、完全に透明な塊だった。まるで水晶をどこまでも磨き上げたような、それでいて輪郭が揺らいで見える不思議な物体。朔がそっと手を伸ばして拾い上げると、驚くべきことに、それは全く重さを持たなかった。まるで空気そのものを固めたかのようだ。

ポケットに入れて持ち帰り、アパートの洗面台でそれを濡らしてみた。それは滑らかな感触で、微かに泡立った。――石鹸だ。透明な石鹸。

その手で、壁に滲むように浮かんでいた残像――アパートの前の住人が見過ごした、郵便受けの督促状――に触れてみる。

瞬間、これまで経験したことのないほど鮮烈なフラッシュバックが朔を襲った。焦り、絶望、諦観、そして社会から見捨てられたという深い孤独。感情の濁流は凄まじかったが、不思議と体の冷えはいつもより軽かった。それどころか、見過ごされた男の人生の断片が、物語のように脳裏に浮かび上がってくる。この石鹸は、残像を、そこに込められた『責任』の正体を、より鮮明にする力があるのだ。朔は、この街を蝕む謎を解く、唯一の手がかりを手に入れたのだと確信した。

第三章 記録者の部屋

街の消滅に関する公式な記録は、ほとんど存在しなかった。消えたが最後、人々の記憶からも記録からも抹消されていくのだから当然だ。朔は一縷の望みを託し、市立中央図書館の郷土資料室を訪れた。

「消えた地区の地図、ですか?」

対応してくれたのは、水瀬雫(みなせ しずく)と名乗る若い司書だった。彼女は困ったように眉を寄せたが、朔の真剣な眼差しに何かを感じ取ったのか、少し声を潜めて言った。

「……公にはなっていませんが、個人的に集めている資料なら」

案内されたのは、書庫の奥にある小さな私室だった。壁一面に、手書きで修正された古い地図や、変色した写真、走り書きのメモがびっしりと貼られている。そこは、世界から見過ごされ、忘れ去られようとしている記憶たちの、最後の避難場所のようだった。

「みんな、忘れてしまうんです。でも、確かにそこにあったはずだから」

雫は寂しそうに微笑んだ。彼女の瞳には、朔と同じ、世界に対する小さな抵抗の光が宿っていた。その光に勇気づけられ、朔は初めて他人に自分の能力のことを打ち明けた。見過ごされた残像が見えること。触れると体が凍てつくこと。そして、虚無空間で見つけた透明な石鹸のこと。雫は驚きながらも、彼の話を静かに、最後まで信じてくれた。その日から、孤独な二人の調査が始まった。

第四章 根源への遡行

雫の集めた膨大な『忘れられた記録』と、朔が透明な石鹸を使って視た数々の『見過ごされた責任』は、やがて一本の線を結び始めた。街の消滅は、日々の些細な無責任の蓄積だけが原因ではない。もっと巨大な、たった一つの『根源的な責任』から、すべてが始まっているのではないか。

「この世界の成り立ちそのものに、何か大きな見過ごしがあるとしたら……」

雫の言葉に、朔は息を呑んだ。最後の望みを託し、朔はほとんど消えかかっていた透明な石鹸を両手で包み込み、意識を集中させた。街の中心、最初に消滅が始まったとされる地点の残像に向かって。

視界が白く染まり、時が逆流する。

――そこには、光も闇もない、始まりの世界があった。世界が形作られる瞬間、膨大なエネルギーの奔流が生まれる。その奔流は、繁栄と安定を生む光の側面と、破滅と混沌をもたらす闇の側面を同時に内包していた。世界は、その闇の側面――存在そのものが持つ『不条理』――を処理しきれなかった。

その時、名もなき一人の存在が進み出た。彼は、世界の安定のために、その巨大な不条理のすべてを自らの内に引き受けたのだ。彼は世界の『人柱』となった。人々が享受する平和も、愛も、日常も、すべてはその一人の無限の苦しみという犠牲の上に成り立っていた。

だが、永い時が経ち、人々はその大いなる犠牲を完全に忘れ去った。感謝も、記憶も、何もかも。『見過ごされた』人柱の力は弱まり、彼が引き受けきれなくなった不条理が、世界の綻びとして漏れ出し始めた。それが、街の消滅の正体だった。世界は、自らが依って立つ土台を、自らの忘却によって崩していたのだ。

あまりにも巨大な真実に、朔は膝から崩れ落ちた。体の芯まで凍りつき、もはや自分の指先の感覚さえなかった。

第五章 最後の選択

「僕が行くしかない」

図書館の静寂を破ったのは、朔の掠れた声だった。彼の顔からは血の気が失せ、まるで彼自身が残像になりかけているかのように見えた。

「ダメよ!そんなことしたら、朔くんが……!」

雫が悲鳴のような声を上げる。彼女には分かっていた。朔が何をしようとしているのか。新たな人柱になるということは、この世界から完全に消滅し、誰の記憶からも消え去ることを意味する。朔という人間が存在した痕跡すべてが、抹消されるのだ。

「でも、他に方法はないんだ。このままじゃ、君も、この街も、全部消えてしまう」

朔は、震える手で雫の頬に触れようとして、寸前で止めた。今の自分に触れれば、彼女まで凍えさせてしまうかもしれない。

「君に会えてよかった。僕がこの世界にいた意味が、ようやく分かった気がする」

彼は、精一杯の力で微笑んだ。それは、氷の中に咲いた一輪の花のように、儚く、そしてあまりにも美しい笑顔だった。雫はただ首を横に振り、涙をこぼすことしかできない。

朔は彼女に背を向け、街の中心、最も大きく口を開けた虚無空間へと歩き出した。それは、世界の綻びであり、始まりの場所。自らの存在を代償に、世界が『見過ごした』最大の責任を引き受けるために。

第六章 誰のものでもない空

朔が虚無の中心に立った瞬間、彼の身体は内側から淡い光を放ち始めた。彼は静かに目を閉じ、世界の不条理、その痛み、悲しみ、そのすべてを自らの魂に受け入れていく。

「――引き受けよう」

その言葉を最後に、朔の身体は無数の光の粒子となって霧散し、虚無の闇に吸い込まれていった。

同時に、世界は息を吹き返した。消滅していた街区が、まるで早送りの映像のように次々と再生されていく。虚無は埋め立てられ、ビルが建ち、道路が伸び、人々の笑い声が戻ってきた。空はどこまでも青く澄み渡り、街はかつてないほどの平和な光に満ちていた。

誰も、何が起こったのかを知らない。誰も、自分たちが誰の犠牲の上に立っているのかを知らない。

市立中央図書館の窓辺で、司書の水瀬雫はふと空を見上げた。なぜだろう、理由もなく涙が頬を伝う。胸にぽっかりと穴が空いたような、耐え難い喪失感。でも、何を失ったのかが、どうしても思い出せない。

彼女は無意識に、机の引き出しを開けた。中には、彼女がなぜ集めていたのかも忘れてしまった、一枚の白紙の資料が残されているだけだった。

雫は、その真っ白な紙をそっと指でなぞる。その時、窓から差し込んだ陽光が、紙の上に微かなインクの染みのようなものを映し出した。それはまるで、誰かが必死に書き留めようとして、世界から消されてしまった、忘れられた名前の痕跡のようだった。

街は救われた。だが、その救済そのものが、この世界の新たな『見過ごされた責任』として、歴史の深淵に静かに刻み込まれた。誰のものでもない青空の下で、人々は今日も、その事実を知らずに生きていく。

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