第一章 歪む色彩
澪(みお)の視界では、世界は常に油膜のような光彩に汚されていた。人々が交わす当たり障りのない挨拶、テレビが流すきらびやかな広告、政治家が語る輝かしい未来。そのすべてが、社会という巨大な水槽の表面に浮かぶ、不快な虹色の光――「集合的欺瞞」の光――として彼女の網膜を焼いた。
その光は、嘘が濃密であるほど粘性を増し、鋭利なガラス片のように澪の脳神経を突き刺す。今日もそうだ。人々でごった返す駅前のカフェ。窓際の席で冷めたコーヒーを啜る彼女のこめかみを、鈍い痛みが脈打ちながら侵食していた。人々が形成する「平穏な日常」という巨大な合意が、耳鳴りを伴う強烈な偏頭痛となって彼女を苛む。
息苦しさに耐えかね、目を伏せたその時だった。カタリ、と小さな音がした。向かいの席に座る女性が読んでいた文庫本が、テーブルから滑り落ちていく。だが、それは床に叩きつけられることはなかった。本は、まるで粘度の高い水の中を沈むように、ゆったりと宙を舞い、数秒かけて静かに床へ着地した。
女性は気づかない。周囲の誰も、その異常なスローモーションに気づかない。ただ一人、澪だけが見ていた。本が落下した空間を中心に、欺瞞の光が渦を巻き、まるで煮詰まったシロップのように濃く淀んでいるのを。その光の渦の中心で、現実がほんの少しだけ、悲鳴を上げていた。世界が軋む、最初の小さな音だった。
第二章 粒子の囁き
世界中で頻発するようになったその現象は、「局所的時空湾曲」と名付けられた。情報管理庁は、それを「原因不明だが無害な自然現象」と発表し、人々の不安を巧みに鎮静化させていく。その公式発表が流れるスクリーンは、澪の目には、これまで見たこともないほど禍々しい、燃え盛るような欺瞞の光に包まれていた。
「あれは嘘だわ」
澪は、自分の能力が告げる確信に導かれるように、独自の調査を開始した。湾曲現象が報告された地点を地図上にプロットしていくと、ある共通点が浮かび上がる。すべての現場の近くに、情報管理庁が設置した「大気安定化タワー」が存在するのだ。銀色に輝く巨大な針は、空に向かって「社会の真実」を固定するアンカーだと教えられてきた。しかし、彼女にはそれが欺瞞の光を増幅させ、世界に嘘を塗り固めるための巨大な筆のようにしか見えなかった。
手掛かりを求め、彼女は都市の片隅で古書店を営む老人、ハルキを訪ねた。彼は、かつて情報管理庁に籍を置いていたという噂の男だった。店の奥、黴と古紙の匂いが満ちる薄闇の中、ハルキは埃をかぶった茶をすすりながら、重い口を開いた。
「世界の粒子が、囁いておるのだ。忘れられた真実の重みに耐えきれぬ、と」
彼の言葉は光を帯びていなかった。それは、澪が久しく目にしていなかった、純粋な事実の色をしていた。
第三章 情報管理庁の影
「今のお前たちが享受しているこの豊かさは、すべて巨大な嘘の上に成り立っている」
ハルキは、震える手で一枚の古いデータチップを澪に手渡した。彼が語ったのは、約五十年前、世界を震撼させた「大喪失」と呼ばれる経済破綻の真実だった。公式記録では軽微な金融危機として処理されているが、現実は違った。世界経済は完全に崩壊し、飢餓と暴動が地上を覆い尽くしたのだという。
当時の指導者たちは、その絶望的な現実を隠蔽することを選んだ。彼らは新たに情報管理庁を設立し、歴史を改竄した。大気中の粒子に「我々は常に繁栄してきた」という偽りの情報を刻み込み、物理法則の安定と引き換えに、人々の集合意識を根底から書き換えたのだ。
「大気安定化タワーは、その嘘を維持するための装置だ。人々の記憶から零れ落ちる真実の欠片を消去し、偽りの現実を強化し続けている。だが、その負荷が限界を超えた。世界の物理法則そのものが、嘘の重みに耐えきれなくなっている」
ハルキは咳き込みながら、最後の希望を澪に託した。「旧国立図書館の地下アーカイブ……そこに、『原初の記録結晶(プライマル・アーカイブ・クリスタル)』が眠っている。世界が最初に形成された時の、ありのままの真実が刻まれた石だ。それだけが、管理庁の欺瞞を打ち砕くことができる」
第四章 結晶の在り処
旧国立図書館は、静寂と埃に支配された巨大な墓標だった。情報管理庁によって厳重に封鎖されたその場所へ、澪は一人、足を踏み入れた。警備システムが張り巡らされているはずの廊下は、彼女の目には嘘だらけに見えた。「安全」を示す緑のランプは偽りの光を放ち、「異常なし」と報告するセンサーは欺瞞の波長を垂れ流している。澪はその光の歪みを頼りに、まるで暗闇に敷かれた光の道を歩むように、誰にも気づかれずに地下アーカイブの最深部へとたどり着いた。
分厚い防爆扉の先に、その部屋はあった。中央に置かれた台座の上で、水晶のような石が淡い、純粋な光を放っていた。欺瞞の光に汚されていない、ただそこにあるという事実だけを示す、清浄な輝き。それが原初の記録結晶だった。
澪は恐る恐る、その冷たい表面に指を触れた。
その瞬間、凄まじい情報の奔流が彼女の意識を飲み込んだ。飢えに泣き叫ぶ子供の声。燃え盛る街の熱。絶望した人々の怒号と悲鳴。改竄される前の、五十年前の「大喪失」の真実が、痛みと悲しみを伴って脳内になだれ込んでくる。
「そこまでだ」
背後から響いた冷たい声に、澪は激痛に耐えながら振り返った。そこに立っていたのは、情報管理庁の長官、カガミだった。純白の制服に身を包んだ彼は、一切の感情を殺した目で澪を見下ろしていた。
「その真実が何をもたらすか、分かっているのかね。世界は、秩序という美しい嘘によって支えられている。真実はただ、すべてを破壊するだけだ」
第五章 虚構の崩壊
カガミの言葉は、完璧に磨き上げられた黒曜石のように冷たく、滑らかで、そして強大な欺瞞の光を放っていた。彼は、世界の終わりを憂う救世主のように語る。だが澪の目には、自らが作り上げた虚構の檻を守ろうとする、ただの看守にしか見えなかった。
「この痛みも、悲しみも、嘘の一部だっていうの!?」
結晶から流れ込み続ける、忘れられた人々の記憶が、澪に力を与えた。彼女はふらつきながら立ち上がり、アーカイブの壁に埋め込まれた緊急放送システムの起動パネルに手を伸ばした。
「やめろ!世界が崩壊するぞ!」
カガミの絶叫が響く。だが、澪の指は迷わなかった。彼女は、結晶をシステムの読み取り装置に接続し、起動スイッチを押し込んだ。
世界が、絶叫した。
結晶に刻まれた「絶対的な真実」が電波となって世界中に拡散された瞬間、星々を覆い尽くすほどの欺瞞の光が一斉に断末魔の閃光を放ち、消滅した。次の瞬間、世界の法則を支えていた粒子がその結びつきを失った。
空がガラスのように砕け散り、摩天楼が砂の城のように崩れ落ちる。人々が、車が、あらゆるものが重力から解放されて宙を舞い、空間そのものがねじれて溶けていく。澪の視界は、現実が崩壊する光と闇の渦に飲み込まれ、彼女の意識は深い静寂の底へと沈んでいった。
第六章 誠実さの夜明け
どれほどの時が経ったのか。澪が意識を取り戻した時、世界の轟音は止んでいた。彼女が目にしたのは、信じられないほど静かで、穏やかな光景だった。
崩壊は止まり、すべてが瓦礫と化した街に、澄み切った夜明けの光が降り注いでいる。空には、あの忌まわしい欺瞞の光の欠片すら浮かんではいなかった。人々は呆然としながらも、瓦礫の中から互いを助け起こし、食料を分け合っている。そこに交わされる言葉に嘘はなく、ただ剥き出しの感情と、生きているという事実だけがあった。
世界は、真実を受け入れた。嘘という土台を失った物理法則は一度完全に崩壊したが、人々の「真実と共に生きる」という新たな集合意識によって、ゆっくりと再構築され始めていた。それはかつての世界よりずっと不安定で、脆いかもしれない。だが、どこまでも誠実な世界だった。
そして、澪自身の変化にも気づいた。彼女の目には、もはや欺瞞の光は見えなかった。その代わりに、人々が抱く純粋な感情――悲しみ、希望、慈しみ――が、温かい光の粒子となって穏やかに舞っているのが見えた。彼女の能力は、嘘を暴くための呪いから、人々の誠実さを見守るための祝福へと変わっていた。
澪は、瓦礫の上に立ち、深く息を吸った。空気は澄み渡り、そこにはもう嘘の匂いはしない。彼女は、この新しく生まれた、脆弱だが美しい世界の最初の証人として、ただ静かに、昇り始めた太陽を見つめていた。