第一章 色褪せた子守唄
リョウのヘッドセットに、また一つ、警報が鳴り響いた。都市を覆う不可視のドームに、敵国からの「忘却波」が衝突した音だ。それは物理的な衝撃ではなく、精神を揺さぶる不協和音。人々の記憶という繊細な楽譜から、いくつかの音符を乱暴に消し去っていく暴力の調べ。
「セクター・ガンマ7、記憶欠損率上昇! 対象は民謡『夕凪の唄』!」
管制室の空気が張り詰める。リョウはコンソールを叩き、防御フィールドの周波数を微調整した。彼はこの街を守る「記憶保護官」。歴史、文化、個人の思い出。形のない、しかし人間を人間たらしめる最も重要な資産を守るのが彼の使命だった。
この戦争が始まって十年。砲弾が飛び交うことはない。血が流れることもない。ただ、静かに、確実に、人々は昨日までの自分を失っていく。敵国「ヴェリタス」は、我々の文化の根幹を成す記憶を消し去り、その空白に彼らの歴史と価値観を上書きすることで、我々の国「メモリア」を内側から支配しようとしていた。静かなる、魂の侵略。それが現代の戦争の姿だった。
「防壁、安定しました。被害は最小限に……」
オペレーターの声に安堵のため息が漏れたのも束の間、リョウの個人端末がけたたましく振動した。表示された名前に、彼の心臓が冷たい手で掴まれたように凍りつく。幼馴染のハナからだった。
駆けつけたハナのアパートは、いつも通り窓辺に花が飾られ、穏やかな空気に満ちていた。だが、ピアノの前に座る彼女の顔は、見たこともないほどに青ざめていた。
「リョウ……思い出せないの」
彼女の声は震えていた。
「母さんが教えてくれた、あの歌が……」
ハナの指が、ためらうように鍵盤に触れる。彼女は街で最高の歌い手だった。特に、この地方に古くから伝わる『夕凪の唄』は、彼女の母親から受け継いだ、魂そのもののような歌だったはずだ。
「どんなメロディで、どんな歌詞だったか……何もかもが、まるで最初からそこになかったみたいに、消えてしまったの」
その瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。頭の中に静電気が走り、大切なアルバムのページが真っ白に塗りつぶされていくような感覚。先ほどの忘却波は、最小限の被害ではなかった。それは最も残酷な形で、最も大切な人の心を抉っていた。
リョウは唇を噛み締めた。守れなかった。憎しみが、黒い炎のように胸の中で燃え上がった。ヴェリタスへの、そして何もできなかった自分自身への憎しみ。彼はハナの震える肩を抱きしめながら、夜の闇に沈む敵国の方角を睨みつけた。必ず、この戦争を終わらせる。どんな手を使っても、これ以上、誰の心からも大切な歌を奪わせはしない。その決意は、彼の魂に深く、そして鋭く刻み込まれた。
第二章 境界線の向こう側
復讐にも似た使命感を胸に、リョウは危険な任務に志願した。最新型の忘却波の発信源を特定し、破壊する。そのためには、敵国ヴェリタスの首都中枢に潜入する必要があった。彼は身分を偽り、数週間かけて記憶の検閲が比較的緩い国境の交易都市から、厳重な警戒網を縫ってヴェリタス領内へと足を踏み入れた。
想像していた敵国は、灰色の空の下、無表情な人々が支配者の命令に従うだけの無機質な場所だった。しかし、リョウが目にした光景は、その先入観を静かに、しかし根底から揺さぶり始めた。
街角では、メモリアのそれとは違う、どこか哀愁を帯びた旋律を奏でる辻音楽師がいた。市場には、嗅いだことのないスパイスの香りが立ち込め、人々は活気に満ちた表情で言葉を交わしている。建物や衣服のデザインは違うが、そこには確かに、豊かな文化と、それを愛する人々の暮らしがあった。
リョウは潜入工作員として、ある老人の家に身を寄せることになった。主のエリアスは、歴史を研究する学者だという。彼はリョウの偽りの身の上を信じ、親切に接してくれた。
ある夜、エリアスは古い書物をリョウに見せながら、静かに語り始めた。
「この国も、多くのものを失ったよ」
彼の目には、深い悲しみの色が浮かんでいた。
「かつて、我々の祖先が詠んだ叙事詩があった。星々の運行と大地の恵みを讃える、壮大な詩だ。だが、メモリアからの『浄化波』によって、その詩を記憶している者は、今やこの国には誰もいなくなってしまった……」
浄化波。それは、メモリア側が使う記憶攻撃の呼称だった。自分たちは文化を守る防衛者であり、敵は侵略者だと信じていた。だが、エリアスの言葉は、鏡の向こう側から自分たちの姿を見せつけられているような感覚をリョウに与えた。
「我々はただ、我々の物語を守りたいだけなのだ。君たちの国が、我々の子供たちから父親の顔を、母親の声を奪っていくように、我々もまた、奪われているのだよ」
その言葉は、リョウの心に重い楔となって打ち込まれた。憎むべき敵。彼らもまた、自分たちと同じように、失うことを恐れ、守るために戦っている。ハナが『夕凪の唄』を失ったように、この国の誰かも、愛する詩を失って涙を流したのだ。
正義は、一体どこにあるのだろうか。境界線を越えた先で、リョウが長年抱き続けてきた確信は、音を立てて崩れ始めていた。彼の胸には、憎しみとは異なる、もっと複雑で苦しい感情が渦巻き始めていた。
第三章 虚構の塔
混乱する心を抱えながらも、リョウは任務を続行した。エリアスから得た情報と、独自に集めたデータを組み合わせ、ついに彼は忘却波の発信源を突き止める。それは首都の中心に聳え立つ、天を突くような白亜の塔だった。「真理の塔」と呼ばれ、ヴェリタスの国民からは平和と叡智の象徴として崇められている建物だ。
厳重な警備を掻い潜り、リョウは塔の最上階にあるという制御室を目指した。通路は静まり返り、不気味なほどの静寂が彼の不安を煽る。ようやくたどり着いた制御室の扉を、彼は特殊なツールで静かに開いた。そして、息を呑んだ。
彼の目に飛び込んできた光景は、およそ信じがたいものだった。
巨大な球状の装置が青白い光を放ち、その周囲で複雑なコンソールを操作しているのは、ヴェリタスの軍人や技術者だけではなかった。その中に、見慣れたメモリアの軍服を着た人間が、何人も混じっていたのだ。彼らは敵であるはずのヴェリタスの者たちと、まるで長年の同僚であるかのように、言葉を交わし、連携して作業を進めている。
そして、その中心に立っていた人物を見て、リョウは全身の血が凍りつくのを感じた。
「司令……?」
そこにいたのは、彼にこの潜入任務を命じたメモリア軍の最高司令官、アキラその人だった。アキラはリョウの存在に気づくと、驚くでもなく、むしろ全てを諦めたような、疲れた笑みを浮かべた。
「……気づいてしまったか、リョウ君」
足元の地面が崩れ落ち、信じていた空がガラスのように砕け散る音が聞こえた。
アキラの口から語られた真実は、リョウの世界を完全に破壊した。
この戦争は、両国の指導者層が共謀して仕組んだ、巨大な虚構だった。目的は、国民のコントロール。両国は過去に、資源の枯渇と社会不安から、体制崩壊の危機に瀕していた。そこで指導者たちは、共通の「敵」を作り出し、国民の不満を外に向けさせることを画策したのだ。
「忘却波」や「浄化波」は、互いの国を滅ぼすための兵器ではない。それは、国民から不都合な記憶――例えば、かつて両国が平和に交流していた時代の記憶や、現体制への不満の火種となりかねない過去の革命の記憶などを、選択的に消し去るための「調整ツール」だった。憎しみを植え付け、互いを恐れさせることで、人々を統制し、支配し続ける。それが、この静かなる戦争の、おぞましい正体だった。
「ハナ君のことは、すまなかった。あれは調整ミスだ。想定外の被害だった」
アキラは淡々と告げた。その言葉に、リョウの中で何かが切れた。ハナの涙も、エリアスの悲しみも、自分の抱いてきた使命感も、全てがこの醜い芝居のための、些細な「コスト」でしかなかったというのか。
「……ふざけるな!」
リョウの絶叫が、虚構の塔に空しく響き渡った。信じていた正義は、初めからどこにも存在しなかった。
第四章 想起のオーロラ
絶望の淵で、リョウの思考は燃え盛る炎のように明晰になった。この塔を破壊すれば、戦争は終わるかもしれない。だが、真実を知らない人々は、指導者たちの新たな嘘によって、再び別の憎しみに囚われるだろう。根本的な解決にはならない。
ならば、どうする。
彼の視線が、青白く輝く巨大な装置に向けられた。記憶を消す装置。それは逆に言えば、記憶を「与える」ことも可能なのではないか。
リョウは銃を構え、驚愕するアキラたちを牽制しながら、制御コンソールへと向かった。ヴェリタスの技術者たちが何かを叫んでいるが、彼にはもう届かない。彼はハッキングの知識を総動員し、システムの深層部へとアクセスした。そこには、両国の指導者たちが「有害」と判断し、消去してきた膨大な記憶のデータが、アーカイブとして眠っていた。
国境を越えて愛を育んだ恋人たちの記憶。共に祭りを開き、同じ星空を見上げた友好の記憶。互いの国の詩を詠み、音楽を奏で合った文化交流の記憶。そして、権力に抗い、自由を求めて手を取り合った人々の革命の記憶。
「やめろ、リョウ君! 世界が混乱に陥るぞ!」
アキラの悲鳴を背に、リョウはアーカイブされた全ての記憶データを解放し、増幅するコマンドを実行した。
「混乱するのは、あなたたちが作った偽りの世界だ。人々は、思い出すべきなんだ。自分たちが何を奪われてきたのかを!」
リョウがエンターキーを叩いた瞬間、塔の頂点から、七色の光が奔流となって空に放たれた。それはまるで、極北の空に現れるオーロラのように、夜空をどこまでも覆い尽くしていく。
それは、ただの光ではなかった。想起のオーロラ。忘れられていた真実の光だった。
メモリアとヴェリタス、両国の全ての人々の脳裏に、失われたはずの風景が、声が、温もりが、洪水のように流れ込んでいく。
戦場で対峙していた兵士たちが、突然、手に持った武器の意味が分からなくなり、目の前の敵兵の顔に、遠い昔に遊んだ友の面影を見る。街では、人々が聞いたこともないはずの、しかし魂が知っている懐かしい歌を口ずさみ始め、涙を流す。
ハナの部屋のピアノから、『夕凪の唄』の完璧なメロディが、再び流れ始める。彼女は泣きながら、そして微笑みながら、失われた歌を取り戻していた。
戦争は、終わった。
塔の制御室で立ち尽くすリョウは、窓の外に広がる光景を見つめていた。偽りの平和は終わり、真実と共に生きる、困難な時代が始まるだろう。人々は、自分たちが長年、偽りの憎しみに囚われていたという事実と向き合い、苦しむことになるかもしれない。
だが、空に広がる想起のオーロラは、確かに希望の色をしていた。
リョウは、かつての純粋な使命感とは違う、もっと複雑で苦い、しかし確かな責任をその胸に抱いていた。これから始まるであろう混乱と再生の時代を見つめながら、彼は静かに呟いた。
「ここからが、本当の始まりだ」
その声は、新たな世界の産声のように、夜明け前の静寂に溶けていった。