第一章 完璧な涙
水野楓の涙は、一滴零点三ミリリットル、塩分濃度は〇・九パーセントに調整されている。悲しみの度合いに応じて、頬を伝う速度は秒速二ミリから五ミリの間で制御される。声の震えはヘルツ単位で計算され、嗚咽の合間の呼吸は、最も同情を誘うとされるリズムを刻む。楓はプロの「共感代行士」であり、感情は彼女の商品だった。
楓が住むのは、都心を見下ろすタワーマンションの三十階。白とグレーで統一された無機質な部屋には、生活感という名のノイズが一切存在しない。彼女の仕事は、他人の代わりに感情を表現すること。法廷での謝罪、祝賀会での喜びのスピーチ、そして葬儀での涙。クライアントが用意したシナリオと背景情報に基づき、楓は完璧な感情を「演じる」。需要は、この感情さえも効率化を求める社会で、うなぎ登りだった。
月曜の朝、楓のスマートディスプレイに最高ランクの依頼通知が点灯した。クライ-アントは大手製薬会社役員の高遠。依頼内容は「交通事故で亡くなった被害者の遺族への、加害者である息子の代理謝罪」。報酬額のゼロの数が、事の重大さを物語っていた。
資料映像に映る加害者の息子は、二十歳の大学生で、虚ろな目をしていた。事故のショックで心を病み、誰とも口を利けない状態だという。楓の仕事は、この青年の「心からの悔恨と謝罪」を代行することだった。彼女はモニターに映る青年の顔を、まばたきもせず見つめた。彼の僅かな眉間の皺、力なく開いた唇の形、色のない瞳。そこから悲しみの原型を抽出し、自分の肉体に再構築していく。
「被害者は、老夫婦。七十代。郊外で二人暮らし」
AIアシスタントが淡々と情報を読み上げる。楓は目を閉じ、深く息を吸った。肺腑に満ちるのは、殺風景な自室の空調が作り出す乾いた空気。これから彼女は、見ず知らずの人間のために、人生で最も深い悲しみを演じなければならない。それは、彼女のキャリアの集大成となる仕事になるだろうと、この時の楓は確信していた。完璧な涙を、完璧な悲しみを届ける。それが彼女のプロフェッショナリズムであり、唯一の存在価値だったからだ。
第二章 模造の心
被害者である斎藤夫妻の家は、古びた木造平家だった。庭には手入れの行き届いた菊が咲き誇り、縁側には日に焼けた座布団が二つ並んでいる。楓が玄関の引き戸を叩くと、痩身の老人がゆっくりと姿を現した。斎藤良雄。その目は、深い悲しみで淀んでいたが、楓を値踏みするような鋭さも宿していた。
「高遠さんの……代理の方ですな」
良雄の声は、枯れ木が擦れるようにかさついていた。楓は練習通り、深く頭を下げた。声のトーンを落とし、語尾を僅かに震わせる。
「この度は、誠に……申し訳ございませんでした」
最初の訪問は、門前払いに近かった。しかし、楓は日を置いて何度も通った。雨の日には、濡れた髪を気にもせず土下座した。晴れた日には、夫妻が大切にしていた庭の草むしりを申し出た。すべては計算された行動。人の心が、どのような手順で軟化していくか、楓はデータとして知っていた。
やがて、妻の千代が、楓を家に上げてくれるようになった。古びた畳の匂い、醤油の香ばしい香り、障子越しの柔らかい光。楓がこれまで生きてきた無菌室のような世界とは、何もかもが違っていた。千代は、何も言わずに温かいお茶を淹れてくれた。湯呑から立ち上る湯気が、楓の作り上げた完璧な悲しみの仮面を、少しだけ湿らせるような気がした。
「息子さんは……お元気ですか」
ある日、千代がぽつりと言った。楓は息子の憔悴しきった姿を思い浮かべ、練習した通りの沈痛な表情を作る。
「いえ……自分の犯した罪の重さに、今も苦しんでいます。食事も喉を通らず……」
その時だった。楓の胸の奥で、何かが小さく軋んだ。それはシナリオにない、予期せぬノイズ。千代の、皺の刻まれた手が、楓の手をそっと握ったのだ。その温かさに、楓は思わず息を呑んだ。人間の皮膚が、こんなにも温かいものだということを、彼女は忘れていた。
「あの子を、責めないでやってください。……誰よりも苦しんでいるのは、あの子でしょうから」
楓は言葉を失った。被害者であるはずの彼らが、加害者を気遣っている。データにない反応だった。楓の心に、これまで感じたことのない微かな揺らぎが生まれた。それは、完璧に制御されたシステムに生じた、無視できないエラーのようだった。帰り道、楓は初めて、自分の流した涙が本当に自分のものなのか、分からなくなっていた。
第三章 砕かれた仮面
訪問を重ねて一月が経った頃、斎藤夫妻は楓を完全に受け入れたように見えた。高遠からの依頼の最終段階、「示談の成立」まであと一歩だった。楓は、自分の仕事が成功裏に終わることを確信していた。あの日、感じたエラーも、プロとして乗り越えるべき一過性の感傷だと結論づけていた。
その日、楓が斎藤家の居間でいつものように頭を下げていると、背後の襖が勢いよく開いた。
「いつまでこんな茶番を続けるつもりなの!」
鋭い声とともに現れたのは、四十代くらいの女性だった。険しい目つきは、千代によく似ている。東京で暮らしているという、夫妻の一人娘・美咲だった。
美咲は、楓を頭の先からつま先まで見下ろすと、冷たく言い放った。
「あなた、『共感代行士』でしょ。うちの両親が、そんな便利なサービスを頼むような相手に殺されたなんて、反吐が出る」
空気が凍りついた。楓の背筋を、冷たい汗が伝う。良雄と千代は、俯いたまま何も言わない。
「あなたの謝罪は完璧よ。声の震えも、涙の量も、タイミングも。でもね、完璧すぎるのよ。マニュアル通りで、心が一つも動いていない。その完璧さが、何よりも人間を馬鹿にしているって、どうして分からないの!」
美咲の言葉は、鋭利な刃物となって楓の胸に突き刺さった。楓が誇りとしてきた技術、完璧な感情の再現。それが、最大の侮辱だというのか。
「違う……私は、誠心誠意……」
絞り出した声は、自分でも驚くほど上ずっていた。すると、それまで黙っていた千代が、静かに顔を上げた。その目には、諦めと深い悲しみが浮かんでいた。
「楓さん。……私たちは、気づいていましたよ」
千代の言葉は、楓にとって死刑宣告よりも重かった。
「この人が、本当の加害者じゃないことくらい、分かっていました。でも……それでもよかったんです。誰でもいいから、ただ『ごめんなさい』と言って、頭を下げてほしかった。息子のことを忘れないで、悲しんでくれる人が、この世にいると思いたかった。……私たちは、あなたのその『完璧な悲しみ』に、縋っていただけなんです」
楓は、頭を殴られたような衝撃に襲われた。自分のしてきたことは何だったのか。彼らの心を癒すどころか、その深い孤独と絶望を利用し、偽りの安らぎを与えていただけではないか。完璧な代行は、本物の心を届けるどころか、彼らが人間としての尊厳を捨ててでも「形」に縋らざるを得ない状況を、より残酷に浮き彫りにしただけだった。
楓の作り上げた完璧な仮面が、音を立てて砕け散った。涙が、今度は計算も制御もなく、止めどなく溢れ出た。それは塩分濃度も、流れる速度も、何もかもが不格好な、ただの嗚咽だった。プロとして、初めての完全な失敗。そして、人間として、初めて流す本物の涙だった。
第四章 不器用な言葉
翌日、楓は高遠に契約の解除を申し出た。高額な違約金が発生したが、どうでもよかった。そして彼女は、もう一度だけ斎藤家を訪れた。手土産も、シナリオもない。ただ、「水野楓」として、そこに立った。
「昨日は……申し訳ありませんでした」
玄関先で、楓は深く頭を下げた。声は震え、言葉は何度も途切れた。
「私は、あなたたちの気持ちを……何も分かっていませんでした。仕事だからと、人の心を……弄ぶようなことをしました。本当に……本当に、ごめんなさい」
それは、共感代行士として失格の、あまりにも不器用な謝罪だった。完璧な抑揚も、計算された涙もない。ただ、胸の奥から湧き上がる、痛みと後悔だけがそこにあった。
良雄と千代は、何も言わずに楓を見ていた。やがて、良雄がゆっくりと口を開いた。
「……顔を上げなさい」
楓がおそるおそる顔を上げると、二人の穏やかな、しかしどこか寂しげな目があった。
「あなたのその言葉が聞きたかったのかもしれない。……誰かの作った言葉じゃなく、あなたの言葉が」
許すでも、許さないでもない。ただ、事実として、彼らは楓の不器用な心を、静かに受け止めてくれた。楓は、その場で再び泣き崩れた。
数週間後、水野楓は「共感代行士」を廃業した。積み上げたキャリアも、無機質で完璧なマンションも、すべて手放した。新しい仕事も、住む場所もまだ決まっていない。
楓は今、雑踏の中に立っている。行き交う人々の顔には、様々な感情が浮かんでいた。怒り、喜び、憂い、無関心。以前の彼女なら、それらをすべてデータとして分類し、分析していただろう。だが、今は違う。一つ一つの表情の奥にある、不器用で、ままならない、本物の心を想像しようとしていた。
社会はこれからも、効率を求めて感情さえも外部委託していくのかもしれない。楓一人がこの流れに抗ったところで、何も変わらないだろう。だが、彼女は選んだのだ。完璧な模造品になることをやめ、傷つき、迷いながらも、自分の心で誰かと向き合うことを。
冷たい風が楓の頬を撫でる。彼女は小さく息を吸い込み、人々の流れの中へと、不確かな一歩を踏み出した。その表情には、これまでの能面のようなプロの顔ではなく、不安と、そして一筋の確かな光が宿っていた。