沈黙する幾何学と、不完全な歌

沈黙する幾何学と、不完全な歌

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第一章 幸福な都市のバグ

眼下に広がる街は、今日も息が詰まるほど完璧な幾何学模様を描いていた。

アリア・カイは、高層マンションの窓ガラスに指先を押し当てる。

冷やりとした感触。

だが、彼女の網膜が捉えているのは、物理的なガラスの厚みではない。

視界を覆うのは、淡く発光する無数のグリッドライン。

人々の動線、消費行動、心拍数。

それらが複雑に絡み合い、淀みのないフラクタル構造を形成している。

「……美しい」

アリアは無意識に呟く。

声に熱はない。

数式が解けた時のような、冷徹な確認作業に過ぎない。

『アリア様、本日の生体スコアは「A+」。素晴らしい朝です』

室内のスマートスピーカーが、あまりに人間的な抑揚で告げる。

『ドーパミンレベル安定。コルチゾール値、検出限界以下。本日も模範的な市民として貢献しましょう』

「ええ、了解」

アリアは鏡を見る。

整った顔立ち。左右対称の眉。

同僚はかつて、彼女を「精巧なガラス細工」と評した。

その同僚は翌日、データ上の不整合を起こし、郊外の施設へ『配置転換』されたけれど。

アリアは再び街を見下ろす。

第4居住区の上空を走るデータストリーム。

黄金比で構成された螺旋の中に、ふと、視線が止まった。

黒い点。

画素が抜け落ちたような、極小の「空白」。

「……計算が合わない」

眉間に皺が寄る。

不快だった。

感情的な動揺ではない。

コードの閉じ括弧が見つからない時のような、論理的な痒み。

指先で空中のホログラムを操作し、その座標を拡大する。

そこは、昨日まで『適合度C-』の老人が住んでいた区画だ。

エドワード・V。元音楽教師。

街の調和を乱すノイズのような男。

だが今、彼のIDは消失している。

死亡記録も、転出届もない。

ただ、最初からそこに誰もいなかったかのように、データが縫合されている。

「バグね」

アリアはコートを掴んだ。

システムのエラーか、あるいは処理落ちか。

いずれにせよ、この美しい幾何学模様に生じた「ほつれ」を、私は許容できない。

ドアを開けると、廊下の向こうから隣人が歩いてきた。

貼り付けたような満面の笑み。

「おはようございます、アリアさん! 今日も最高の幸福指数ですね!」

「ええ。湿度は52%、気圧は1013hPaで安定しています」

アリアが数値を返すと、隣人の笑顔が一瞬、痙攣したように引きつった。

視線が泳ぐ。

「そ、そうですか。それは……素敵だ」

逃げるようにエレベーターへ急ぐ隣人。

アリアの目には、その背中から立ち上る深紅のオーラが見えていた。

パラメータ名:『恐怖』。

なぜ怯えるのか。

システムは我々を守っているのに。

問いはいつものように、答えのないままデータの海へと溶けた。

第二章 ノイズの結晶

第4居住区の空気は、錆と湿気の匂いがした。

アリアの視覚フィルター越しに見ても、ここのデータ光は薄汚れた灰色にくすんでいる。

「座標到達」

路地裏のアパート。

ドアノブには埃が積もっている。

アリアは電子ロックピッキング・ツールを使うまでもなく、ドアを押し開けた。

鍵は壊されていた。

部屋の中は何もない。

家具も、衣服も、生活の痕跡すら清掃ドローンによって漂白されている。

「痕跡なし。処理完了済み」

アリアは舌打ちしそうになるのを堪え、踵を返そうとした。

その時。

ギィ。

足元の床板が、奇妙な音を立てた。

アリアは足を止める。

視覚データ上、床は平坦だ。

だが、靴底に伝わる感触が、わずかな「傾き」を訴えている。

「……視覚欺瞞?」

彼女は膝をつき、床板を指でなぞる。

木目のパターン。

一見ランダムに見える汚れ。

だが、アリアの目がそれを高速でスキャンした瞬間、ある法則性が浮かび上がった。

これは汚れではない。

バイナリコードだ。

アナログなインクで、木目に擬態させて書き込まれた数列。

「原始的すぎる……」

呆れながらも、彼女はコードに従って床板の隅を強く押した。

カチリ、と乾いた音がして、隠し板が跳ね上がる。

闇の中に、古びた金属製の小箱が埋まっていた。

箱を開ける。

中に入っていたのは、最先端のメモリチップではない。

黄ばんだ紙束と、一本の物理キー。

紙束には、手書きの線と点が無秩序に散らばっていた。

五線譜だ。

修正液の跡。

強く押し付けすぎて破れた箇所。

インクの滲み。

「非効率なデータ配列」

アリアは呟く。

AIが生成する音楽は、脳波を最適化するために厳密に計算されている。

だが、この紙の上のオタマジャクシたちは、まるで泥の中をのたうち回るように不揃いだ。

汚い。

整っていない。

なのに、なぜ目が離せないのか。

アリアは震える指で、紙の端に触れた。

ザラついた感触。

その瞬間、脳の奥で火花が散ったような衝撃が走る。

――もっと指を立てろ、アリア。鍵盤は叩くんじゃない、歌わせるんだ。

誰かの声。

低い、しわがれた男の声。

「……っ!?」

アリアは頭を押さえてうずくまる。

視界のグリッドラインが激しく乱れ、ノイズが走る。

吐き気。

生理的な拒絶反応。

私の記憶メモリに、こんな音声データは存在しないはずだ。

彼女は荒い息をつきながら、もう一つの遺物――物理キーを握りしめた。

冷たい金属の感触が、現実を繋ぎ止めるアンカーのように思えた。

「確認、しなければ」

この「バグ」の正体を。

そして、私の回路に走った、この正体不明の熱の理由を。

第三章 バグの正体

自宅のワークステーション。

アリアは拾ってきた物理キーを、旧式ポートのアダプタにねじ込んだ。

モニターに『アクセス拒否』の文字が赤く点滅する。

政府の深層データベース。

通常のハッキングなら、アリアのスキルでも数時間はかかる堅牢な壁だ。

「セキュリティレベル・オメガ。パスコードを要求」

アリアは、手元の汚れた楽譜を広げた。

ただの紙切れではない。

この不規則な音符の並びそのものが、暗号化鍵だとしたら?

彼女はキーボードを叩く。

文字ではない。

仮想ピアノのインターフェースを呼び出し、楽譜の通りに音を入力していく。

ミ、ソ、ラ、シのフラット……。

指が、勝手に動いた。

アリアはピアノなど弾いたことがないはずだ。

なのに、指の筋肉が、次のキーの位置を知っている。

小指が震え、親指が潜り込む。

不協和音のようなフレーズ。

だが、最後の一音を叩いた瞬間、赤い警告灯が緑に変わった。

『認証完了。ようこそ、被験者管理セクションへ』

画面に文字列が奔流のように溢れ出す。

消された老人、エドワード・Vのプロファイル。

『元・国家主導情操教育プログラム、主任教官』。

そして、一つのフォルダが開く。

『プロジェクト・サイレンス』。

被験者リスト。

幼い子供たちの顔写真が並ぶ。

スクロールする手が止まった。

その中に、無表情でカメラを見つめる少女がいた。

『被験者番号704』。

名前は――アリア。

「私が……被験者?」

詳細データを開く。

『被験者704は、過剰な共感性(エンパシー)を確認。

社会秩序維持のため、外科的処置により大脳辺縁系を抑制。

感情処理リソースを、パターン認識演算能力へ強制置換済み』

アリアの呼吸が浅くなる。

心臓が早鐘を打つ。

「違う……私は、生まれつき、感情が希薄で……論理的な……」

『副作用として、過去の記憶の断片化が発生。定期的なメモリ洗浄を推奨』

嘘だ。

すべてが、作られたもの?

私が誇っていた「冷静な知性」も、「美しい世界を見る目」も。

溢れ出しそうだった感情を、メスで切り刻んで押し込めた結果の「歪み」だったというのか。

――アリア、君の心はバグじゃない。それは歌だ。

また、あの声が脳裏に響く。

エドワード。

私の、先生。

記憶の蓋が、軋みを上げて開いていく。

薄暗い教室。

古いピアノ。

彼の大きな手。

「泣いてもいいんだ」と言って、頭を撫でてくれた温かさ。

「あ、あぁ……」

アリアの喉から、空気の漏れるような音がした。

視界が滲む。

モニターの文字が歪んで読めない。

目から滴り落ちる水分を、指で拭う。

塩辛い。

これが、涙?

非効率な排泄行為。

ただの水分調整エラー。

「違う……」

アリアは嗚咽を漏らした。

これはエラーじゃない。

これは、私が人間であることの証明だ。

エドワードは、これを守るために、命を懸けてこの楽譜を残したのだ。

『警告。不正アクセスを検知。治安維持部隊が急行します』

部屋中のアラームが鳴り響く。

赤い回転灯が、冷たい部屋を血の色に染める。

アリアは立ち上がった。

逃げる?

どこへ?

この管理された檻の外など、どこにもないのに。

彼女は決意を込めて、システムの中枢にコマンドを打ち込む。

全市民のデバイスへの強制割り込み接続。

送信するのは、不正を暴く告発文ではない。

そんな言葉は、すぐに検閲されて消される。

だから、送るのは「音」だ。

論理のフィルターをすり抜け、直接、心臓を揺らす振動。

アリアは、仮想ピアノのボリュームを最大にした。

「聴いて」

震える指を、エンターキーに置く。

「これが、私たちが奪われたもののすべてよ」

最終章 不完全な旋律

都市の夜空を埋め尽くしていた広告ホログラムが、一斉に消滅した。

スマートフォンの画面がブラックアウトする。

街は、死んだような静寂に包まれた。

数秒後。

スピーカーから、ノイズ混じりの音が吐き出された。

ガァン、と耳障りな打鍵音。

リズムは乱れ、音程は不安定。

それは、AIが奏でる完璧なシンフォニーとは対極にある、醜い騒音だった。

街角の人々が顔をしかめる。

「なんだこれ?」

「故障か? 耳が痛い」

「早く止めろ!」

怒号が飛び交う。

多くの人々は、その音を不快な異物として拒絶し、耳を塞いだ。

だが、アリアは止まない。

マンションの一室で、彼女は仮想キーボードを叩き続ける。

指がもつれる。

記憶の中のピアノは重く、今の指先はあまりに軽い。

それでも、彼女は弾く。

エドワードが残した、書きかけの旋律。

(間違ってもいい。外してもいい)

記憶の中の老人が笑う。

(その揺らぎこそが、君の魂の形だ)

不協和音の連なりが、次第に熱を帯びていく。

ただの騒音が、悲鳴のような旋律へと変わる。

叩きつけるような低音は怒り。

震える高音は、押し殺してきた寂しさ。

街の反応が変わった。

「……ねえ、これ」

誰かが足を止めた。

怒っていた男が、ふと手を下ろす。

うずくまっていた浮浪者が、虚空を見上げる。

完璧なリズムではない。

だからこそ、その「ズレ」が、人々の心の奥底にある傷口と重なった。

整然とした日常の中で、誰もが隠し持っていた、言葉にならない息苦しさ。

それが、アリアの拙い演奏と共鳴する。

「なんで……」

広場で立ち尽くす女性の頬を、一筋の雫が伝った。

彼女は自分の涙に驚き、慌てて拭う。

けれど、涙は止まらない。

悲しいわけではない。

ただ、胸の奥の氷が溶け出したような、熱い痛みが込み上げてくる。

ビルの窓から、アリアの部屋に向けてドローンのサーチライトが集中した。

無数の赤いレーザーポインターが、彼女の身体を標的にする。

『直ちに演奏を中止せよ。対象者アリア、危険度S判定』

窓ガラスが振動するほどの警告音。

しかし、アリアには聞こえていなかった。

彼女は今、世界で一番自由だった。

最後の小節。

エドワードが書き残せなかった、空白のエンディング。

アリアは大きく息を吸い、渾身の力で最後のコードを叩きつけた。

ジャァァァァン……。

残響が、夜の空気に溶けていく。

静寂が戻った。

だが、それは以前の「死んだ静寂」とは違う。

誰かのすすり泣く声。

困惑したような囁き。

「すごかった」という、小さな呟き。

ドアが爆破された。

武装した兵士たちが雪崩れ込んでくる。

アリアはゆっくりと椅子から立ち上がり、両手を上げた。

彼女の顔には、涙と汗でぐしゃぐしゃになった、ひどく不格好な笑顔が浮かんでいた。

「……聞こえた?」

兵士の一人が、銃口を向けたまま動けないでいる。

そのバイザーの下の瞳が、僅かに揺れているのをアリアは見逃さなかった。

窓の外では、再び幾何学模様の広告が点灯し始めていた。

システムは修復される。

明日の朝には、この演奏も「一時的なシステム障害」として処理されるだろう。

アリアの存在も、綺麗に削除されるに違いない。

けれど。

街のどこかで、誰かが口笛を吹いているのが聞こえた。

さっきのアリアの旋律。

たどたどしく、不完全な、あのメロディを真似する音。

種は蒔かれた。

コンクリートの隙間に落ちた、小さなノイズの種。

それはやがて芽吹き、完璧な石畳を内側から食い破るだろう。

アリアは静かに目を閉じた。

胸の奥で、まだ音楽が鳴り止まない。

それはもう、誰にも消せない歌だった。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**
アリアはシステムによって感情を抑制され、完璧な都市の「バグ」を探す冷徹な分析者として存在します。しかし、エドワードの痕跡を通じて失われた記憶と感情(痛み、怒り、悲しみ)が呼び覚まされ、自らの「不完全さ」こそが人間性だと気づきます。彼女の行動は、論理から感情への回帰であり、抑圧された自己の解放です。

**伏線の解説**
「精巧なガラス細工」と評されたアリアや隣人の「恐怖」は、完璧な管理社会の歪みと市民の抑圧された感情を暗示。エドワードの「黒い点」や「バイナリコードが隠された床板」は、システムが隠蔽する真実と、アナログな抵抗の意志を示唆。楽譜を弾く際に指が「勝手に動く」描写は、外科的処置で消されたはずの過去の記憶と感覚が蘇る予兆でした。

**テーマ**
この物語は、「完璧な管理」によって感情や記憶が奪われた社会で、「不完全さ」や「欠損」こそが人間性の本質であることを問いかけます。論理と効率の名の下に排除される「ノイズ」や「バグ」の中にこそ、自由な精神と魂の歌が存在し、それがシステムに抗う唯一の力となるという、芸術の根源的な力を描いています。
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