墨彩のレクイエム

墨彩のレクイエム

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第一章 墨色の凶兆

江戸の町は、いつからか色を失っていた。少なくとも、表具師見習いの勘九郎以外のすべての人間にとっては、そうだった。人々は灰色の空の下、濃淡の異なる墨で描かれたような景色の中を、影法師のように行き交う。彼らにとって、それが世界のすべてだった。だが、勘九郎の眼にだけは、この無彩色の世界に、本来あるべき色彩が映っていた。屋根瓦の鈍い銀鼠色、柳の葉の芽吹く若草色、娘の着物の裾を彩る茜色。それは彼だけの秘密であり、誰にも理解されない孤独の源だった。

師である源斎の工房「彩玄堂」の隅で、勘九郎は息を殺して古い掛け軸と向き合っていた。裕福な商人から預かった、名もなき絵師による山水画。一見、何の変哲もない水墨画だ。だが、勘九郎の眼には、岩肌を流れる細い滝筋に、微かに明滅する一条の光が見えた。それは、これまで彼が見てきたどんな色とも違う、生命そのものが削り取られていくような、儚く、病的な「薄藍色」だった。まるで、蛍の最後の輝きのように、ふっと消えかけては、また弱々しく灯る。

「勘九郎、どうした。手が止まっているぞ」

背後から、師である源斎の静かだが鋭い声が飛んだ。勘九郎はびくりと肩を震わせ、慌てて筆を握り直す。

「申し訳ありません、師匠。この絵の、傷みがひどいもので…」

嘘だった。傷みなどではない。これは、何かの「死」の兆候だ。彼にはそれが直感でわかった。この色は、人の魂にまとわりつく淀みであり、生命力を吸い上げて枯らしていく呪いのようなものだ。

三日後、その予感は最悪の形で現実のものとなった。掛け軸の持ち主であった商人が、自らの店で亡くなっているのが見つかったのだ。目立った外傷はなく、病の気配もなかったという。ただ、まるで生きる気力の一切を抜き取られたかのように、虚ろな表情で息絶えていた、と噂は伝えてきた。

役人が彩玄堂にも事情を聞きに来たが、誰も掛け軸と商人の死を結びつけはしなかった。だが、勘九郎だけは違った。彼は知っていた。あの薄藍色の明滅が、商人の命の灯火であったことを。そして、それが完全に消えた時、持ち主の命も尽きたのだということを。

勘九郎は、工房の隅で震えていた。自分の眼に映るこの「色」は、一体何なのだ。それはただ美しいだけのものではない。人の生と死を映し出す、恐ろしい鏡でもある。孤独は恐怖に変わり、彼の心をじわじわと蝕み始めていた。灰色の江戸の町に、新たな凶兆が、墨を落としたように静かに滲み始めていた。

第二章 無彩色の共鳴

商人の一件以来、勘九郎は町を歩く人々の姿に、あの不吉な薄藍色を探すようになった。そして、恐れていた通り、それは一つではなかった。大店の番頭、長屋の老婆、評判の芸妓。彼らの持ち物や、時にはその身にまとう着物の一端に、同じように消えかけの光が寄生していた。そして、その色が見えた者は、例外なく数日のうちに、商人と同様、魂が抜けたように生気を失っていった。

人々はそれを「気鬱の病」と呼び、流行り病の一種だと噂した。しかし、勘九郎にはわかっていた。これは病ではない。目に見えぬ何者かによる、静かな「捕食」なのだと。だが、色の見えぬ誰に、この事実を伝えられようか。狂人扱いされるのが関の山だ。彼は無力感に苛まれ、己の特異な能力を呪った。

そんなある日、勘九郎は神社の境内で、一人の盲目の女性と出会った。名を小夜といい、彼女は筑前琵琶を奏でて生計を立てていた。勘九郎が虚ろに境内の石段に座っていると、彼女が隣に腰を下ろし、静かに語りかけてきたのだ。

「お侍様。あなたの心からは、雨上がりの土のような、寂しい音がします」

その言葉に、勘九郎は心臓を掴まれたような衝撃を受けた。彼女の目は何も映していないはずなのに、まるで彼の魂の奥底まで見透かしているかのようだった。

勘九郎は、何かに導かれるように、自分の秘密を、色のことを、そして町で起きている奇妙な出来事を、堰を切ったように小夜に語ってしまった。誰にも話せなかった孤独と恐怖が、言葉になって溢れ出した。

小夜はただ黙って、彼の言葉一つひとつに耳を傾けていた。そして、すべてを話し終えた勘九郎に、静かにこう言った。

「私には、あなたの言う『色』は見えませぬ。ですが、わかります。この頃、町の音が変わりました。人々の発する音から、張りが失われ、まるで緩んだ弦のように、か細く、虚ろに響くのです。それは、あなたが言う『色が消える』ということと同じなのかもしれませぬ」

小夜は目が見えない代わりに、世界のすべてを「音」として捉えていた。喜びの音、悲しみの音、生命の音。そして今、町は生命の音が失われゆく「不協和音」に満ちているという。

初めてだった。自分の感じている世界の異変を、理解してくれる者に出会えたのは。勘九郎の眼に、熱いものがこみ上げてきた。彼が見る「色彩」と、彼女が聴く「音色」。二つの異なる感覚が、同じ一つの真実を指し示していた。

「小夜殿…俺は、どうすれば」

「あなたのその眼は、きっと、この澱んだ音の源を突き止めるためにあるのでしょう。私には、あなたの道しるべとなる音を聴き分けることができます」

無彩色の世界で、二つの孤独な魂が共鳴した瞬間だった。勘九郎は、呪いだと思っていた自らの力が、初めて意味を持つかもしれないと感じ始めていた。

第三章 褪せた師の魂

勘九郎と小夜は、二人で事件の真相を追い始めた。勘九郎が街角に薄藍色の淀みを見つけると、小夜はその場所から発せられる微かな「歪んだ音」を辿る。それはまるで、見えざる糸を手繰り寄せるような、根気のいる作業だった。

調査の末、二人は奇妙な共通点に気づく。色が失われた人々は皆、ここ数ヶ月の間に、彩玄堂に何らかの仕事を依頼していたのだ。そして、彼らが持ち込んだ品々は、どれも強い想い出や情念が込められたものばかりだった。形見の櫛、祝言の際の掛け軸、我が子の手形が押された色紙。

まさか。勘九郎の心に、信じたくない疑念が芽生える。師である源斎は、江戸で最高の腕を持つと謳われる表具師だ。その彼が、こんな惨たらしいことに関わっているはずがない。だが、手繰り寄せた糸は、すべて彩玄堂へと繋がっていた。

ある嵐の夜、勘九郎は意を決して彩玄堂の奥にある源斎の私室へと忍び込んだ。小夜は外で見張り役を務めてくれていた。部屋には、源斎が手掛けた数々の名品が並んでいる。その中に、ひときわ異彩を放つ、黒漆の小箱があった。勘九郎がそれに近づくと、箱から溢れ出す圧倒的な薄藍色の光が、彼の目を焼いた。それは、これまで見てきたどの淀みよりも濃く、深く、絶望的な色をしていた。

「それを、開けるでない」

背後から、氷のように冷たい声が響いた。源斎だった。いつからそこに立っていたのか。その手には、表具に使う鋭い裁ち包丁が握られていた。

「師匠…これは、一体…」

「お前にも、見えるようになったか。勘九郎」

源斎の声には、諦めと、そして深い哀しみが滲んでいた。「その呪われた眼が」

源斎は、静かに語り始めた。彼もまた、かつては勘九郎と同じように、世界を色彩豊かに見ることのできる人間だった。彼はその力を使い、物の魂に色を吹き込む、唯一無二の表具師となった。しかし、十年前に最愛の妻を病で亡くした時、彼の世界からすべての色が消え失せた。喜びも、希望も、愛情も、すべてが灰色に塗りつぶされた。

「色が在る世界は、それを失った時の絶望もまた、鮮烈なのだ。ならば、初めから無ければよい。誰もが私と同じ、痛みも感動もない、静かな無彩色の世界で生きれば、悲しむこともない」

源斎は、妻の形見であるその小箱に、自らの絶望を封じ込めた。だが、その強すぎる負の感情は、人の情熱や希望といった「色」を喰らう、目に見えぬ蟲「虚彩蟲(きょさいちゅう)」を生み出してしまったのだ。彼は客が持ち込む想いのこもった品々を媒体に、虚彩蟲を江戸の町に解き放っていた。すべての人々から色を奪い、自分と同じ灰色の世界へと引きずり込むために。

「師匠…あなたは、間違っている!」

勘九郎の叫びは、雷鳴にかき消された。源斎の眼は、もはや何の色も映さない、深い闇に沈んでいた。祝福であるはずの力は、絶望によって呪いへと転じていた。勘九郎が心から尊敬していた師の魂は、とうの昔に色褪せてしまっていたのだ。

第四章 心に灯す極彩色

源斎はゆっくりと裁ち包丁を構えた。「お前も、いずれ私と同じ絶望を知る。その前に、この私が楽にしてやろう」。その目は狂気に満ちていた。勘九郎は後ずさるが、逃げ場はない。武術の心得などない彼に、抗う術はなかった。

その時、工房の入り口から、凛とした琵琶の音が響き渡った。小夜だった。彼女は嵐の中、静かに座り、一つの古い曲を奏で始めた。それは、源斎が若かりし頃、今は亡き妻のために作ったという恋の唄だった。

その音色に、源斎の動きが一瞬止まる。彼の心の奥底に眠っていた記憶が、音によって呼び覚まされたのだ。勘九郎はその隙を逃さなかった。彼は源斎に飛びかかるのではなく、工房の片隅にあった、一枚の古びた掛け軸を手に取った。それは、源斎が妻を描いた唯一の肖像画だった。長い年月で絵の具は剥がれ落ち、もはや誰の目にも白黒の染みにしか見えなかった。

「師匠!見てください!奥方様のこの着物の色は、こんなにも鮮やかな紅葉色だったじゃないですか!あなたの瞳には、こう見えていたはずだ!」

勘九郎は叫びながら、その掛け軸に己の指を滑らせた。それは賭けだった。彼はただ色を見るだけでなく、表具師として、色を扱う者として、自らの想いを「色」として物に宿すことができるのではないか。

勘九郎が指でなぞった軌跡に、奇跡が起きた。色褪せた着物の部分に、燃えるような、それでいて温かい「紅葉色」が、ふわりと灯ったのだ。それは勘九郎の想像の色ではない。源斎がかつて妻に向けた、愛情そのものの色だった。絵の中に眠っていた想いの欠片を、勘九郎の力が呼び覚ましたのだ。

琵琶の音色が、失われた記憶を呼び覚ます。勘九郎が灯した色が、失われた愛情を可視化する。

源斎の乾ききった瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。その涙は、灰色ではなかった。勘九郎の目には、それは透明な中に微かな温かい光を宿した「琥珀色」に見えた。

「ああ…お前は…こんなにも、美しかったか…」

源斎は崩れ落ち、妻の肖像画を抱きしめて嗚咽した。彼が絶望を手放した瞬間、黒漆の小箱が甲高い音を立てて砕け散った。虚彩蟲は、宿主である源斎の絶望が消えたことで、拠り所を失い、塵となって消滅していった。

事件は静かに幕を閉じた。源斎は自らの罪を償うため、彩玄堂を閉じ、巡礼の旅に出た。人々を襲っていた気鬱の病は、何事もなかったかのように消え去った。

だが、江戸の町に色が戻ることはなかった。世界は変わらず、勘九郎以外の人間にとっては無彩色のままだ。

勘九郎は、彩玄堂を継ぎ、一人で工房を切り盛りしている。彼はもう、自分の能力を呪わない。彼は知ったのだ。世界の色は、ただそこにあるのではない。人の心の中に生まれ、灯すものなのだと。

時折、工房には小夜が訪れる。彼女は勘九郎の隣に座り、彼の仕事の音を静かに聴いている。

「勘九郎さん。今、あなたの心からは、とても澄んだ、春の陽だまりのような音がします」

「そうか。俺の眼には、お前の琵琶の音が、きらきらと輝く七色の光に見える」

二人は顔を見合わせて、穏やかに微笑んだ。

勘九郎は、これからもこの灰色の世界で、ただ一人、色を見続けるだろう。そして、色褪せた人々の心に、その想い出に、新たな色を灯し続けるのだ。彼の筆先から生まれる極彩色は、誰の目にも見えないかもしれない。だが、その温もりは、きっと誰かの心を照らす小さな灯火となる。色彩なき世界で、心の色を描く表具師の物語は、まだ始まったばかりだった。

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